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第95話 雨季に想う

 

 草原に雨季が来る。

 老人たちはそう言った。

 遠い地平の果て。

 黒い雲が幾重にも連なり、空を呑み込むように広がっている。

 風向きが変わった。

 乾いた土の匂いに混じって、湿った空気が流れ込む。

 馬たちは落ち着かず、羊飼いたちは急いで群れをまとめていた。

 やがて来る。

 草原を洗い流す大雨が。

 枯れた草を芽吹かせる恵みが。

 草原の民は知っている。

 自然は祝福であり、脅威でもあることを。

 だから祈る。

 だから畏れる。

 だから生きる。

 ラゴウは風の中で目を閉じた。

 3年ぶりの草原の雨季だった。

 ぽつり。

 額へ冷たい雫が落ちる。

 次の瞬間。

 空が裂けた。

 轟音。

 稲妻。

 大粒の雨。

 草原を叩く雨音は容赦がない。

 ラゴウは外套の襟を立てる。

 そして自然と笑った。

 懐かしい。

 本当に。

 懐かしい。


 ◇ ◇ ◇

 その夜。


 王庭の大天幕には雨音が響いていた。

 焚火の匂い。

 温かな乳茶が運ばれてくる。

 雨が、革張りの天幕を叩く。

 その音を聞いているうちに。

 ふと。

 昔の記憶が蘇る。

 まだ幼かった頃。

 雷鳴に怯えたカヨウが、ラゴウの寝台へ潜り込んできた。

「姉上」

「なんだ」

「今日だけ」

「嫌だ」

「姉上」

「弱虫。自分の天幕で寝ろ」

「姉上ぇ」

 結局。

 根負けしたのはラゴウだった。

 縫天婆が笑う。

 皺だらけの手で乳茶を差し出しながら。

「雷は空馬が走る音だよ」

「昔々――」

 そうして始まる神話。

 ジョカの話。

 フギの話。

 星の話。

 雨の話。

 いつのまにかカヨウが眠る。

 その寝顔を見て、ラゴウもうつらうつらと眠気に誘われる。

 その横で。

 シキが何も言わず入口に座っている。

 ただ静かに。

 天幕の外を見ていた。

 幼い王族たちを守るために。

 あたりまえだった光景。

 何でもない夜。

 何でもない雨の日。

 けれど。

 もう二度と戻らない。

 ラゴウは乳茶を飲む。

 温かい。

 胸の奥が少しだけ痛んだ。


 ◇ ◇ ◇


 そして。

 別の記憶が混ざる。

 マンションの窓を叩く雨音。

 雷。

 ソファ。

 漫画。

 ゲーム機。

「お兄ちゃん」

 小学生のケイトが毛布にくるまっている。

「また雷かよ」

「怖い」

「嘘つけ」

「ほんとだもん。一緒にいてよ」

「仕方ねえなあ」

 雨の日になると。

 ケイトはいつも機嫌が悪かった。

 高校になると、雨が降るたび、バスケで痛めた膝が疼くと言って、学校をずる休みしていた。

「ねえねえ、お兄ちゃん。退屈」

「なら学校に行け」

「やだ」

 しばらくすると。

「お兄ちゃん、ヒマ」

「知らねえよ」

「遊んでよ」

「おまえなあ」

 そう言いながら。

 結局。

 一日中一緒にいた。

 コンビニへ行ったり。

 漫画を読んだり。

 昼寝をしたり。

 どうでもいい一日。

 でも。

 今となっては。

 二度と戻らない一日。

 ラゴウは目を閉じる。

 雨音が重なる。

 草原の雨と。

 現代の雨が。

 不思議なほど似ていた。


 ◇ ◇ ◇


 雷鳴が響く。

 天幕を叩く雨。

 乳茶の匂い。

 焚火の熱。


 ――失いたくない。

 唐突に、ラゴウは思う。

 守りたいのは、国ではなく。

 そういう、雨音のする夜。

 人と人が寄り添う時間と、そのその積み重ね。

 シキ。

 カヨウ。

 ケイト。

 そして。

 不意に。

 別の男の顔が浮かんだ。

 銀色の髪。

 青灰の瞳。

 雨の日。

 どこへも行かず。

 誰とも会わず。

 ただ。

 寝台の上で毛布にくるまりながら。

 静かに一緒に過ごしたいと思う相手。

 そんなもの。

 昔は考えたこともなかった。


 ――会いたい。


 そう思った。

 その瞬間。

 ラゴウは慌てて乳茶を飲み干した。

(考えるな)

 自覚してしまったら、苦しくなる。

 会いたくて。どうしようもなくなる。


 ◇ ◇ ◇


 雷鳴が響く。

 天幕を叩く雨。

 乳茶の匂い。

 その音を聞いているうちに。

 ふと。

 別の雨の日を思い出した。

 革張りの天幕。

 そして。

 香葉の煙。

 ラゴウは思わず顔をしかめる。

(そういえば)

 昔。

 銀色の髪。

 感じの悪い笑い方。

 失礼で。

 計算高くて。

 性格が悪い。

 あいつは、そんな男だった。


 天幕を叩く雨音が、少しだけ強くなる。

 ラゴウは小さく息を吐いた。

(・・・あれも、雨の日だったな)

 アレクシスと、初めて会ったのも。

 たしか雨季のはじまる頃。

 今とはずいぶん印象が違っていた。

 でも。

 妙に目が離せなかった。


 ◇ ◇ ◇


 まだアレクシスが19の皇太子だった頃。

 草原とレザリアの友好使節団。

 表向きは親善。

 実際には、若きレザリア王の未来の王妃候補の顔合わせだった。

 誰が見ても本命はシュイだった。

 美しく、聡明で、気品に満ちたダッキの王女。

 ラゴウは13歳になったばかりで、最初から蚊帳の外だった。

 そもそも草原を出る気もない。

 だから。

 皇太子にも興味はなかった。

 ――その日の夕刻までは。


 突然の豪雨。

 横殴りの雨。

 ラゴウは近くの天幕へ飛び込んだ。

 そして。

 そこにいた。

 銀色の髪。

 整った顔。

 長い脚を投げ出して。

 勝手に乳茶を飲みながら、香葉筒をくゆらせている男。

 驚くほど態度が悪かった。

「ずぶ濡れだな」

 第一声がそれだった。

「誰だ、アンタ」

「おまえこそ誰だ」

「そっちが先に名乗れよ」

「そうか」

 興味なさそうだった。

 なんだこいつ。

 レザリアの使節団の一員か。

 それにしては、雰囲気が違う。

 そういえば、遠目に見たレザリア皇太子の髪が、月の光のような銀だった。

 きれいだな、と思った。

 まさか、目の前の鷹揚な青年が、皇太子そのひとだとは思いもしなかった。

 第一、皇太子とは、もっと格式張った生き物だと思っていた。

 男は香葉の煙を吐く。

「それ、なんだ」

「香葉だ」

「吸ってみたい」

 一度シキにねだったことがある。

 あっさりと却下された。

 男が吹き出した。

「おまえ?」

「なんだ」

「いくつだ」

「十三」

「駄目だな」

「なぜ」

「子どもだからだ」

 ラゴウはむっとした。

「ばかにするな。草原では馬を駆り弓を射ることができれば皆大人と同じ扱いだ」

「そうか」

 まったく信じていない顔だった。

 腹が立つ。

「ひと口だけ」

「駄目だ」

「けち」

「なんとでも言え」

 結局。

 押し切って一口吸った。

 そして盛大にむせた。

 男がくつくつと笑った

「げほっ!」

 咳が止まらない。

 涙まで出てくる。

 そのうち、男は腹を抱えて笑い出した。

「だから言った」

「うるさい!」

 男は笑う。

 珍しく。

 本当に楽しそうに。

「子どもが、こういう遊びはするものじゃない」

 香葉を取り上げる。

「もう二度と吸うな」

「そっちは吸ってるくせに」

「少なくともおまえより年上だ」

「アンタ、嫌なやつだな」

 すると。

 男はまた吹き出した。

「よく言われる」

 嘘だろう、とラゴウは思った。

 うすうす、こいつが皇太子なのかも、と思った。

 こんな失礼な男が皇太子なものか、とも。


雨の日の話を書きたくて生まれた回でした。

ラゴウにとって草原は故郷であり、ケイトとの記憶と重なる場所でもあります。

そして、ようやくラゴウも自覚しました。

会いたい相手が誰なのかを。

次回は十九歳の皇太子アレクシスと十三歳のラゴウの出会い編。

今とは少し違う二人をお届けします。

続きが気になった方は、ブックマークや評価をいただけると嬉しいです。

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