第94話 王を差し出す
静蘭の言葉が脳裏をよぎる。
――塔。
――裏切り。
「・・・なるほど」
カヨウではない。
あの男なら、もっと正面から来る。
怒りも。
執着も。
欲望も隠さない。
盤面ごと焼き払うことはあっても、こんな回りくどい手は好まない。
ならば。
この盤面を描いたのは別の人間だ。
橋の爆破。
偽報。
間者。
報復処刑。
味方すら欺く欺瞞。
すべてを一枚の絵として成立させるための冷徹な計算。
(・・・メフィスト)
アレクシスは小さく息を吐く。
思わず笑いそうになった。
盤面のためなら駒を切る。
百を救うためなら十を捨てる。
必要なら、自分すら切り捨てる。
そして。
その理屈が理解できてしまう自分がいる。
(そうか)
だからこそ。
吐き気がする。
そして。
同時に思う。
(まだ、甘い)
胸の奥で。
何かが静かに嗤った。
◇ ◇ ◇
戦場は混乱した。
橋は落ちた。
退路は断たれた。
濁流が包囲網となる。
さらに丘の上。
数千の草原兵。メフィスト率いるダッキ軍だ。
完全包囲。
ルシアンが顔色を変える。
「陛下」
アレクシスは数を見た。
負傷者多数。
矢の残数。
補給。
地形。
勝率。
計算する。
三秒。
十分だった。
――勝てない。
(・・・ならば)
丘の上から草原の騎馬衣装に身を包んだ男が馬を御しながら降りてくる。
メフィストだった。
悠然と。
まるで散歩でもするように。
「兄上」
アレクシスは答えない。
「取引をしましょう」
全てが、つながる。
「やはり、首謀者は、おまえか」
メフィストは否定しない。
ただ微笑む。
「身内の兵を助けたいでしょう?」
青灰の瞳が細まる。
橋の爆破。
偽報。
間者。
包囲。
そして、この男。
「・・・なるほど」
理解した。
殺すつもりはない。
捕らえるつもりだ。
王を殺せば英雄になる。
だが捕虜なら違う。
権威を奪い、自由を奪い、利用できる。
そして。
ラゴウはレザリア王を絶対に見捨てない。
メフィストが笑う。
「聡明な兄上ならば、どうすべきかお分かりですよね」
その言葉に。
アレクシスは小さく笑った。
「そうだな」
ルシアンが振り返る。
嫌な予感がした。
「陛下・・・?」
アレクシスは手の中の剣を見た。
王となってから。
常に共にあった剣。
しかし。
躊躇なく。
地面へ落とした。
甲高い金属音が響く。
静寂。
誰も動かなかった。
「兵を帰せ」
静かな声だった。
「陛下!!」
ルシアンが叫ぶ。
アレクシスは振り返らない。
ただ前を見たまま告げる。
「わたしひとりで十分だろう」
風が吹く。
「目的は達したはずだ」
「ほかの兵は帰せ」
「なりません!!」
ルシアンの声が震える。
だが。
アレクシスは一顧だにしなかった。
「この身を差し出そう」
沈黙。
やがて。
メフィストが歩み寄る。
「王みずからが、王を差し出すとは」
勝者の顔だった。
「さすが、お心の優しい兄上であられる」
アレクシスは笑った。
「優しい?」
初めて。
本当に愉快そうに。
その笑みに、メフィストの眉がわずかに動く。
「おまえは何か勘違いをしている」
底冷えするようなアレクシスの声音に、メフィストの視線が一瞬揺れる。
鎖が手首へ掛けられる。
冷たい鉄の感触。
それでも。
アレクシスの笑みは消えなかった。
「覚えておけ」
「・・・なに?」
「先に引き金を引いたのは、おまえだ」
風が吹く。
「幼い頃、母上は、よく言っていたな」
静かな声だった。
アレクシスは弟を見た。
「お前たちは、よく似ている、と」
沈黙。
「周囲の人間は正反対だと言った」
「だが、違う」
青灰の瞳が細くなる。
「卑劣さも」
「冷酷さも」
「容赦のなさも」
「目的のためなら手段を選ばぬ計算高さも」
一歩。
メフィストへ近づく。
「わたしたちはおそらく、同じものを持って生まれた」
小さく笑う。
「違うのは、おまえはそれを隠さず、わたしはそれを抑えたことだ」
その瞬間だけ。
メフィストは言葉を失った。
アレクシスは鎖を鳴らす。
「・・・果たして、どちらの根が深いか」
青灰の瞳が不吉な光を帯びる。
「おまえは必ず、わたしを敵に回した選択を、後悔するだろう」
◇ ◇ ◇
会議場には、もう誰もいない。
窓の外では雨が降っていた。
カヨウは椅子へ深く腰掛けたまま、くつくつと笑う。
「いやあ」
肩をすくめる。
「まさか、こんな人でなしの方法でレザリア王を捕縛するとは思わなかったよ」
メフィストは書類へ目を落としたまま答える。
「最も成功率が高い方法を選んだだけです」
「ほんとうに姉上が殺されかけたのかと思った」
「思っていただかなければ困ります」
淡々とした声。
「まずは騙すなら味方から、というでしょう」
カヨウが吹き出す。
「だから僕にも教えなかった?」
「そうです」
メフィストは紅茶を口に運ぶ。
「あなたには迫真の演技をしていただく必要がありました」
「演技じゃなくて本気だったけどね」
カヨウは苦笑した。
「心臓が止まるかと思った」
「でしょうね」
悪びれもしない。
「そのおかげでアレクシス王も動いた」
静かな声だった。
「結果として、最小限の損害で捕縛に成功しています」
カヨウはしばらく黙った。
窓の外を見る。
雨。
風。
遠く。
バテレノア監獄の方角。
「あのさあ」
ぽつりと問う。
「殺したほうが早かったんじゃない?」
メフィストは即答した。
「それでは意味がありません」
「意味?」
「死者は英雄になってしまう」
暗青の瞳が細まる。
「ですが捕虜は違う」
「権威を失墜させられる上に、生きている限り、利用できる」
カヨウは目を細めた。
「人質か」
「その通りです」
「姉上を縛るための」
「ええ」
静かに頷く。
「アレクシスが生きている限り、ラゴウは完全には草原を捨てられない」
「逃げることもできない」
「我々の盤上へ戻ってくる」
カヨウは苦笑した。
「ほんと」
頭を掻く。
「おたく、あの公明正大なレザリア王の弟なんだよね?」
「そうですが」
「にしては随分と卑劣だ」
沈黙。
メフィストはしばらく考えるように目を伏せた。
やがて。
小さく笑う。
「母はよく言っていました」
その笑みはどこか皮肉めいている。
「お前たちはよく似ている、と」
カヨウが眉を上げる。
「似てる?」
「ええ」
メフィストは窓の外を見る。
「お前は偉大な人間になるだろう、と」
「そして兄は」
わずかに間を置く。
「歴代最高の王になるか」
「国を滅ぼす逆賊になるか」
窓を打つ雨音だけが響く。
「どちらかだと」
カヨウは思わず吹き出した。
「王になるか、怪物になるかってこと?」
肩をすくめる。
「でも捕まえたじゃないか」
雨音。
「収監先はバテレノア監獄だ」
「もう終わりだろう?」
その言葉に。
メフィストは珍しく即答しなかった。
窓を打つ雨音だけが響く。
そして。
「そうでしょうか」
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
ついにアレクシスが捕縛されました。
そして、お気づきの方もいるかもしれませんが、この回で描きたかったのは「王の敗北」ではありません。
むしろ逆です。
王としてのアレクシスが終わりを迎えたことで、これまで抑え込まれていたものが少しずつ顔を出し始めます。
メフィストは、自分が兄を理解しているつもりでした。
ですが本当にそうだったのか。
バテレノア監獄編、開幕です。
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