↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
一年間、何もしなくていいと言われました  作者: 黒猫と珈琲


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
10/10

第十話

 春が来た。


 朝、窓を開けると、冬のあいだ冷たかった風が少しだけ柔らかくなっていた。


 庭の雪はほとんど消えている。湿った土の間から、小さな緑があちらこちらに顔を出していた。


「……春ね」


 ルイザは窓辺でゆっくり息を吸った。


 土の匂い。


 水の匂い。


 まだ咲いてもいない花の気配。


 この屋敷へ来た時も、庭にはたくさんの緑があった。


 けれど、今朝の庭はあの頃とは少し違って見えた。


「ルイザ様」


 扉の向こうからマーサの声がする。


「どうぞ」


 入ってきたマーサは、一通の封筒を持っていた。


「こちらを」

「何かしら」

「アシュフォード侯爵家の法務を預かっている方からです」


 その言葉で、ルイザには分かった。


「……一年になるのね」

「はい」


 屋敷へ来て、もうすぐ一年。


 ヴィオラの遺言にあった、一年間ここで何もせずに暮らすという約束。


 その一年が終わろうとしていた。


 封を開く。


 内容は簡潔だった。


 一年の条件が満たされるため、この屋敷を正式に相続するか、辞退するか。期限までに意思を知らせてほしいというものだった。


 ルイザは最後まで読むと、便箋を畳んだ。


「返事は、今日でなくても?」

「もちろんでございます。期限まではまだございます」

「そう」


 ルイザは手紙をテーブルへ置いた。


「では、今日は考えません」


 マーサの目元が、ほんの少し柔らかくなる。


「かしこまりました」


 それだけ言って、部屋を出ていった。


 ルイザは窓の外を見る。


 庭では、ルルとノアが並んで朝の日差しを浴びている。


「……散歩にしましょうか」


 誰に言うでもなく呟いて、ルイザは青紫のショールを手に取った。


 春の始まりの庭を、ゆっくり歩く。


 まだ花は少ない。


 けれど、よく見ると小さな変化がいくつもあった。


 木の枝には柔らかな芽。


 冬のあいだ眠っていた魔法植物も、少しずつ葉を伸ばしている。


 池の水には春の光が揺れていた。


 大きな木の下で、ルイザは足を止める。


 夏。


 ここで昼寝をした。


 目を覚ました時には、ルルがお腹のあたりで、ノアが足元で眠っていて、身動きが取れなかった。


 アルジャノンと冷たいお茶を飲んだのも、この木の下だった。


「……懐かしい」


 一年も経っていないのに。


 少し歩けば、秋に青紫のショールを選んだ日のことを思い出す。


 冬には暖炉の前で、それぞれ別の本を読んだ。


 そして。


『……もう少しいませんか』


 帰ろうとしたアルジャノンを、自分から引き止めた。


 ルイザは少し笑った。


 言えてよかった。


 今は、そう思う。


「にゃあ」


 振り返る。


 ルルとノアが、少し離れたところにいた。


「何?」


 ルルがこちらへ歩いてくる。


 ノアもそのあとをついてきた。


「今日は何も探さなくていいのよ」


 そう言うと、ルルは知らん顔でルイザの横を通り過ぎた。


「……散歩したいだけ?」


 ノアの尻尾が一度揺れる。


「そう」


 ルイザも二匹のあとを歩いた。


 その日の午後。


 アルジャノンが来た。


「こんにちは、ルイザ嬢」

「こんにちは、アルジャノン様」


 いつものように笑いかけて。


 ルイザは気づいた。


 彼の肩には、見覚えのある旅用の革鞄がある。


「どこかへ行かれるの?」

「ああ」


 アルジャノンが小さく頷く。


「また旅に出る」

「……そう」


 胸の奥が、きゅっとした。


 アルジャノンは旅をする人だ。


 分かっている。


 ここへ時々立ち寄るけれど、ここに暮らしているわけではない。


「いつ発たれるのですか?」

「明日の朝」

「今回はどちらへ?」

「北東だ。雪解けの頃にしか見られない魔法植物がある」

「そうなのですね」


 ルイザは青紫のショールの端に触れた。


「ルイザ嬢」


 アルジャノンがこちらを見る。


「何か言いたそうだな」


「……いいえ」


 答えてしまった。


 アルジャノンは何も言わない。


 ただ、待っている。


 ルイザは唇を閉じた。


 それから。


「……いいえ。あります」


「どうぞ」


 やっぱり、待っている。


 ルイザは一度息を吸った。


「寂しいです」


 アルジャノンがわずかに目を見開いた。


 ルイザの胸が大きく鳴る。


 それでも、今度は言葉を引っ込めなかった。


「旅へ行かないでほしいわけではないの」


「ああ」


「アルジャノン様が旅をお好きなのも知っています」


「そうだな」


「でも……寂しいのです。あなたに会えないことが」


 アルジャノンはしばらく黙っていた。


 やがて、目元を少しだけ柔らかくする。


「そうか」


 短い言葉だった。


 けれど、どこか嬉しそうに聞こえた。


 ルイザは彼を見る。


「またこの屋敷に帰ってきてくださいますか」


「ああ。帰ってくるよ」


 今度はすぐに返事があった。


 ルイザの肩から、少し力が抜けた。


「いつ頃ですか?」

「そこまで聞くのか」


 アルジャノンの口元がわずかに上がる。


「聞きたいの」

「そうか」


 少し考える。


「春が終わる前には」

「ずいぶん長いわ」

「では、できるだけ早く」

「それなら」


 ルイザも笑う。


「待っています」

「ああ」


 風が吹いた。


 まだ花の少ない庭を、春の匂いが通り抜けていった。


 ◇


 アルジャノンが旅立った翌日。


 ルイザは机に向かった。


 法務を預かる者から届いた手紙を横に置き、返事を書く。


『屋敷を正式に相続いたします。』


 その一文を書いて、ペンを置いた。


 これから一生ここに住むのか。


 それは、まだ分からない。


 いつか別の土地へ行きたくなるかもしれない。


 旅をしてみたくなるかもしれない。


 家族のそばへ戻りたくなることだってあるだろう。


 けれど今は。


 この屋敷を手放したくない。


 それだけは分かっていた。


 ルイザは手紙を封筒へ入れ、封をした。


「これでいいわ」


 今度は誰にも尋ねなかった。


 春はゆっくり深まっていった。


 庭の花が、一つずつ咲く。


 小さな黄色い花。


 白い花。


 淡い紫色。


 ルイザは毎朝、庭を見るのが楽しみになった。


 アルジャノンからも、時々手紙が届いた。


『ルイザ嬢へ。


 今日は山道で、妙な形の花を見つけた。


 ルイザ嬢なら「かわいい」と言うか、「少し怖い」と言うか。


 私には判断がつかない。』


 簡単な絵が添えられている。


「……これは怖い方ね」


 ルイザは一人で笑った。


 別の日には。


『こちらでは、林檎によく似た実を焼いて食べる。


 蜂蜜をかけると、ルイザ嬢が好きそうな味になった。』


 その手紙は、少し長く眺めた。


 旅先で自分のことを思い出してくれた。


 それが嬉しい。


 ルイザも返事を書く。


『こちらでは、庭の白い花が咲きました。


 ノアは、その下から一日動きません。


 ルルは相変わらず私のお菓子を狙っています。』


 そこまで書いて。


 少しだけ迷う。


 そして、一文を加えた。


『お帰りを、お待ちしています。』


 消さなかった。


 ある朝。


「ルイザ様」


 マーサが窓の外を指した。


「ご覧ください」

「何?」


 庭へ出る。


 奥にある大きな木。


 夏に昼寝をした、あの木。


 その枝に、見たことのない花が咲いていた。


「まあ……」


 薄紫と白の間のような淡い花。


 一つや二つではない。


 枝いっぱいに咲いている。


「こんな花、去年は」

「咲きませんでした」

「ヴィオラ様がお元気な頃も?」

「私が覚えている限りでは」


 ルイザは木を見上げる。


「では、どうして?」

「古い魔法の木ですから」


 マーサは少し笑った。


「咲きたい時に咲くのでしょう」

「……そういうもの?」

「この屋敷では」


 それで説明がついてしまうらしい。


 木の下では、ルルとノアが並んで座っていた。


「あなたたち、知っていたの?」


 ルルは大きな欠伸。


 ノアは尻尾を一度だけ揺らす。


「相変わらずね」


 ルイザが笑った、その時。


 遠くから馬車の音が聞こえた。


 胸が高鳴る。


 ルイザは庭の向こうを見る。


 馬車が近づいてくる。


 見覚えのあるものだった。


「……アルジャノン様」


 気づけば歩き出していた。


 庭を横切る。


 少し早足になる。


 やがて馬車が止まった。


 扉が開く。


 黒に近い灰褐色の髪。


 少し旅に疲れた顔。


 深緑の瞳。


 肩には革の鞄。


「アルジャノン様」


 自然に声が弾んだ。


 アルジャノンもルイザを見つける。


「やあ、ルイザ嬢」


 その顔に笑みが浮かんだ。


 ルイザも笑う。


「お帰りなさい」


 アルジャノンの動きが、わずかに止まった。


 ほんの一瞬。


 それから。


「ただいま」


 柔らかい声だった。


 ルイザは何も言わず、ただ笑った。


「見て」


 庭の奥を指す。


「あの木、今日咲いたの」

「そうか」

「ご存じだった?」

「木は昔から知っている。でも、花は初めて見る」


「アルジャノン様も?」

「ああ」


 ルイザは笑う。


「ずいぶん気まぐれな木なのね」

「この屋敷らしいな」


 二人で木の方へ歩く。


 ルルとノアもあとをついてきた。


 木陰へ入った時。


 薄紫の花びらが一枚、ルイザの肩へ落ちた。


 アルジャノンが手を伸ばし、そっと取る。


「旅はどうでしたか?」

「楽しかったよ」

「そう」


「ただ」


 アルジャノンが花びらを指先に載せたまま、少しだけ黙る。


「今回は、いつもより早く戻った」


 ルイザは彼を見る。


「どうして?」


 深緑の瞳が、まっすぐこちらを向いた。


「帰ってきたい場所ができたから」


「…………」


 春の風が吹いた。


 頭上の花が、ふわりと揺れる。


 ルイザは何も言えなかった。


 頬が少し熱い。


 けれど。


 自然に笑った。


 アルジャノンも、ほんの少し笑う。


「それなら」


 ルイザは言った。


「次の旅も、早めに帰ってきてくださいね」


「ああ」


 アルジャノンは頷く。


「帰ってくるよ」


 それだけだった。


 その日の午後。


 二人はテラスでお茶を飲んだ。


 ルイザの前にはレモンケーキ。


 アルジャノンの前には、甘さ控えめの焼き菓子。


 ルルは当然のように、ルイザのケーキを狙っている。


「駄目よ」

「にゃあ」

「これは私の」

「にゃあ」

「今日は譲りません」


 アルジャノンが笑う。


「それは譲らないんだな」

「ええ。これは譲りません」

「そうか」

「笑っているでしょう」

「少しな」


 ルイザも笑った。


 そこへ、ノアが何かを咥えてやってきた。


「ノア?」


 テーブルの下へ一枚の封筒を落とす。


 ルイザとアルジャノンが同時に見る。


「……まさか」


 拾い上げる。


 ヴィオラの字だった。


「まだあったの?」

「最後まで油断できないな」

「本当に」


 封を開く。


 中には一枚の便箋。


『親愛なるルイザへ。


 追伸です。』


「追伸?」


 ルイザは少し笑った。


 続きを読む。


『おいしいものを食べて。


 よく眠って。


 好きな人とお茶を飲んで。


 何の役にも立たない、素敵な一日を、


 どうかたくさん過ごしてください。』


「…………」


 そこで手紙は終わっていた。


 ルイザはしばらく便箋を見つめる。


 それから。


 笑った。


「ヴィオラ様らしいわ」

「ああ」


 アルジャノンも少し笑う。


「最後まで」

「余計なお世話を?」

「そうだな」

「まあ」


 ルイザは笑いながら便箋を畳んだ。


「でも、ありがとうって言いたいわ」


 アルジャノンは何も言わず、頷いた。


 足元を見る。


 ルルとノアが並んでこちらを見ていた。


「ねえ」


 ルイザは二匹を見る。


「あなたたちも、ヴィオラ様に頼まれていたの?」


 ルルは大きな欠伸をした。


 ノアは金色の瞳でルイザを見る。


 そして、尻尾を一度だけゆっくり揺らした。


「……やっぱり教えてくれないのね」


「そういう猫だ」


 アルジャノンが隣で言った。


 ルイザは彼を見る。


「アルジャノン様は、何か知っている?」

「どうだろうな」

「怪しいわ」

「証拠は?」

「ノアが昔からアルジャノン様に懐いていること」

「それだけ?」

「十分でしょう?」

「私はそうは思わないな」


 涼しい顔をしている。


 ルイザはしばらく見つめて。


「まあ、いいわ」


 そう言って笑った。


 春の風が庭を抜ける。


 大きな木から、薄紫の花びらが舞った。


「ルイザ嬢」

「はい?」

「ルルが狙っている」

「え?」


 見ると、ルルの鼻先がレモンケーキへ近づいている。


「こら、ルル!」


 慌てて皿を持ち上げる。


「これは私のです」

「にゃあ」

「駄目」

「にゃあ」

「今日は譲らないと言ったでしょう?」


 アルジャノンが声を立てて笑った。


「もう、アルジャノン様まで」


 ルイザも笑う。


 庭には春の日差し。


 テーブルには、まだ温かな紅茶。


 足元にはルルとノア。


 向かいにはアルジャノンがいる。


 何の役にも立たない。


 とても素敵な午後だった。









【完】


ここまでお読みいただき、ありがとうございます。

面白かったら、ブックマークや評価(★)をいただけると、とても励みになります。


【新作のお知らせ】

新作『機械都市の天才機械技師は、魔女の私に恋をした』の連載を始めました。魔女と天才機械技師が、互いの世界を知りながら少しずつ惹かれていくお話です。よかったら、こちらも読んでいただけると嬉しいです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。