第92話 故郷
草原の風は、変わらなかった。
高く。
どこまでも高く。
青い空を渡る風。
馬の鬣を揺らし、ラゴウの長い赤髪を攫ってゆく。
思わず目を閉じる。
懐かしい匂いだった。
乾いた草。
羊。
馬。
遠くで焚かれる火。
肺いっぱいに吸い込む。
胸の奥が、少しだけ痛んだ。
――帰ってきた。
ジョカの王女の帰還の知らせは、すでに草原全土へ広がっているらしい。
道中では何度も人々が馬を止めた。
子どもたちが駆け寄る。
老人たちが涙を流す。
女たちは祈るように額へ手を当てた。
「ラゴウ様だ」
「ジョカがお帰りになった」
その声を聞くたびに。
ラゴウは、妙に居心地の悪さを覚えた。
自分は神ではない。救世主でもない。
ただ。
少し馬に乗れて。
少し弓が引けて。
少し喧嘩が強いだけの女だ。
だが。
その女が戻ることで救われると信じている人々がいる。
ジョカとは、王ではない。
草原の民にとっては、もっと別のものだ。
雨季が来るたび、干ばつが来るたび、疫病が流行るたび。
草原の民は、自然に生かされ、自然に試されながら生きている。
家畜が死に、子どもが飢え、親が泣くたび。
人々は空を見上げる。
そして祈る。
草原が、今年も生き延びられますように、と。
ジョカは、その祈りの受け皿だった。
空と人を繋ぐ者。
草原そのものを体現する者。
豊穣も。災厄も。恵みも。痛みも。
すべて引き受けて立つ者。
だから草原の民は、王よりも先にジョカを見る。
誰が命じるかではなく。
誰が共に祈るかを。
誰が共に生きるかを。
見ているのだ。
だから人々は、ジョカを求める。
強い王だからではない。
完璧な統治者だからでもない。
草原を愛する者だからだ。
その事実だけが。
ラゴウの胸を、少しだけ苦しくさせた。
◇ ◇ ◇
草原の都――王庭が見えてくる。
遠く。
地平線の向こう。
見慣れた草原の風景。
――のはずだった。
ラゴウは眉をひそめる。
「・・・なんだ?」
視界の先。
見知らぬ建物が並んでいた。
石造りの倉庫。
見張り塔。
木柵。
整備された街道。
荷車の列。
かつて放牧地だった場所に、巨大な市場が築かれている。
「港湾交易区です」
隣を進む役人が答えた。
「カヨウ様のご命令で」
ラゴウは黙る。
さらに進む。
今度は牧草地が見えた。
だが。
羊の群れは少ない。
馬も少ない。
代わりに畑が広がっていた。
風に揺れる穀物。
灌漑用の水路。
「・・・放牧地は」
「一部を農地へ転用しました」
「冬の備蓄のためです」
正しい。
ラゴウにも分かる。
飢饉は何度も草原を襲った。
冬を越せず死んだ子どもたちを知っている。
だから否定できない。
だが。
胸のどこかが引っかかる。
王都へ入る。
市場は賑わっていた。
昔より人が多い。
品物も多い。
羊毛。
薬草。
毛皮。
鉄器。
ガラス。
レザリア製の布。
南方の香辛料。
かつては見たこともない商品が並んでいる。
豊かになった。
それは間違いない。
なのに。
ラゴウは足を止める。
耳を澄ませる。
何かが足りない。
馬の匂いがしない。
子どもが駆け回っていない。
即興の歌が聞こえない。
昔。
市はもっと騒がしかった。
商人たちの怒鳴り声。
子どもたちの笑い声。
酒に酔った男たちの歌。
旅人の噂話。
馬のいななき。
全部が混ざっていた。
今は違う。
整然としている。
効率的だ。
管理されている。
まるで。
草原ではなく。
どこか別の国のようだった。
その夜。
ラゴウはひとりで、草原王族の住まう大天幕群――王庭を抜け出した。
誰にも告げず。
馬を駆る。
風を切る。
王庭の灯が遠ざかる。
やがて。
ひとつの丘へ辿り着く。
子どもの頃。
よく来た場所だった。
ここでシキに肩車をせがみ、ここでカヨウと喧嘩をし、ここで羊を追いかけ回した。
懐かしい場所。
だが。
誰もいない。
羊もいない。
遊牧民の天幕もない。
火もない。
歌もない。
風だけが吹いていた。
ラゴウは草の上へ腰を下ろす。
一本。
草を引き抜く。
指先で擦る。
青い匂いがした。
懐かしい匂い。
変わらない。
なのに。
胸が苦しかった。
「おかえり」
からかうような声音の声。
振り返らなくても分かる。
カヨウだった。
「やっと僕のところに帰ってきてくれた」
カヨウが隣へ腰を下ろす。
昔と同じ。
子どもの頃と同じ距離。
だが。
もう何もかもが違う。
風が吹いた。
カヨウは丘の下を見た。
王都。
市場。
街道。
倉庫。
見張り塔。
遠くには新しく築かれた港湾区画の灯まで見える。
「どう?」
静かな声だった。
「ぼくの国は」
ラゴウは答えない。
しばらく黙っていた。
やがて。
ぽつりと言う。
「豊かになったな」
カヨウが笑う。
嬉しそうに。
誇らしそうに。
「だよね」
「ああ」
「もう冬に子どもは死なない」
「飢えない」
「交易もある」
「港もできる」
「レザリアとも対等になれる」
カヨウの瞳が輝く。
「姉上」
ラゴウの瞳をのぞき込むように、カヨウは首をかしげた。
「ぼくたちは、ようやく草原を越えられる」
ラゴウは黙る。
――草原を、超える。
それは、どういう意味だ。
「風の匂いが変わった」
カヨウの笑顔が凍る。
「羊の数も減った」
「移動民も少ない」
「市から歌声も聞こえなくなった」
風が吹く。
「姉上」
カヨウが静かに言った。
「それで人は生きられるの?」
ラゴウが顔を上げる。
「自然とともに生きるのが草原の誇りだと教えられたけど」
「でも」
「飢えた」
「凍えた」
「死んだ」
声は穏やかだった。
だが。
その奥には強い熱がある。
「ぼくはもう嫌なんだ」
「風や祈りだけじゃ守れない」
「馬と弓だけじゃ国は続かない」
「だから変える」
沈黙。
「姉上の草原じゃない」
カヨウが王都を見る。
「これは」
「ぼくの国だ」
ラゴウは目を閉じた。
分かっている。
カヨウは何も間違っていない。
飢饉をなくしたい。
冬に子どもを死なせたくない。
草原を豊かにしたい。
そのために変えようとしている。
それは王として当然のことだ。
だが。
胸の奥に、小さな棘が刺さったまま抜けない。
何かが違う。
何を失おうとしているのか。
まだ言葉にならなかった。
長い沈黙。
やがて。
カヨウが笑った。
「ねえ」
どこか壊れたような笑顔だった。
「全部終わったらさ」
ラゴウが顔を上げる。
隣に座る男の横顔は、もう幼い弟のそれではなく。
新たな時代を築こうとしている、草原王の顔だった。
「いつか」
「ぼくの花嫁になってくれる?」
風が止まる。
冗談みたいな口調。
ラゴウはしばらく何も言わなかった。
脳裏を過る。
肩車をしてくれたシキ。
羊を追いかけていた幼いカヨウ。
草原の星空。
そして。
――銀髪の、王。
ラゴウは静かに首を振る。
「いつか、はない」
カヨウの瞳が揺れた。
「どうして?」
ラゴウは空を見上げる。
果てしない夜空。
風。
草。
星。
少しだけ考える。
そして。
「わたしたちは、違う」
風が吹く。
長い沈黙のあと。
カヨウは小さく笑った。
「やっぱり」
「姉上だ」
夕陽が沈む。
草原が赤く染まる。
ラゴウは黙って風を見つめる。
守りたいものが、ようやく分かった気がした。
王都でもない。
港でもない。
国ですらない。
雨を畏れ、火に感謝し、星を見て進む。
そうやって何百年も生きてきた人々の営み。
草原の祈りそのものを。
失いたくなかった。
故郷は、帰ればいつでも同じ場所にあるわけではありません。
人も変わる。
国も変わる。
そして、自分自身も変わっている。
今回のラゴウは、変わってしまった草原を見ながら、自分が本当に守りたいものは何かを考える回でした。
カヨウは豊かな国を作ろうとしている。
ラゴウは人々の営みや祈りを守ろうとしている。
どちらも間違いではありません。
だからこそ、この姉弟はすれ違います。
静蘭の占いが示した運命が、動き始めます。
もし物語を楽しんでいただけましたら、ブックマークや評価をいただけると、とても励みになります。
いつも読んでくださって、本当にありがとうございます。




