第一話
母を見送った日の夜、ルイザはひどく静かな部屋で、一人きりになった。
葬儀は無事に終わった。遠方に暮らしている弟のレナードも妹も、それぞれ家族を連れて帰ってきた。親戚への挨拶も、使用人たちへの礼も、母が残した細かな品々の整理も済ませた。
最後まで慌ただしかった。
「姉さん、本当にありがとう」
レナードは帰り際、何度もそう言った。
「母さんのこと、全部姉さんに任せてしまったね」
「そんなことないわ。あなたも忙しかったでしょう」
「でも……姉さんがいてくれて助かったよ」
その言葉に、ルイザはいつものように笑った。
「私は長女だもの」
そう答えることに、長いあいだ何の疑問も持っていなかった。母が体調を崩してからは、なおさらだった。
医師との相談。薬の管理。食事の手配。親戚への連絡。母の好きだった花を切らさないこと。
夜中に咳き込めば水を持っていき、眠れないと言えばそばに座った。弟妹たちにもそれぞれ生活がある。レナードには妻と幼い子どもがいて、妹も嫁ぎ、遠い土地で暮らしている。
だから、自分がするのが一番いい。
ルイザはずっと、そう思っていた。それで困ったことなどない。少なくとも、困っていると思ったことはなかった。
けれど、すべてが終わった夜。
ルイザは母の寝室だった部屋の前で立ち止まった。
扉を開ける必要は、もうない。薬の時間を確認する必要も、明日の食事を考える必要もない。誰かに呼ばれる予定もなかった。
それが、ひどく不思議だった。
「……明日、何をしましょう」
口に出してみる。
返事はない。当然だった。
ルイザは三十八歳だった。
若い頃には縁談もあった。けれど、その頃には父が亡くなり、母の体調も少しずつ悪くなっていた。レナードも妹もまだ若く、家のことを任せられる者も少なかった。
今は結婚など考えられない。
そう断っているうちに、いつの間にか縁談そのものが来なくなった。
別に後悔しているわけではない。家族を大切にしてきたことを、間違いだったとも思わない。
ただ、レナードにも妹にも自分の家族がある。母もいなくなった。
そしてルイザには、明日しなければならないことが何もなかった。
それが思いのほか、心細かった。
三日後。
見慣れない紋章のついた馬車が、ハーグレーヴ伯爵家を訪れた。
「アシュフォード侯爵家から?」
応接室で封書を受け取ったルイザは、思わず聞き返した。
「はい。故ヴィオラ・アシュフォード侯爵夫人の遺言に関することでございます」
やってきたのは、侯爵家の法務を預かる老紳士だった。
ヴィオラ・アシュフォード。
その名前を聞いただけで、ルイザの胸に懐かしさが広がる。
「ヴィオラ様が……亡くなられたのですか?」
「先月、眠るように」
「そう……」
最後に会ったのは、二年ほど前だった。母の体調が悪化してからは、なかなか遠出もできなかった。
ヴィオラは母よりずっと年上で、ルイザが子どもの頃から知っている女性だった。アシュフォード侯爵の未亡人でありながら、晩年は王都を離れ、郊外の別邸で静かに暮らしていた。
聡明で、少し変わっていて、子ども扱いをしない人だった。
『まあ、またレナードに譲るの?』
『だって、この子が食べたそうにしているから』
『あなたは?』
『私は平気です』
『平気かどうかではなくて、食べたいかと聞いているのだけれど』
幼い頃、焼き菓子をレナードへ渡そうとした時のことだ。
あの時は、ずいぶん変なことを聞く人だと思った。
思い出して、ルイザはほんの少し笑った。
「それで、遺言というのは……?」
「ヴィオラ様は、郊外に所有していた屋敷を、ルイザ様へ遺されました」
「……私に?」
今度こそ、聞き間違いだと思った。
「はい」
「どうして?」
「理由については、こちらに」
老紳士が一通の封筒を差し出す。
見覚えのある、少し右上がりの文字。
――ルイザへ。
封を開けると、一枚の便箋が入っていた。
『親愛なるルイザ。
あなたがこれを読んでいる頃には、私はもう、この世にはいないでしょう。
こういう書き出しは少々辛気臭くて嫌ですね。
ですから、さっそく本題に入ります。
郊外の屋敷を、あなたに遺します。』
そこまで読んで、ルイザはますます分からなくなった。
『ただし、一つ条件があります。
一年間、その屋敷で暮らしてください。
そして、その一年間。
何もしないこと。』
「……何もしない?」
思わず声が漏れた。
老紳士は何も言わず、視線を下げた。
便箋には続きがある。
『掃除をしてはいけません。
使用人の仕事を手伝ってもいけません。
家族の問題を片づけるために帰ってもいけません。
帳簿の管理も不要。
庭師への指示も不要。
屋敷の修繕について考える必要もありません。
とにかく、一年間。
あなたは、誰の役にも立たなくて結構です。』
「…………」
ルイザは三度読み直した。
意味は変わらなかった。
「これは……本当にヴィオラ様がお書きになったものですか?」
「間違いございません」
「何かの冗談では?」
老紳士がわずかに口元を緩めた。
「ヴィオラ様ですので、冗談が含まれていないとは申し上げられません」
「……でしょうね」
思わず答える。
けれど、まだ続きがあった。
『あなたならきっと、
「何もしないなんて、そんなわけにはいきません」
と言うでしょう。
ですから、屋敷には少し細工をしてあります。
安心してください。
あなたが働かなくても、困る者はおりません。
むしろ困るのは、働こうとしたあなたの方でしょう。
詳しくは、行ってからのお楽しみです。』
嫌な予感しかしなかった。
『一年を過ごしたあと、屋敷を正式に相続するかどうかは、あなたが決めてください。
売っても構いません。
住み続けても構いません。
誰かに譲っても構いません。
ただし、その答えを決めるのは一年後です。
今は決めなくてよろしい。
ルイザ。
あなたには、
何もしないことが一番難しいでしょうから。』
最後の一文で、ルイザはしばらく動けなくなった。
叱られたわけでもない。可哀想だと言われたわけでもない。それなのに、胸の奥のどこかを、そっと指で押されたような気がした。
「一年……」
長い。
あまりにも長い。
「ご辞退することは?」
「可能です」
老紳士は答えた。
「ただし、その場合、屋敷はヴィオラ様の指定された慈善団体へ寄贈されます」
「そうですか」
それならそれでも構わない。そもそも、ルイザは屋敷など欲しいと思ったことがない。
この家に住み続けることだってできる。レナードは伯爵位を継いでいるが、今は領地の別邸を生活の拠点にしている。ルイザがここにいても、特に問題はなかった。
けれど。
『あなたには、何もしないことが一番難しいでしょうから。』
その言葉が、妙に引っかかった。
「……少し、考えてもよろしいでしょうか」
「もちろんでございます」
老紳士は立ち上がり、最後にもう一通、小さな封書をテーブルに置いた。
「これは、屋敷へ向かわれる場合にのみお開けくださいとのことです」
「まだあるのですか?」
「ヴィオラ様ですので」
今度はルイザも少し笑った。
結局、十日後。
ルイザは馬車に揺られていた。
窓の外には、初夏の緑が流れていく。
レナードには驚かれた。
「一年も?」
「ええ」
「姉さん一人で?」
「使用人はいるそうよ」
「でも、何もしないって……本当に?」
「私にもよく分からないの」
妹からは手紙が届いた。
『お姉様が一年も家を離れるなんて想像できないわ。でも、少し休んだ方がいいと思う。お母様のこともずっと任せきりだったもの』
その言葉を読んだ時、ルイザはなぜか、すぐに返事を書けなかった。
任せきり。
妹に悪気はない。むしろ申し訳なく思っているのだろう。
なのに、その言葉が胸に残った。
馬車が街道を外れ、小さな森を抜ける。
やがて木々の向こうに、灰白色の屋根が見えた。
「あれが……」
ヴィオラの屋敷。
思っていたより小さい。侯爵家の別邸と聞いていたから、もっと仰々しい建物を想像していた。
けれど実際は、二階建ての古い屋敷だった。淡い蜂蜜色の石壁に、深い緑色の屋根。窓辺には白や薄紫の花が咲き、庭には初夏の光が柔らかく降り注いでいる。
大きな木の枝が、屋敷を守るように広がっていた。
「まあ……」
きれい。
素直にそう思った。
馬車を降りると、年配の家政婦と庭師、それから数人の使用人たちが出迎えてくれた。
「ようこそお越しくださいました、ルイザ様」
家政婦が穏やかに頭を下げる。
「家政婦のマーサと申します。ヴィオラ様がお元気な頃より、この屋敷を預かっております」
「ルイザ・ハーグレーヴです。一年間、お世話になります」
「はい。どうぞ、何もなさらずお過ごしくださいませ」
「……本当にそう言われているのですね」
「それはもう、何度も」
マーサの口元に笑みが浮かんだ。
「『ルイザが仕事を始めたら必ず止めること』と」
「ヴィオラ様……」
頭が痛くなりそうだった。
その時。
「にゃあ」
足元から声がした。
「え?」
見下ろすと、真っ白ではなく、少しだけクリーム色を帯びたふわふわの長毛猫が座っていた。
丸い琥珀色の瞳で、ルイザを見上げている。
「あら」
「ルルです」
マーサが教えてくれた。
「ヴィオラ様が可愛がっておられた猫です」
「ずいぶん人懐っこいのね」
ルイザがしゃがむと、ルルは一度鼻を鳴らし、当然のようにスカートへ身体を擦りつけた。
「まあ」
そっと頭を撫でる。
驚くほど、ふわふわしている。
「あなた、初対面でしょう?」
「ルルは気に入った方には早いのです」
マーサが笑う。
「そうなの?」
その時、少し離れた玄関脇にもう一匹いることに気づいた。
黒猫。
艶のある毛並みに、金色の瞳。
こちらは近づいてこない。ただ、じっとルイザを見ている。
「あちらは?」
「ノアです」
「ノア」
呼んでみると、黒猫はぴくりと耳を動かした。
けれど、来ない。
「警戒されているのかしら」
「ノアは少し慎重な子ですから」
「そう」
ルイザは無理に近づかなかった。
「これからよろしくね」
ノアは返事をしなかった。
ただ、尻尾の先だけが一度動いた。
部屋へ案内され、荷解きを終えたのは午後だった。
ルイザの寝室は、庭に面した明るい部屋だった。淡い青緑色の壁紙に、白いカーテン。窓辺には小さな書き物机があり、ベッドには柔らかな生成り色の上掛けがかかっている。
華美ではない。けれど、とても落ち着く。
「素敵な部屋ね」
「ヴィオラ様が、こちらを使っていただくようにと」
「ヴィオラ様が?」
「はい」
マーサが一礼する。
「お茶をお持ちいたします。それまでは、どうぞお休みください」
「ありがとう」
マーサが出ていき、一人になる。
ルイザは部屋を見回した。荷物は使用人たちがほとんど片づけてくれている。
することがない。
窓辺に立って庭を見る。花が咲き、鳥が鳴いている。風が白いカーテンをふわりと揺らした。
「…………」
三分ほどで、落ち着かなくなった。
何かしよう。
そう思ってしまう。
机の上にはうっすら埃が――。
「……ないわね」
当然きれいだった。
では、本棚は。
整っている。
花瓶の水は。
新しい。
ルイザは室内を一周した。
やはり、することがない。
「そうだわ」
廊下へ出る。
階段の踊り場に小さな飾り棚があり、その横に箒が立てかけてあった。
「少しくらいなら……」
誰も見ていない。
一年間何もしないと言っても、本当に何もしないわけにはいかないだろう。目の前に埃があれば掃く。それくらいは生活の一部だ。
ルイザは箒へ手を伸ばした。
すると。
箒が動いた。
「……え?」
すっ。
壁に沿って、箒が右へ移動する。
ルイザは固まった。
もう一度、手を伸ばす。
すっ。
今度は左へ。
「…………」
ルイザは目を細めた。
「まさか」
箒へ一歩近づく。
箒が一歩分、離れる。
「ちょっと」
さらに近づく。
箒が逃げる。
「待ちなさい」
なぜ箒に向かってそんなことを言わなければならないのか分からない。
けれど、ルイザが歩けば箒も進む。廊下を一本抜け、角を曲がる。
「待ちなさいってば」
その先から、庭師が現れた。
「あ」
箒は迷うことなく庭師の足元まで走っていき、ぱたりと倒れた。
「…………」
庭師も黙った。
ルイザも黙った。
やがて庭師が箒を拾い上げる。
「ヴィオラ様の魔法でございます」
「そうでしょうね」
「ルイザ様がお掃除をなさらないようにと」
「そこまでしなくても」
「ヴィオラ様ですので」
今日だけで三度目だった。
この屋敷では、その一言ですべて説明がつくらしい。
ルイザは額を押さえた。
「分かりました。掃除はしません」
「ありがとうございます」
なぜ感謝されるのだろう。
部屋へ戻る途中、階段の上にノアが座っていた。
金色の瞳でこちらを見下ろしている。
「……見ていたの?」
ノアは目を細めた。
笑われた気がした。
部屋へ戻ると、テーブルにはお茶が用意されていた。
焼きたてのスコーンに、苺のジャムとクロテッドクリーム。ポットからは、香りのよい紅茶の湯気が立っている。
そして。
椅子の上には、ルルがいた。
「あなた、いつの間に」
「にゃあ」
「そこ、私の椅子だと思うのだけれど」
ルルは動かない。
仕方なく隣の椅子へ座ると、今度はルルが椅子から降りた。
「なあに?」
次の瞬間。
「まあ」
ルルは当然のように、ルイザの膝へ飛び乗った。
ふわり。
思ったより重い。
「ちょっと……」
ルルはくるりと一周し、最も収まりのよい場所を探すと丸くなった。
ごろごろ。
ごろごろ。
喉が鳴る。
「……私、まだお茶を」
ごろごろ。
「スコーンを取りたいのだけれど」
返事はない。
もちろん、猫なのだから当然だ。
けれど、なぜだろう。
動いてはいけないような気がする。
「困ったわね」
そう言いながら、ルイザは少し笑った。
身体を伸ばし、どうにか紅茶を取る。
その時、ティーセットの横に小さな封筒があることに気づいた。
「これは……」
見覚えのある字だった。
――ルイザへ。
ヴィオラからだ。
そっと封を開くと、一枚の小さなカードが入っている。
『無事に到着しましたか?
きっともう、何か仕事を探している頃でしょう。
ですので、先に申し上げておきます。
あなたには、
何もしないことが一番難しいでしょうから。
まずは、お茶を一杯飲んでください。
それから。
猫が膝に乗ったなら、動いてはいけません。
それは立派な休息です。』
「…………」
ルイザは膝の上を見る。
ルルは目を閉じている。
幸せそうだ。
「ヴィオラ様」
まさか。
まさか、この猫まで話が通っているわけではないだろう。
「あなた、頼まれていたの?」
ルルが片目だけ開ける。
そして。
「ふぁああ……」
大きな欠伸をした。
それきり、また眠ってしまった。
「……そう」
ルイザはカードをテーブルへ置いた。
仕方がない。
動いてはいけないらしい。
紅茶を一口飲む。
温かい。
窓の外から初夏の風が入り、庭では花が揺れている。遠くで鳥が鳴いていた。
することは、何もない。
誰かに呼ばれる予定もない。薬の時間を気にする必要も、夕食の献立を決める必要も、レナードや妹へ連絡する必要もない。
何もしなくていい。
そう思った途端、胸の奥が少しだけざわついた。
こんなことをしていて、本当にいいのだろうか。
どこかで誰かが困っているような気がする。自分だけがこうして座っていることが、ひどく落ち着かなかった。
けれど、ルルの喉は膝の上で規則正しく鳴っている。
ごろごろ。
ごろごろ。
ルイザは、ふっと息を吐いた。
「……一年も、こんなふうに過ごすの?」
答える者はいない。
窓の外、庭の古い木の下で、黒猫のノアがこちらを見ていた。
風が吹く。
枝が揺れる。
ノアの尻尾が、ゆっくりと一度だけ動いた。
まるで。
――そうだ。
とでも言うように。
ルイザはもう一度、ヴィオラのカードを見る。
『あなたには、
何もしないことが一番難しいでしょうから。』
「……困った人」
小さく呟く。
けれど、その声は、ほんの少しだけ笑っていた。




