第98話 少年は王を養う
鉄格子が鳴った。
がしゃん。
重い音。
「飯だ」
聞き慣れた声だった。
アレクシスが顔を上げる。
桶を抱えた少年が立っている。
痩せた身体。
ぼさぼさの黒髪。
生意気そうな目つき。
少年の名は鸞という。監獄の囚人たちに食事を運ぶ雑役を担っている。
「今日は遅かったな」
「文句言うな」
ランは桶を差し入れる。
「吹雪なんだよ」
「雪は言い訳にならん」
「囚人のくせに偉そうだな」
アレクシスは粥を受け取る。
湯気が立つ。
珍しく温かい。
少年の気遣いだろう。
文字を教えてやって以来、何かとこっそり世話を焼いてくれる。
ランは鉄格子にもたれた。
しばらくアレクシスを見ている。
濡れた銀髪。痩せた頬。鎖。
そして青灰の瞳。
同じだ。
フェルンで見た時と。
あの日。
濁流の中へ飛び込み、村人を救い、病人を抱え上げ。
怪我をした少女の膿をためらいなく吸い出した王。
あれも間違いなく、この男だった。
だが。
今のアレクシスは別人みたいだった。
監獄長と副監獄長を争わせ。
看守同士を疑心暗鬼に陥れ。
囚人たちの不満を煽り。
監獄そのものを内側から壊そうとしている。
しかも。
それを楽しんでいるようにさえ見える。
少年は首を傾げた。
「なあ」
「なんだ」
「どっちが本物なんだ?」
アレクシスが顔を上げる。
「何の話だ」
「フェルンで見た王様と」
ランは言う。
「今のおまえ」
沈黙。
水音だけが響く。
やがて。
アレクシスは小さく笑った。
「どちらも本物だ」
ランは眉をひそめた。
「意味分かんねえ」
アレクシスは粥をひと口飲む。
「・・・監獄長が怒鳴ってた」
「ほう」
「副監も怒鳴ってた」
「仲が良いな」
「良くないって」
鸞は鉄格子にもたれたまま、不審げな目を男に向けている。
「最近ずっとだ」
「皆ぴりぴりしてる」
「備品は消えるし」
「帳簿は合わないし」
「食糧庫の鍵はなくなるし」
アレクシスは粥をすする。
表情は変わらない。
「大変だな」
「絶対おまえのせいだろ」
「証拠は」
「ない」
「なら違うな」
「絶対違わない」
アレクシスは小さく笑った。
鸞はじっと見る。
この男は変だ。
普通の囚人ではない。
普通の王でもない。
水牢に入れられているのに。
鎖で繋がれているのに。
負けた人間の顔をしていない。
むしろ。
何かを待っている顔だった。
「なあ」
「なんだ」
「痛くないのか」
アレクシスが顔を上げる。
「何がだ」
「それ」
鸞は水牢を指差した。
冷水。鎖。傷。痣。
「痛いな」
あっさり言う。
「じゃあ何で平気なんだ」
「平気ではない」
「そう見える」
アレクシスは少し考えた。
「慣れているだけだ」
「何に」
「痛みに」
鸞は黙った。
吹雪の音が遠く響く。
鸞は鉄格子にもたれた。
「王様ってさ」
「なんだ」
「平々凡々と裕福な暮らしをしてるんだろ」
「そうでもない」
即答だった。
「いいもの食って」
「食ったな」
「いい服着て」
「たしかに」
「周りからかしずかれて」
アレクシスは少し考えた。
「その辺は人による」
「ふーん」
鸞は首を傾げる。
「じゃあおまえは違ったのか」
沈黙。
やがて。
「十の時に母を亡くした」
ぽつりと言う。
鸞は顔を上げた。
「弟が二人いた」
「ひとりは実弟」
「もうひとりは継母の息子だ」
吹雪が唸る。
「継母は、自分の息子を王にしたかった」
「・・・ああ」
鸞にも分かった。
その先は。
「何度も殺されかけた」
まるで天気の話でもするような口調だった。
「は?」
「毒とか、刺客とか。階段から突き落とされたこともある」
鸞が絶句する。
「日常的な虐待と、暗殺未遂」
アレクシスは淡々と言った。
「性格が歪むのも納得だろう」
鸞は言葉を失った。
幼い弟を庇いながら生きた日々。
怯えていたメフィスト。
生き残るためには仮面が必要だった。
王子である前に。
まず獣の群れの中で生き延びなければならなかった。
アレクシスは肩をすくめる。
「王族にはよくある」
「ねえよ」
即答だった。
アレクシスは吹き出した。
久しぶりに。
少しだけ愉快そうに。
「そうか」
鸞はしばらく黙る。
それから言った。
「おまえ」
鸞が言った。
「変なやつだな」
アレクシスは笑った。
「よく言われる」
どこかで聞いた台詞だった。
雨。
香葉。
草原。
ずぶ濡れの少年兵。
不意に記憶がよぎる。
『アンタ、嫌なやつだな』
あの時と同じだ。
アレクシスは目を伏せた。
「どうした」
「いや」
「昔、似たようなことを言う子どもがいたな、と」
「・・・ふうん?」
アレクシスは粥を飲み干す。
そして。
空になった器を返した。
「で」
鸞が声を潜める。
「次は?」
アレクシスの瞳が静かに細まる。
ようやく本題だった。
「監獄長室へ行け」
「またか」
「右から三段目」
「青い帳簿だ」
鸞はため息をつく。
「今度は何を見る」
「裏表紙」
「それだけ?」
「それだけだ」
「何がある」
アレクシスは微笑む。
冷たい笑みだった。
「人間を壊すには」
「剣より秘密の方が便利なことがある」
鸞は意味が分からない顔をした。
だが。
もう聞かない。
どうせ教えてくれないからだ。
「失敗したら?」
「しない」
「なんで」
「おまえは賢い」
鸞が顔をしかめる。
「その褒め方やめろ」
「事実だ」
少年は舌打ちした。
そして立ち上がる。
「じゃあ行ってくる」
「頼んだ」
鉄格子が閉まる。
がしゃん。
足音が遠ざかる。
静寂。
吹雪の音だけが残った。
アレクシスは天井を見上げる。
あと十日。
順調なら七日。
監獄長。
副監獄長。
看守たち。
囚人たち。
全員が駒だ。
盤面は整いつつある。
青灰の瞳の奥で。
冷たい愉悦が静かに揺れた。
「さて」
誰にも聞こえない声。
「次は誰を壊そうか」
第98話でした。
今回から本格的に鸞が登場です。
作者としては、アレクシスが王としてではなく、一人の人間として誰かと話している場面を書いていて楽しかった回でもあります。
フェルンで見た英雄王。
そして今、監獄の中で監獄そのものを壊そうとしている囚人。
どちらも本物です。
むしろ、王という立場が外れたことで、今まで見えていなかった部分が少しずつ表に出てきています。
アレク本人は善人のつもりも悪人のつもりもありません。
必要なら人を救うし、必要なら容赦なく盤面を壊します。
たぶん本人にとっては、その二つは矛盾していないのでしょう。
そしてラン。
今のところは「王に飯を運ぶ少年」ですが、気づけばずいぶん怪しい共犯者になりつつあります。
本人はまだ自覚がありません。
たぶん。
引き続きお付き合いいただけると嬉しいです。




