第十話
春が来た。
朝、窓を開けると、冬のあいだ冷たかった風が少しだけ柔らかくなっていた。
庭の雪はほとんど消えている。湿った土の間から、小さな緑があちらこちらに顔を出していた。
「……春ね」
ルイザは窓辺でゆっくり息を吸った。
土の匂い。
水の匂い。
まだ咲いてもいない花の気配。
この屋敷へ来た時も、庭にはたくさんの緑があった。
けれど、今朝の庭はあの頃とは少し違って見えた。
「ルイザ様」
扉の向こうからマーサの声がする。
「どうぞ」
入ってきたマーサは、一通の封筒を持っていた。
「こちらを」
「何かしら」
「アシュフォード侯爵家の法務を預かっている方からです」
その言葉で、ルイザには分かった。
「……一年になるのね」
「はい」
屋敷へ来て、もうすぐ一年。
ヴィオラの遺言にあった、一年間ここで何もせずに暮らすという約束。
その一年が終わろうとしていた。
封を開く。
内容は簡潔だった。
一年の条件が満たされるため、この屋敷を正式に相続するか、辞退するか。期限までに意思を知らせてほしいというものだった。
ルイザは最後まで読むと、便箋を畳んだ。
「返事は、今日でなくても?」
「もちろんでございます。期限まではまだございます」
「そう」
ルイザは手紙をテーブルへ置いた。
「では、今日は考えません」
マーサの目元が、ほんの少し柔らかくなる。
「かしこまりました」
それだけ言って、部屋を出ていった。
ルイザは窓の外を見る。
庭では、ルルとノアが並んで朝の日差しを浴びている。
「……散歩にしましょうか」
誰に言うでもなく呟いて、ルイザは青紫のショールを手に取った。
春の始まりの庭を、ゆっくり歩く。
まだ花は少ない。
けれど、よく見ると小さな変化がいくつもあった。
木の枝には柔らかな芽。
冬のあいだ眠っていた魔法植物も、少しずつ葉を伸ばしている。
池の水には春の光が揺れていた。
大きな木の下で、ルイザは足を止める。
夏。
ここで昼寝をした。
目を覚ました時には、ルルがお腹のあたりで、ノアが足元で眠っていて、身動きが取れなかった。
アルジャノンと冷たいお茶を飲んだのも、この木の下だった。
「……懐かしい」
一年も経っていないのに。
少し歩けば、秋に青紫のショールを選んだ日のことを思い出す。
冬には暖炉の前で、それぞれ別の本を読んだ。
そして。
『……もう少しいませんか』
帰ろうとしたアルジャノンを、自分から引き止めた。
ルイザは少し笑った。
言えてよかった。
今は、そう思う。
「にゃあ」
振り返る。
ルルとノアが、少し離れたところにいた。
「何?」
ルルがこちらへ歩いてくる。
ノアもそのあとをついてきた。
「今日は何も探さなくていいのよ」
そう言うと、ルルは知らん顔でルイザの横を通り過ぎた。
「……散歩したいだけ?」
ノアの尻尾が一度揺れる。
「そう」
ルイザも二匹のあとを歩いた。
その日の午後。
アルジャノンが来た。
「こんにちは、ルイザ嬢」
「こんにちは、アルジャノン様」
いつものように笑いかけて。
ルイザは気づいた。
彼の肩には、見覚えのある旅用の革鞄がある。
「どこかへ行かれるの?」
「ああ」
アルジャノンが小さく頷く。
「また旅に出る」
「……そう」
胸の奥が、きゅっとした。
アルジャノンは旅をする人だ。
分かっている。
ここへ時々立ち寄るけれど、ここに暮らしているわけではない。
「いつ発たれるのですか?」
「明日の朝」
「今回はどちらへ?」
「北東だ。雪解けの頃にしか見られない魔法植物がある」
「そうなのですね」
ルイザは青紫のショールの端に触れた。
「ルイザ嬢」
アルジャノンがこちらを見る。
「何か言いたそうだな」
「……いいえ」
答えてしまった。
アルジャノンは何も言わない。
ただ、待っている。
ルイザは唇を閉じた。
それから。
「……いいえ。あります」
「どうぞ」
やっぱり、待っている。
ルイザは一度息を吸った。
「寂しいです」
アルジャノンがわずかに目を見開いた。
ルイザの胸が大きく鳴る。
それでも、今度は言葉を引っ込めなかった。
「旅へ行かないでほしいわけではないの」
「ああ」
「アルジャノン様が旅をお好きなのも知っています」
「そうだな」
「でも……寂しいのです。あなたに会えないことが」
アルジャノンはしばらく黙っていた。
やがて、目元を少しだけ柔らかくする。
「そうか」
短い言葉だった。
けれど、どこか嬉しそうに聞こえた。
ルイザは彼を見る。
「またこの屋敷に帰ってきてくださいますか」
「ああ。帰ってくるよ」
今度はすぐに返事があった。
ルイザの肩から、少し力が抜けた。
「いつ頃ですか?」
「そこまで聞くのか」
アルジャノンの口元がわずかに上がる。
「聞きたいの」
「そうか」
少し考える。
「春が終わる前には」
「ずいぶん長いわ」
「では、できるだけ早く」
「それなら」
ルイザも笑う。
「待っています」
「ああ」
風が吹いた。
まだ花の少ない庭を、春の匂いが通り抜けていった。
◇
アルジャノンが旅立った翌日。
ルイザは机に向かった。
法務を預かる者から届いた手紙を横に置き、返事を書く。
『屋敷を正式に相続いたします。』
その一文を書いて、ペンを置いた。
これから一生ここに住むのか。
それは、まだ分からない。
いつか別の土地へ行きたくなるかもしれない。
旅をしてみたくなるかもしれない。
家族のそばへ戻りたくなることだってあるだろう。
けれど今は。
この屋敷を手放したくない。
それだけは分かっていた。
ルイザは手紙を封筒へ入れ、封をした。
「これでいいわ」
今度は誰にも尋ねなかった。
春はゆっくり深まっていった。
庭の花が、一つずつ咲く。
小さな黄色い花。
白い花。
淡い紫色。
ルイザは毎朝、庭を見るのが楽しみになった。
アルジャノンからも、時々手紙が届いた。
『ルイザ嬢へ。
今日は山道で、妙な形の花を見つけた。
ルイザ嬢なら「かわいい」と言うか、「少し怖い」と言うか。
私には判断がつかない。』
簡単な絵が添えられている。
「……これは怖い方ね」
ルイザは一人で笑った。
別の日には。
『こちらでは、林檎によく似た実を焼いて食べる。
蜂蜜をかけると、ルイザ嬢が好きそうな味になった。』
その手紙は、少し長く眺めた。
旅先で自分のことを思い出してくれた。
それが嬉しい。
ルイザも返事を書く。
『こちらでは、庭の白い花が咲きました。
ノアは、その下から一日動きません。
ルルは相変わらず私のお菓子を狙っています。』
そこまで書いて。
少しだけ迷う。
そして、一文を加えた。
『お帰りを、お待ちしています。』
消さなかった。
ある朝。
「ルイザ様」
マーサが窓の外を指した。
「ご覧ください」
「何?」
庭へ出る。
奥にある大きな木。
夏に昼寝をした、あの木。
その枝に、見たことのない花が咲いていた。
「まあ……」
薄紫と白の間のような淡い花。
一つや二つではない。
枝いっぱいに咲いている。
「こんな花、去年は」
「咲きませんでした」
「ヴィオラ様がお元気な頃も?」
「私が覚えている限りでは」
ルイザは木を見上げる。
「では、どうして?」
「古い魔法の木ですから」
マーサは少し笑った。
「咲きたい時に咲くのでしょう」
「……そういうもの?」
「この屋敷では」
それで説明がついてしまうらしい。
木の下では、ルルとノアが並んで座っていた。
「あなたたち、知っていたの?」
ルルは大きな欠伸。
ノアは尻尾を一度だけ揺らす。
「相変わらずね」
ルイザが笑った、その時。
遠くから馬車の音が聞こえた。
胸が高鳴る。
ルイザは庭の向こうを見る。
馬車が近づいてくる。
見覚えのあるものだった。
「……アルジャノン様」
気づけば歩き出していた。
庭を横切る。
少し早足になる。
やがて馬車が止まった。
扉が開く。
黒に近い灰褐色の髪。
少し旅に疲れた顔。
深緑の瞳。
肩には革の鞄。
「アルジャノン様」
自然に声が弾んだ。
アルジャノンもルイザを見つける。
「やあ、ルイザ嬢」
その顔に笑みが浮かんだ。
ルイザも笑う。
「お帰りなさい」
アルジャノンの動きが、わずかに止まった。
ほんの一瞬。
それから。
「ただいま」
柔らかい声だった。
ルイザは何も言わず、ただ笑った。
「見て」
庭の奥を指す。
「あの木、今日咲いたの」
「そうか」
「ご存じだった?」
「木は昔から知っている。でも、花は初めて見る」
「アルジャノン様も?」
「ああ」
ルイザは笑う。
「ずいぶん気まぐれな木なのね」
「この屋敷らしいな」
二人で木の方へ歩く。
ルルとノアもあとをついてきた。
木陰へ入った時。
薄紫の花びらが一枚、ルイザの肩へ落ちた。
アルジャノンが手を伸ばし、そっと取る。
「旅はどうでしたか?」
「楽しかったよ」
「そう」
「ただ」
アルジャノンが花びらを指先に載せたまま、少しだけ黙る。
「今回は、いつもより早く戻った」
ルイザは彼を見る。
「どうして?」
深緑の瞳が、まっすぐこちらを向いた。
「帰ってきたい場所ができたから」
「…………」
春の風が吹いた。
頭上の花が、ふわりと揺れる。
ルイザは何も言えなかった。
頬が少し熱い。
けれど。
自然に笑った。
アルジャノンも、ほんの少し笑う。
「それなら」
ルイザは言った。
「次の旅も、早めに帰ってきてくださいね」
「ああ」
アルジャノンは頷く。
「帰ってくるよ」
それだけだった。
その日の午後。
二人はテラスでお茶を飲んだ。
ルイザの前にはレモンケーキ。
アルジャノンの前には、甘さ控えめの焼き菓子。
ルルは当然のように、ルイザのケーキを狙っている。
「駄目よ」
「にゃあ」
「これは私の」
「にゃあ」
「今日は譲りません」
アルジャノンが笑う。
「それは譲らないんだな」
「ええ。これは譲りません」
「そうか」
「笑っているでしょう」
「少しな」
ルイザも笑った。
そこへ、ノアが何かを咥えてやってきた。
「ノア?」
テーブルの下へ一枚の封筒を落とす。
ルイザとアルジャノンが同時に見る。
「……まさか」
拾い上げる。
ヴィオラの字だった。
「まだあったの?」
「最後まで油断できないな」
「本当に」
封を開く。
中には一枚の便箋。
『親愛なるルイザへ。
追伸です。』
「追伸?」
ルイザは少し笑った。
続きを読む。
『おいしいものを食べて。
よく眠って。
好きな人とお茶を飲んで。
何の役にも立たない、素敵な一日を、
どうかたくさん過ごしてください。』
「…………」
そこで手紙は終わっていた。
ルイザはしばらく便箋を見つめる。
それから。
笑った。
「ヴィオラ様らしいわ」
「ああ」
アルジャノンも少し笑う。
「最後まで」
「余計なお世話を?」
「そうだな」
「まあ」
ルイザは笑いながら便箋を畳んだ。
「でも、ありがとうって言いたいわ」
アルジャノンは何も言わず、頷いた。
足元を見る。
ルルとノアが並んでこちらを見ていた。
「ねえ」
ルイザは二匹を見る。
「あなたたちも、ヴィオラ様に頼まれていたの?」
ルルは大きな欠伸をした。
ノアは金色の瞳でルイザを見る。
そして、尻尾を一度だけゆっくり揺らした。
「……やっぱり教えてくれないのね」
「そういう猫だ」
アルジャノンが隣で言った。
ルイザは彼を見る。
「アルジャノン様は、何か知っている?」
「どうだろうな」
「怪しいわ」
「証拠は?」
「ノアが昔からアルジャノン様に懐いていること」
「それだけ?」
「十分でしょう?」
「私はそうは思わないな」
涼しい顔をしている。
ルイザはしばらく見つめて。
「まあ、いいわ」
そう言って笑った。
春の風が庭を抜ける。
大きな木から、薄紫の花びらが舞った。
「ルイザ嬢」
「はい?」
「ルルが狙っている」
「え?」
見ると、ルルの鼻先がレモンケーキへ近づいている。
「こら、ルル!」
慌てて皿を持ち上げる。
「これは私のです」
「にゃあ」
「駄目」
「にゃあ」
「今日は譲らないと言ったでしょう?」
アルジャノンが声を立てて笑った。
「もう、アルジャノン様まで」
ルイザも笑う。
庭には春の日差し。
テーブルには、まだ温かな紅茶。
足元にはルルとノア。
向かいにはアルジャノンがいる。
何の役にも立たない。
とても素敵な午後だった。
【完】
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
面白かったら、ブックマークや評価(★)をいただけると、とても励みになります。
【新作のお知らせ】
新作『機械都市の天才機械技師は、魔女の私に恋をした』の連載を始めました。魔女と天才機械技師が、互いの世界を知りながら少しずつ惹かれていくお話です。よかったら、こちらも読んでいただけると嬉しいです。




