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第93話 罠

 

 ラゴウ帰還から3週間。

 表向きには、草原とレザリアは和平へ向かっていた。

 ナイルート河川協定の最終締結を前に、双方は互いの使節団を交換している。

 草原からは部族長代理や交易官。

 レザリアからは外交官や治水技師。

 彼らは相手国へ滞在しながら、最後の調整を続けていた。

 人質ではない。

 だが。

 互いの誠意を示すための、重要な政治的駒であることに違いはなかった。

 ナイルート河川協定最終会合。

 会場となったのは河畔の中立都市。

 神殿。

 草原。

 レザリア。

 各部族長。

 国々の均衡と人々の未来が、ひとつの署名へ収束しようとしていた。

 調印まで、あと一歩だった。

 アレクシスは卓上の文書へ目を落とす。

 共同治水権。

 港湾利用。

 交易管理。

 遊牧民保護。

 長かった交渉も、ようやく終わろうとしている。

 神官が立ち上がった。

「では、本協定を――」

 その瞬間だった。

 扉が乱暴に開く。

 飛び込んできた伝令は、息を切らしていた。

「急報!」

 場の空気が変わる。

「草原王都にて爆発!」

 ざわめき。

 伝令は叫んだ。

「女帝ラゴウ暗殺未遂!」

 椅子が倒れる。

 カヨウだった。

「姉上が?」

 その声は、かすかに震えていた。

 伝令は続ける。

「犯人はレザリア過激派との情報が!」

 アレクシスの青灰の瞳が細くなる。

 早すぎる。

 犯人の特定が。

 あまりにも。

「現在、草原王都に滞在中のレザリア使節団が拘束されています!」

 会場が騒然となる。

 部族長たちが立ち上がる。

 神官たちがざわめく。

 カヨウの表情から血の気が消えていた。

 だが。

 アレクシスは黙っていた。

 何かがおかしい。

 胸の奥で警鐘が鳴る。

 その時。

 さらに別の伝令が駆け込んできた。

 顔面蒼白だった。

「急報!」

 嫌な予感がした。

「草原王都で報復処刑が始まりました!」

 静寂。

 誰も声を出せない。

 伝令は叫ぶ。

「拘束されていたレザリア使節団の護衛兵数名が、すでに処刑されたとのことです!」

 空気が凍った。

 アレクシスは目を閉じる。

 一瞬だけ。

(罠か)

 そう思った。

 だが。

 もし本当なら。

 今この瞬間にも、自国民が殺されている。

 ラゴウなら簡単には死なない。

 だが。

 使節団は違う。

 このまま報復が連鎖すれば、協定は崩壊する。

 ――戦争になる。

 アレクシスは立ち上がった。

「ルシアン」

「はっ」

「草原王都へ向かう」

 ルシアンも異論は唱えない。

 王としての判断だ。

 会議場を出て、足早に歩きつつ、アレクシスは次々と指示をする。

「同時に、鷹を飛ばせ」

 青灰の瞳が細くなる。

「諜報第1隊、第2隊を動員」

「ラゴウ暗殺未遂」

「使節団拘束」

「報復処刑」

「すべての裏を取れ」

 ルシアンの目が鋭くなる。

「偽報の可能性を?」

「ある」

 即答だった。

「犯人の特定が早すぎる」

「それに」

 アレクシスは窓の外を見る。

「ラゴウはそう簡単に死なない」

 わずかな笑み。

 だが。

 すぐに表情は消えた。

「しかし、草原王都にいる使節団は別だ」

「もし報告が事実なら、一刻を争う」

 ルシアンが頷く。

「承知しました」

「王都と神殿にも連絡を」

「本件に関する情報は、すべて私へ直接上げろ」

「はっ」

 アレクシスは踵を返した。

(罠か)

 胸の奥で警鐘が鳴る。

 だが。

 仮に罠だとしても。

 行かないという選択肢はない。

 王だからだ。



 カヨウもまた立ち上がる。

 その双眸に、はっきりとした焦りと怒りが燃えていた。

 会合は完全に崩壊した。


 ――誰も気づかない。

 長机の向こうで。

 メフィストだけが、静かに目を伏せていた。

 口元に、わずかな笑みが浮かぶ。

 すべてが予定通りだとでもいうように。


 ◇ ◇ ◇


 馬を飛ばす。

 アレクシスが率いるのは近衛騎士団を中心とした三百騎。

 一刻を争う。

 大軍の集結を待っている時間はなかった。

 後続には神殿都市駐留軍が続く。

 合流は翌朝の予定だった。

 ナイルート支流へ差しかかった時だった。


 轟音。

 地面が揺れた。

 次の瞬間。

 橋が吹き飛ぶ。

 濁流が噴き上がった。

「爆破!?」

 ルシアンが叫ぶ。

 さらに。

 対岸から矢の雨。

 悲鳴。

 馬が倒れる。

 兵が落ちる。

 アレクシスの青灰の瞳が細くなる。

 理解した。

 これは襲撃ではない。

 事故でもない。

 最初から仕組まれた包囲だ。

 橋を落とし、退路を断ち、こちらをこの場所へ誘い込んでいる。

「撤退!!」

 即座に命じる。

 だが遅かった。


 今度は背後。

 味方だったはずの兵が剣を抜く。

 レザリア軍の軍服。

 だが。

 向ける刃はレザリア兵だった。

 ――裏切り。

(自軍の中に、間諜を仕込まれていたか)

 アレクシスの瞳が細まる。

 不思議なほど、怒りはなかった。

 焦りも。恐怖も。

 ない。

 あるのは理解だけだった。

 橋の爆破。偽報。使節団拘束。報復処刑。そして内通者。

 ばらばらだった駒が、ひとつの盤面へ収束していく。

(最初から狙いは、わたし一人)

 ラゴウでも。

 協定でも。

 レザリアでもない。

 理解した瞬間、世界から音が消えた。

 悲鳴も。怒号も。剣戟も。

 遠い。

 王の頭の中だけが、異様なほど澄み切っていく。

 何人いる。

 誰が寝返った。

 退路は。

 補給線は。

 水門の規模は。

 包囲完成まで何分。

 どこで切る。

 どこを捨てる。

 どこを生かす。

 冷たい論理が積み上がる。

 一段。

 また一段。

 まるで処刑台を組み上げるように。

 ルシアンが叫んだ。

「陛下!」

 その声で現実へ戻る。

 アレクシスは静かに周囲を見渡した。

 兵たち。

 負傷者。

 崩落した橋。

 迫る敵。

 そして。

 逃げ遅れた自軍。

 青灰の瞳が細まる。

(なるほど)

 思わず笑いそうになった。

 これほど見事な罠は久しぶりだった。

(面白い)


ここまで読んでくださり、ありがとうございます。

ついに来ました。

アレクシス捕縛編です。

これまでのアレクは「王」として動いていましたが、ここから先は少しずつ違う顔が見えてきます。

ラゴウ、カヨウ、メフィスト。

それぞれが守りたいもののために動く中で、一番厄介なのは誰なのか。

作者も楽しみながら書いています。

面白いと思っていただけましたら、ブックマークや評価で応援いただけると励みになります。

次話もお楽しみください。

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