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第96話 香葉の追憶


 雨音が続く。

 やがてラゴウが聞いた。

「皇太子って暇なのか」

 男は窓の外を見た。

「暇じゃないな」

「なら何でこんなところで雨宿りしてる」

 少しの沈黙。

 そして。

「現実逃避だ」

 ラゴウは目を瞬いた。

 王族がそんなことを言うとは思わなかった。

「何から逃げてる」

 男は香葉を指先で弄ぶ。

「女」

 ラゴウは思わず吹き出した。

「振られたのか」

「そうだ」

 驚くほどあっさり認めた。

「かわいそうに」

 本気で言った。

 だが。

 男は首を振る。

「別に」

「好きだったんだろ」

「好きだった」

「なら悲しくないのか」

 アレクシスは少し考えた。

「悲しいというより」

 青灰の瞳が細くなる。

「むなしい、が近い」

「は?」

 真顔だった。

「幼い頃から知っている女だったから、互いに気持ちが通じていると思っていた」

「ふうん。で?」

「求婚したんだが断られた」

「そりゃ、ご愁傷様」

「わたしを愛しているのに、なぜ断る?」

 ラゴウは呆れた顔で言う。

「自意識過剰だな。女にその気がなかったんだろ」

 男は少し笑った。

「かもしれないな」

 雨音が天幕を叩く。

 しばらく沈黙。

 やがて。

 アレクシスがぽつりと言う。

「正直、もう誰でもいい」

 ラゴウは眉をひそめた。

「なんだって?」

「好きな女には振られた」

「どうせ王になる」

「どうせ妻を迎えねばならない」

 その声音には。

 怒りも。

 悲しみも。

 未練さえも感じられない。

 それが妙に不気味だった。

「ならば国益を最大化できる女を選ぶ」

「・・・例えば、シュイとか?」

 ラゴウは何気なく言った。

 アレクシスは肩をすくめる。

「有力候補だな」

「気に入ったのか」

「いや」

「じゃあ何で」

 男は平然と答えた。

「一番利益が大きい」

 ラゴウは顔をしかめた。

「最低なやつ」

 すると。

 アレクシスは楽しそうに笑った。

「褒め言葉として受け取っておこう」

 雨音が天幕を叩く。

 香葉の煙がゆっくりと立ち上る。

 ふと。

 アレクシスが言った。

「そういえば」

「なんだ」

「ジョカの王女はどんな女だ」

 ラゴウは乳茶を吹きかけた。

「・・・知らない」

「ジョカの王女は民から慕われていると聞いているぞ」

「興味ない」

「そうか」

 アレクシスは肩をすくめる。

「・・・ひとつ教えてやろうか」

「なんだ」

「たぶん向こうも、アンタには全然興味がない」

 沈黙。

 アレクシスが、ふん、と笑った。

「なぜそう思う」

「馬も弓も下手そうだから」

「なるほど」

「軟弱そうだし」

「なるほど」

「草原の女はそういう男を好かない」

 アレクシスはしばらく考える。

 そして。

「言うな、おまえ」

 ラゴウが眉をひそめる。

 そして、青灰の瞳が、値踏みするようにラゴウを見た。

「なんだ」

「おまえの方がよほど軟弱そうに見えるぞ」

「なんだと?」

「腰が細すぎる」

「余計なお世話だ」

「腕も細い」

「あんたな!」

「線が細くてまるで少女のようだ」

 事実、<少女>なのだが。

 皇太子は気づかない。

 ラゴウは立ち上がった。

「表へ出ろ」

 アレクシスが吹き出す。

「ほう」

「試してみるか」

 雨音。

 沈黙。

 次の瞬間。

 ラゴウが飛びかかった。

 速かった。

 草原の少年たちとの喧嘩なら、まず避けられない速度だ。

 だが。

 アレクシスは椅子から立ち上がることすらしなかった。

 わずかに身体を傾ける。

 それだけで拳が空を切る。

「遅い」

「うるさい!」

 今度は蹴り。

 低く。

 素早く。

 だが。

 また外れる。

 アレクシスは笑った。

「なるほど」

 青灰の瞳が細まる。

「なかなかやるな」

 その声音は本気だった。

 立ち上がる。

「遊んでやろう」

 腹が立った。

 ラゴウはさらに踏み込む。

 拳。

 肘。

 膝。

 連続。

 しかし届かない。

 まるで雨粒を掴もうとしているみたいだった。

 紙一重。

 ほんの少し。

 わずかな距離。

 その隙間を、男はするりと抜けていく。

 次の瞬間。

 視界が反転した。

「なっ――」

 胸倉を掴まれる。

 軽々と。

 そして。

 床へ押し倒された。

「放せ!」

 暴れる。

 だが。

 アレクシスは笑うだけだった。

「元気だな」

「馬鹿にしてるのか!」

 ラゴウは本気で噛みつきそうになった。

 その後も何度も飛びかかった。

 何度も転ばされた。

 何度も掴まれた。

 だが不思議だった。

 痛くない。

 投げられているのに。

 押さえ込まれているのに。

 恐怖がない。

 アレクシスの動きは正確だった。

 無駄がなく。

 流れるように美しい。

 そして。

 決して傷つけない。

 まるで見えない線を引くように。

 ここまでは安全だと教えるように。

 型をなぞらせているようだった。

 いつしか喧嘩というより。

 じゃれ合いに近くなっていた。

 息を切らしたラゴウを見下ろして、アレクシスが笑う。

「ほら」

 手を差し出す。

「もう終わりか」

 ラゴウはその手を思い切り叩いた。

「次は勝つ」

 アレクシスは楽しそうに肩を揺らした。

「そうか」

 雨音が天幕を叩く。

「・・・さっきの話だけど」

「どの話だ」

「ジョカの王女の話」

「ああ」

「あんた、王女の名前を知ってるのか」

「聞いたような気もするが。なんだったかな」

 ――こいつ、ほんとに興味がないんだな。

 なぜか、腹が立った。

 この男の記憶の端にも残っていない、自分の名前。

「ラゴウだ」

「ラ・・・?」

「羅煌。レザリアの人間にとっては、すこし変わった響きの発音だろう」

「ラゴウ、か」

「・・・別に覚えなくてもいい」

「なぜ」

「シュイ王女の方がきれいだし」

 ラゴウは立ち上がり、乳茶を飲みながら言った。

「性格も悪くない」

 アレクシスが笑う。

 香葉の煙が揺れる。

「つまり、ラゴウ王女は性格の悪い醜女だと?」

「そこまでは言ってない」

 ラゴウは肩をすくめた。

「シュイ王女を選んでおけって、草原中の男がそう言うと思うぞ」

 アレクシスはつまらなそうに言った。

「美しい女は見慣れている」

 ラゴウが眉をひそめる。

「嫌味なやつだな」

「事実だ」

 そして。

 少しだけ口元を緩める。

「もうひとりのほうが気になる」

「ジョカの王女か」

「ああ」

「なぜ」

 アレクシスは香葉の煙を吐いた。

「噂が面白い」

「どんな」

「馬で男を蹴散らした」

「・・・へえ」

「弓大会で大人を泣かせた」

「ふうん」

「部族長を殴った」

「それは言いすぎだろ!」

 アレクシスが吹き出す。

「おまえはラゴウ王女の味方なのか」

「いや、そういうわけじゃないけど」

「妙な噂ばかりの王女だ」

 おもしろそうに、アレクシスは羅列する。

「ガサツで」

「乱暴で」

「傍若無人」

「父王の草原王さえも手を焼くじゃじゃ馬娘」

 ラゴウのこめかみに青筋が浮かんだ。

「ひどい言われようなんだが、興味がある」

 アレクシスは楽しそうに笑った。

「シュイ王女は、皆が口をそろえて同じことを言う。美しくて聡明な娘だと」

「だがラゴウ王女の話は誰も同じことを言わない」

 雨音が響く。

「そういう人間の方が面白い」

「アンタ、なんか面倒くさい男だな」


 ――まさか。

 その面倒な男を。

 何年も経った雨の夜に思い出し、泣きそうなほど会いたいと願う日が来るなど。

 その頃のラゴウは。

 まだ知らなかった。


第96話でした。

今回は、ラゴウとアレクシスの初対面回です。

現在の二人からは想像しにくいですが、この頃のアレクはまだ皇太子。

失恋直後で、だいぶひねくれています。

一方のラゴウは13歳。

王妃候補ですらあるのに、本人はまったくその気がありません。

ラゴウにとってアレクは「面倒くさい男」。

アレクにとってラゴウは「生意気な少年兵」。

まさか将来、夫婦になるとは夢にも思っていなかった二人のお話でした。

次回も引き続きお楽しみください。

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