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第97話 ある囚人の話

 

 草原北端。

 バテレノア監獄の冬は早い。

 十月の終わりには雪が降る。

 十一月ともなれば、石壁そのものが冷気を帯びる。

 その日も吹雪だった。

 石造りの通路を、二人の看守が歩いている。

 かつん。

 かつん。

 靴音だけが冷たく響いた。

 若い看守が声を潜める。

「聞いたか」

「例のやつだろ。先月ここに送られてきた・・・」

 年嵩の看守が顔をしかめた。

「あいつか」

「あいつだ」

 若い看守は肩をすくめる。

「何回目だ、脱獄未遂」

「四回」

 沈黙。

 吹雪が遠くで唸る。

「まだ収監されてひと月だぞ」

「だから問題なんだよ」

 年嵩の看守は吐き捨てた。

「水牢だ」

「鎖だ」

「二十四時間監視だ」

「それでも脱獄しようとする」

 若い看守が顔をしかめる。

「どうやってだよ」

「知らん」

「本当に王なのか」

「レザリア王らしい」

「賢王って噂の?洪水被害の救済に尽力したって」

「壊滅状態のフェルンの復興を成功させたらしい」

「・・・あいつが?」

 二人は同時に鼻で笑った。

「見えねえな」

「まったくだ」

 若い看守はさらに声を潜める。

「監獄長と副監が揉めてるだろ」

「ああ」

「帳簿の件も」

「ああ」

「食糧庫の件も」

「ああ」

「囚人同士の喧嘩も増えた」

「看守同士もな」

 吹雪が唸る。

 若い看守がぽつりと言った。

「全部、あいつが来てからだ」

 年嵩の看守は答えない。

 ただ地下へ続く階段を見た。

「あいつは牢から出ていない」

 低い声だった。

「それなのに監獄全体がおかしくなっている」

 沈黙。

 やがて若い看守が言う。

「なあ」

「なんだ」

「あれ、本当に捕まってるのか?」

 年嵩の看守はしばらく黙った。

「捕まってるのは、おれたちのほうかもしれんな」

「え?」

 そして。

 小さく呟く。

「・・・考えるな」

「考え始めると、あいつの思う壺だ」


 ◇ ◇ ◇


 地下二層。

 水牢。

 冷たい地下水が腰まで満ちている。

 石壁には霜が張りつき、吐く息は白い。

 普通の人間なら数日で熱を出す。

 数週間も耐えられない。

 だが。

 男は生きていた。

 手と足は鉄環で鎖につながれている。

 濡れた銀髪。

 頬の傷。

 背中の鞭痕。

 爪の剥がれた指先。

 体中に拷問の痕があった。

 だが。

 最も残酷なのは拷問ではない。

 何よりも水牢の恐ろしさは、水そのものではない。

 時間だ。

 冷たい水は少しずつ体温を奪う。

 傷を癒させない。

 眠りを浅くする。

 人から思考力を奪い。

 やがて生きる気力そのものを削り取る。

 だから囚人たちは死ぬ。

 病で死ぬのではない。

 絶望で死ぬ。

 だが。

 アレクシスは違った。

 収監から三十日。

 体は痩せた。

 傷も増えた。

 それでも。

 青灰の瞳だけは、収監された日のままだった。


 アレクシスは静かに目を閉じる。

 耳を澄ます。

 水音。

 風。

 足音。

 遠くで鉄扉が閉まる音。

 看守の怒鳴り声。

 囚人の咳。

 すべてを聞く。

 数を数える。

 牢番八人。

 交代は三刻ごと。

 今の見回り担当は西棟の若い看守。

 歩幅が一定ではない。

 右足を引きずっている。

 癖がある。

 食事担当は三人。

 そのうち二人は酒を飲む。

 監獄長と副監獄長は仲が悪い。

 最近は顔も合わせていない。

 食糧庫の管理簿はずさんだ。

 武器庫の鍵は複製可能。

 排水路は地下水路へ繋がっている。

 脱出経路としては十分だ。

 問題は流速。

 今の季節は雪解け水が流れ込む。

 人間一人を呑み込むには十分な勢いだった。


 アレクシスは目を開けた。

 鎖が鳴る。

 じゃらり。

 脳内では、すでに盤面が出来上がっていた。

 誰が使える。

 誰が邪魔だ。

 誰が裏切る。

 誰が壊れる。

 順番に並べていく。

 まるで駒を配置するように。

 その時。

 遠くで怒鳴り声が響いた。

 監獄長だった。

 続いて別の怒声。

 副監獄長。

 アレクシスは静かに聞き耳を立てる。

 内容までは聞こえない。

 だが十分だった。

 口元がわずかに緩む。

 予定より早い。

 互いへの不信が育っている。

 あと二週間。

 順調なら十日。

 その頃には。

 レザリアでは人質交換の交渉が始まっているだろう。

 メフィストは条件を積む。

 カヨウは無茶を言う。

 特に後者は厄介だ。

 あの男は理屈で動くように見えて、最後は執着で動く。

 ラゴウは賢い。

 そう簡単には折れない。

 だが。

 カヨウの執着は底が知れなかった。

 沈黙。

 アレクシスは小さく息を吐く。

 執着という意味では、自分も人のことは言えない。

 青灰の瞳が伏せられる。

 最初に好きになった女には振られた。

 だから誰でもいいと思った。

 その結果、最も面倒な女を好きになった。


 ――会いたい。

 ただ、それだけだった。

 無事でいてほしい。

 そして。

 もし今。

 理不尽な取引の天秤へ載せられているのなら。

 きっと、自分を助けるために無茶をする。

 あの女はそういう人間だ。

 だから。

 それをさせる前に終わらせる。


 青灰の瞳が細まる。

 だから急がなければならない。

 なるべく早く片を付ける。

 そして。

 ナイルート協定をぶち壊し、レザリア王を鎖につないだ代償を払わせる。

 必ず。


 アレクシスは天井を見上げた。

 冷たい石。

 暗闇。

 鎖。

 水牢。

 状況だけ見れば最悪だった。

 だが。

 不思議と絶望はない。

 むしろ。

 久しぶりだった。

 誰にも王として振る舞う必要がない。

 慈悲深くある必要も。

 公明正大である必要も。

 模範的な王である必要もない。

 勝つことだけを考えればいい。

 それは妙に心地よかった。

 静蘭の言葉が脳裏をよぎる。

 ――塔。

 崩壊。

 失脚。

 拘束。

 裏切り。

 アレクシスは小さく笑った。

「見事に当たったな」

 誰もいない牢の中で呟く。

 白い吐息が闇へ溶けた。

 そして。

 青灰の瞳の奥で。

 冷たい何かが静かに目を覚ます。

 王は墜ちた。

 塔は崩れた。

 ならば。

 次は瓦礫の下から這い上がるだけだ。


第97話でした。

監獄にぶち込まれたアレクですが、作者的にはここからが本番です。

ラゴウ視点だと「面倒くさい男」ですが、敵視点だと「関わりたくない男」になります。

王様をやっている時は比較的まともだったのですが、今はわりと好き放題やっています。

水牢に入れたはずなのに、なぜか周囲の人間のほうが疲弊していく不思議。

看守の皆さんには頑張ってほしいところです。

次回、少年・ラン登場。

監獄編、しばらく続きます。よろしくお願いします。

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