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第99話 囚人の盤面

 

 吹雪は夜になっても止まなかった。

 鸞は雑務を終えたあと、ひとり監獄長室の前に立っていた。

 暗い廊下。

 誰もいない。

「馬鹿らしい」

 小さく呟く。

 たかが帳簿だ。

 見たところで何が変わる。

 それなのに。

 なぜか気になった。

 あの男がわざわざ言ったのだから。

 鸞は扉の隙間から中を覗く。

 無人。

 監獄長は酒場へ行ったらしい。

 運が良かった。

 鍵はかかっていない。

 そっと中へ入る。

 監獄長室は思ったより整頓されていた。

 机。

 書棚。

 地図。

 武器。

 そして。

 右の棚。

 三段目。

 青い帳簿。

「あった」

 鸞は手に取る。

 重い。

 普通の帳簿だった。

 表紙を開く。

 数字。

 数字。

 数字。

 意味が分からない。

「なんだこれ」

 思わず呟く。

 拍子抜けだった。

 やっぱり何もない。

 そう思った。

 だが。

 帰ろうとして。

 ふと。

 アレクシスの言葉を思い出す。

 ――裏表紙だ。

 鸞は眉をひそめる。

 そして。

 帳簿を裏返した。

 そこに挟まっていた。

 一枚の紙。

 古い覚書だった。

 監獄長の署名。

 金額。

 物資名。

 そして。

 消失扱いになっている大量の食糧。

 鸞は目を瞬く。

 もう一枚。

 さらにもう一枚。

 横領。

 横流し。

 私的売買。

 監獄長の印。

 副監獄長の確認印はない。

 つまり。

 知らされていない。

 鸞は息を呑んだ。

「うわ・・・」

 思わず声が漏れる。

 これはまずい。

 本当にまずい。

 監獄長が見られたくない理由が分かる。

 その時だった。

 廊下の向こうから足音が聞こえた。

 鸞は慌てて紙を戻す。

 帳簿を戻す。

 扉の陰へ飛び込む。

 監獄長だった。

 酒臭い。

 機嫌も悪そうだ。

 男はぶつぶつ文句を言いながら部屋へ入る。

 鸞は息を殺した。

 心臓がうるさい。

 やがて。

 監獄長が机へ座る。

 書類を乱暴に放る。

 酒瓶を開ける。

 そして。

 何も気づかなかった。

 鸞は静かに廊下へ滑り出る。

 走る。

 走る。

 誰もいない場所まで。

 ようやく立ち止まった。

 胸が激しく上下する。

 寒い。

 だが。

 それ以上に。

 妙な興奮があった。

「なんなんだよ、あいつ・・・」

 思わず呟く。

 どうして知っていた。

 どうして水牢の中から。

 監獄長の秘密を見つけられる。

 鸞には分からなかった。


 その頃。

 地下二層。

 水牢。

 アレクシスは静かに目を閉じていた。

 足音。

 息遣い。

 走る音。

 帰ってきたな。

 そう判断する。

 青灰の瞳が開く。

 ほんのわずかに口元が上がった。

 監獄長は強欲だ。

 副監は潔癖だ。

 だから相性が悪い。

 そこへ証拠を落とせばどうなるか。

 答えは簡単だった。

 鎖が鳴る。

 じゃらり。

「まず一人」

 誰にも聞こえない声。

「盤面から消える」

 吹雪が唸る。

 監獄はまだ静かだった。

 だが。

 崩壊はもう始まっている。


 翌朝。

 監獄全体に怒鳴り声が響いた。

「これはどういうことだ!」

 副監だった。

 執務室の扉が乱暴に開く。

 机が叩かれる。

 書類が飛ぶ。

 看守たちは顔を見合わせた。

 また始まった。

 そう思った。

 だが。

 今回は違った。

 副監の手には、一冊の青い帳簿が握られている。

 監獄長の顔色は青かった。

「説明しろ」

「これは・・・」

「食糧庫の不足分だ」

「違う」

「違わない」

 机が鳴る。

「数字が合わん」

 沈黙。

 監獄長の額に汗が浮く。


 ◇ ◇ ◇


 昼。

 鸞はいつものように水牢へ向かった。

 鉄格子の向こう。

 アレクシスは静かに座っている。

 まるで何も知らない顔で。

「見たぞ」

 鸞が言った。

「何をだ」

「帳簿」

「そうか」

「そうか、じゃねえよ」

 アレクシスは粥を受け取る。

「面白かったか」

「面白くない」

「そうか」

「監獄長、終わるぞ」

「かもしれんな」

 まるで他人事だった。

 鸞は眉をひそめる。

「なんで分かった」

「何がだ」

「横領」

 アレクシスは少し考えた。

「簡単だ」

「どこが」

「食糧庫の記録と配給量が合わなかった」

「そんなの見てないだろ」

「見た」

「いつ」

「運ばれてくる粥だ」

 鸞は黙った。

「一人当たりの量が少ない」

「冬なのに備蓄が増えていない」

「囚人数と消費量が合わない」

 アレクシスは肩をすくめた。

「だから誰かが盗んでいると思った」

 鸞は言葉を失う。

 そんなこと。

 考えたこともなかった。

「で、監獄長だと思ったのか」

「違う」

「は?」

「最初は分からなかった」

「じゃあ何で」

 青灰の瞳がわずかに細くなる。

「調べた」

 鸞は思わず笑った。

「どうやってだよ」

「観察するだけだ」

 静かな声だった。

「金を盗む人間には共通点がある」

「酒」

「女」

「見栄」

「嘘」

「焦り」

「監獄長は全部持っていた」

 鸞はぞっとした。

 この男は。

 人間を見ている。

 見て。

 分解して。

 利用している。

 まるで獣医が家畜を診るように。

 あるいは。

 解剖するように。

「おまえ・・・」

 鸞は思わず言った。

「何だ」

「本当に王か」

 アレクシスは少し笑った。

「その質問は二回目だ」

「答えてない」

「答えた」

「いつ」

「今は囚人だと」

 鸞は頭を抱えた。

 話にならない。

 アレクシスは粥を飲み干す。

 そして空になった器を返した。

「次だ」

 鸞の顔が引きつる。

「まだあるのか」

「ある」

「嫌な予感しかしない」

「優秀な部下ほどそう言う」

「部下じゃねえ」

「部下では不服か」

「おれはだれの下にもつかねえよ。今は稼ぐために監獄で働いているだけだ」

「では、おまえは友人だ」

「はあ?」

 鸞は本気で意味が分からなかった。

 天と地ほど身分の違う相手だ。

 しかも片方は王。

 もう片方は監獄の雑役少年である。

「わたしは友人が少ない」

「そりゃそうだろ」

「なぜそう思う」

「性格が悪いからだ」

 沈黙。

 そして。

 アレクシスは吹き出した。

「それもあるな」

 鸞は眉をひそめる。

「変なやつ」

「ああ」

 アレクシスは思い出すようにくつくつと笑った。

「おまえは、わたしの最愛の女に少し似ている」

「おれは女じゃねえ」

「だから友人だ」

「おたくの趣味、おかしくないか?」

 鸞は腑に落ちない表情をする。

 それをおもしろがるような目つきで、アレクシスは言った。

「武器庫へ行け」

 鸞が固まる。

「あ?」

「武器庫だ」

「いやいやいや・・・今度は何する気だよ」

 アレクシスは静かに答えた。

「監獄長が消える」

「すると次の争いが始まる」

 吹雪が唸る。

 青灰の瞳が暗闇で光る。

「人間は、権力の空白ができると争う。・・・だから少し背中を押してやる」

 鸞は絶句した。

 そしてあらためて思った。

 監獄長より。

 副監より。

 この男の方が。

 ずっと危険なのではないか、と。


第99話でした。

アレクは水牢から一歩も出ていません。

それなのに、少しずつ監獄の中が壊れ始めています。

剣も魔法も使わず、人の欲や不信を利用して盤面を動かしていく。

王というより、もはや策士ですね。

そしてラン

本人は巻き込まれているだけのつもりですが、気づけばアレクの計画の一部になっています。

「部下じゃない」

「友人だ」

このやり取りは、書いていて少し楽しかったです。

さらに監獄の崩壊が加速します。

アレクの脱獄まで、あと少し。

引き続きお楽しみください。

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