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第100話 知らない男の匂い


 短い雨季が終わった。

 草原には、もう冬の匂いが混じり始めている。

 ラゴウは王庭の天幕群の一角に住まいを定めていた。

 定めたというより。

 閉じ込められていた、と言う方が正しい。

 雨季の間、王庭の外へ出ることはほとんど許されなかった。

 表向きは安全のため。

 だが実際には違う。

 カヨウはラゴウへ届く情報を制限していた。

 草原の動き。レザリアの動き。王庭へ届く書簡。

 その多くが、一度カヨウの手を通る。

 余計なことを考えさせないために。

 余計な場所へ行かせないために。

 そして。

 余計な男を思い出させないために。

 まるで美しい野鳥を籠へ入れるように。

 もっとも、それは完全に成功していたわけではない。

 シキがいた。

 草原王の影。

 王庭の誰より自由に内外を出入りし、誰より多くの情報を握る男。

 そして。

 ラゴウの知らないところで、すでに動いていた。

 アレクシス捕縛の報せが届いた数日後。

 シキはユイを呼びつけている。

「あの男に監獄を壊させるな」

 なぜか突然放免されて、うきうきと草原に戻ったばかりのユイは、目をぱちくりさせた。

「えっ?」

「バテレノア監獄だ」

「ああ」

「レザリア王が収監された」

 ユイは一瞬だけ沈黙した。

 それから。

「あー……」

 なんとも言えない顔になった。

「その反応はなんだ」

「いやあ」

 ユイは頬をかいた。

「だってぇ」

 嫌な予感しかしない。

 そんな顔だった。

「別に、陛下はほっといても自力で脱出しちゃうんじゃないですかぁ?」

 何かをごまかすような猫なで声で侍女が言う。

「アレクシスを助けに行けとは一言も言っていない」

「ええぇ・・・」

 心底嫌そうだ。

「放っておけば監獄の方が先に壊れる。それを止めろと言っている。わかってるだろう」

「無理ですって」

 ユイは全力で首を振った。

「陛下、今たぶんキレてますよ?」

「そのようだな」

 集まってくる報告は、どれも異様だった。

 脱獄未遂。

 看守同士の不和。

 監獄長と副監獄長の対立。

 消える帳簿。

 消える備品。

 捕虜になった王の仕業とは思えない。

 シキは小さく息を吐く。

 育ちの良い王だと思っていた。

 だが違った。

 あれは獣だ。

 獲物を仕留めるためなら、何日でも待つ。

 何年でも執着する。

 そして一度牙を立てたら離さない。

「陛下は本質的に凶悪です」

 ユイが真顔で言った。

「知っている」

 即答である。

「じゃあ何で行かせるんですか!」

 ユイが叫んだ。

 シキは平然と答える。

「おまえは元バテレノア監獄の第一獄吏だからだ」

「理由になってない!」

「監獄の構造を知っている」

「だからって!」

「監獄が内部崩壊する前に、あの男を外へ出せ」

 ユイは頭を抱えた。

「外って・・・」

「レザリアに送り返せ」

「だから無理ですってぇ……」

 盛大なため息。

 そして覚悟を決めたように、一気にまくしたてる。

「各国の和平のために、陛下は姫様を草原へ返したんですよ?」

「その協定をぶち壊したのはメフィスト様です」

「つまり陛下からすれば、姫様返還も離婚も、とっくに無効なんです!」

 シキは黙って聞いている。

 ユイはさらに続けた。

「今の陛下が監獄を出たらどうなると思います?」

「最優先で姫様を奪い返しに行きますよ」

「レザリアになんて帰りません」

「絶対に」

 シキが眉をひそめる。

「だから止めろと言っている」

「だーかーら!」

 ユイは叫んだ。

「もう止まる段階を過ぎてるんですって!」

「漏れ聞く話を総合する限り、陛下はもう完全にキレてます!」

「普段穏やかな人が本気で怒るのが一番厄介なんですよ!」

 そこで少しだけ真顔になる。

「しかも陛下は、恐ろしく頭が切れる」

 沈黙。

 ユイは指を突きつけた。

「陛下を追い払いたいなら、自分でやってください」

「シキ様が」

 童顔の侍女は、上目遣いで、断固として、シキを睨む。

「じ・ぶ・ん・で!」


 ◇ ◇ ◇


 朝だった。

 短い雨季が終わった。

 王庭では冬支度が始まっている。

 羊毛を運ぶ者。馬の世話をする者。天幕を補強する者。

 誰もが忙しく動いていた。

 だが。

 ラゴウは違和感を覚えた。

 シキがいた。

 いるにはいる。

 だが、様子がおかしい。

 旅装束だった。

 腰には刀。背には弓。長旅へ出る時の装い。

 それ自体は珍しくない。

 問題は表情だった。

 眼帯で両目を覆っているにも関わらず、明らかに、機嫌が悪い。

 ラゴウは思わず眉をひそめる。

「何だ、その顔」

 シキは荷を括りながら答えた。

「どの顔だ」

「面倒ごとを押し付けられたような顔」

 沈黙。

 やがて。

「当たっているな」

 あっさり認めた。

 ラゴウは目を瞬く。

 珍しい。

 この男が愚痴のようなことを言うのは。

「何があった」

「仕事だ」

「どこへ行く」

「北」

 嫌な予感がした。

 草原北部。

 そして、この時期にシキが自ら動く理由。

 そう多くはない。

「何か隠してるだろ」

「別に」

「嘘だ」

 シキはため息をついた。

 本日何度目かも分からないため息だった。

 ラゴウはますます怪しく思う。

「おい」

「何だ」

「何があった」

 シキはしばらく黙った。

 それから。

 心底面倒そうな顔で言った。

「面倒な男を回収してくる」

 ラゴウは固まった。

「なんだって?」

「行き先はバテレノア監獄だ」

「なぜ?」

 シキは肩をすくめる。

「レザリア王が捕まった」

 沈黙。

 風が吹く。

 天幕が鳴る。

 ラゴウは瞬きを忘れた。

「・・・誰が?」

「アレクシスだ」

 頭が追いつかない。

 理解が遅れる。

 レザリア王。

 捕縛。

 監獄。

 アレク。

 言葉だけが耳に残る。

「いつの話だ」

「ひと月ほど前だな」

 ラゴウの顔色が変わった。

「ひと月!?」

 思わず叫ぶ。

「なぜ今言う!」

「言えば飛び出すだろう」

「当たり前だ!」

「だから言わなかった」

 ――こいつ!

 ラゴウは本気で殴りかかりそうになる。

 だが。

 別の疑問が先に浮かぶ。

 この男が。

 何もしていないはずがない。

「待て」

 シキを見る。

「おまえが黙って見てるわけがない」

 沈黙。

「・・・何をした」

「ユイを送った」

 ラゴウは額を押さえた。

 予想通りだった。

「いつ」

「報せが届いた翌日だ」

「おまえな・・・」

「元獄吏だからな」

 シキは平然としている。

「適任だ」

「そういう問題じゃない」

「そういう問題だ」

 即答だった。

 そして。

 珍しく本気でうんざりした顔をする。

「放っておけば監獄が崩壊する」

「・・・なに?」

「監獄長と副監が争いをはじめた」

「看守同士も疑い合っている」

「囚人たちも不満を募らせている」

 ラゴウは驚いたように目を見張る。

「なにが起こってるんだ」

 シキは短く答える。

「アレクシスが裏で糸を引いている」

 ――とんだ極悪人だ。狡猾で容赦がない。

 その声音には、妙な確信があった。

 長い付き合いの人間に向けるような。

 嫌というほど知っている相手に向けるような。

 風が吹く。

 シキは遠くを見る。


 雨の日だった。

 十三になったばかりのラゴウ。

 ずぶ濡れで帰ってきた。

 香葉の匂い。

 焚火の匂い。

 そして。

 知らない男の匂いをつけてきた。

 初めてだった。

 ラゴウが、自分の知らない男の話をしたのは。

 シキは静かに目を閉じる。

 あの時なら。

 まだ間に合ったかもしれない。

 まだ王になる前。

 まだ傷心と孤独を抱えた年若い王子だった頃なら。

 苦々しく呟く。

「・・・始末しておくべきだった」

 ――もはや、手に追えない男になってしまった。

 よりによって、あんな男に恋をするとは。

 そして、あんな男に、本気で惚れられるとは。

「おい」

「冗談だ」

 シキは言う。

 だが。

 その声音に。

 冗談はひとつも混じっていなかった。

 風が吹く。

 冬の匂いがした。

 そしてラゴウは知らない。

 その頃。

 草原最北端の監獄で。

 その男がすでに脱獄の準備を終えつつあることを。



第100話までお付き合いいただき、ありがとうございます。

今回は久しぶりにラゴウ側の視点でした。

監獄で暗躍するアレクシスを書いていると、どうしても彼ばかり出番が増えてしまうのですが、その間、草原ではシキとユイが頭を抱えていました。

特にシキは、たぶん作中で一番アレクシスという男を正確に評価している人物です。

賢王。

名君。

英雄。

そう呼ばれる一方で、

「放っておくと監獄の方が先に死ぬ」

と本気で思っているのもまたシキです。

そして今回のタイトル『知らない男の匂い』。

ラゴウにとっては、初恋の始まりだった雨の日。

シキにとっては、後々とんでもない厄介事になる男との最初の接触でした。

盤面はほぼ整いました。

崩れるのが先か。

逃げるのが先か。

お楽しみいただければ幸いです。


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