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第89話 もう一度、振り向かせたい

 

 神殿は、静かだった。

 白い石床。

 冷たい香。

 高い天井。

 どこまでも清潔で。

 どこまでも無機質だった。

 まるで。

 誰の感情も、ここには必要ないように。

 長机の向こうには、神官たちが並んでいる。

 王妃解任。

 婚姻解消。

 ナイルート河川協定に伴う、草原側への返還。

 読み上げられる言葉は、どれも事務的だった。

 感情など、一片もない。

 すでに神殿の視線は、“次の秩序”へ向いている。

 草原。

 王権。

 新しい統合国家。

 その中心へ誰を置くべきか。

 誰が不要になるのか。

 それだけだ。

 ラゴウは、長机の前に立ったまま、小さく息を吐いた。

(・・・ほんと、感じ悪いな)

 横を見る。

 アレクシスは、まだ署名していなかった。

 机の上。

 離婚請願。

 婚姻解消文書。

 その最後の欄だけが、空白のまま残されている。

 神官のひとりが、硬い声で告げた。

「陛下」

「正式受理には、両者の署名が必要です」

 沈黙。

 アレクシスは、答えない。

 青灰の瞳だけが、静かに書類を見つめていた。

 ラゴウは、困ったように軽くため息をついた。

「・・・アンタさぁ」

 返事はない。

「つべこべ言ってないで、さっさと署名しろ」

 空気が止まる。

 神官たちが、わずかに顔を上げた。

 ラゴウは、いつもの調子で肩を竦める。

「死に別れるわけじゃあるまいし」

 軽い声だった。

 冗談みたいに。

 いつも通りに。

 けれど。

 その指先だけが、わずかに震えていた。

 アレクシスは、それを見る。

 ――この女は。

 たぶん、泣かない。

 本当に苦しい時ほど、笑うひとだ。

 だからこそ。

 胸が、裂けそうだった。

「・・・ラゴウ」

 掠れた声。

 ラゴウは、わざと大げさに眉を寄せた。

「王が駄々をこねるな」

 不機嫌に、嫌味な口調を装う。

「国を回すのが、アンタの仕事だ」

 笑ってみせる。

 いつものように、遠慮なく、不敵に。

 その笑顔が。

 あまりにも痛かった。

 長い沈黙のあと。

 ようやく。

 アレクシスは、署名した。

 その瞬間。

 乾いた音を立てて、神官が文書を閉じる。

 まるで。

 夫婦だった時間そのものへ、蓋をするように。


 ◇ ◇ ◇


 石造りの離宮は、静かだった。

 窓の外では、春先の風が白いカーテンを揺らしている。

 テーブルの上には、茶器と菓子。

 そして。

 山のように積まれた焼き菓子が、ものすごい勢いで消えていた。

「・・・おまえ、よく食べるな」

 ルシアンが、呆れたように言う。

 向かいでは、ユイが両頬いっぱいに菓子を詰め込んでいた。

「だってぇ、草原帰れないんですよぉ?」

「ストレスで死んじゃいますぅ」

 もぐもぐと咀嚼しながら、不満げに言う。

 草原の監獄で手練れの拷問官だったこの侍女は、草原から一時的に追放処分を受けている。

 正式に罪状が解かれるまで、レザリア王宮預かりになったのだ。

 本人は、かなり不服だ。

「まあまあ」

 静蘭が、優雅に茶を口へ運ぶ。

「王宮のお菓子は美味しいでしょう?」

「とっても!」

 にこにこと答える。

「でも、姫様が買ってくれたお菓子はもっと甘かったのに・・・」

 王の眉が、ぴくりと動いた。


 ◇ ◇ ◇


 ラゴウ返還後。

 王都を覆っていた緊張は、一時的に緩和されていた。

 草原側は、“ジョカ帰還”を理由に、フェルン周辺の武力圧力を一部解除。

 メフィスト率いるダッキ族軍も、王都外周から主力を後退させている。

 河港封鎖も限定的ながら緩和され、止まりかけていた物流も、わずかに再開し始めていた。

 表向きには、レザリアと草原は、“和平”へ向かっているように見える。

 だが実際には。

 ナイルート河川協定は、まだ正式締結に至っていない。

 共同治水権。

 交易管理。

 草原民の定住区画。

 神殿権限。

 王権の再編。

 決めなければならないことは、山ほど残っていた。

 来月。

 再び、協定会合が開かれる予定になっている。

 そして、誰も知らない。

 その会合こそが。

 レザリア王アレクシスを、死地へ追い込む罠になることを。


 ◇ ◇ ◇


 アレクシスは、深く息を吐いた。

 離婚請願成立後。

 王妃ラゴウは、正式に草原へ返還された。

 王宮は静かだった。

 その沈黙を破ったのは、静蘭だった。

「見事に、振られてしまわれたんですね」

 さらり、と。

 アレクシスは、紅茶へ口をつけたまま答える。

「振られるどころか」

 淡々と。

「寝台の上で組み敷かれて、告白されたぞ」

 後ろに控えていたルシアンが、ぎょっと目をむく。

「まあ」

 静蘭が、ぱちりと目を丸くした。

 そして。

 くすくすと笑う。

「王妃らしい」

 アレクシスは、窓の外を見た。

 草原へ続く空。

 もう、あの赤い髪の女はいない。

 胸の奥に、言いようのない虚しさと痛みが広がる。

「・・・連れて逃げるか」

 ぽつり、と。

「閉じ込めるか」

 静蘭が微笑む。

「はい」

「泣いて縋るか、本気で考えたんだが」

 ユイが、もぐもぐしながら頷く。

「わー。重い」

「おまえは黙っていろ」

 ルシアンが侍女を小突く。

「どれも、合意を得られなさそうな選択肢ですわね」

 静蘭が、涼しい顔で茶器を置く。

 アレクシスは、小さく笑った。

「そうだろう」

 沈黙。

 やがて。

 低い声が落ちる。

「ならば」

 青灰の瞳が、静かに細まった。

「もう一度、彼女を振り向かせればいいんじゃないかと」

 静蘭の眉が、わずかに動く。

「どうやって、わたしと共に生きたいと思えるように、仕向けようかと」

 風が吹く。

「全然、諦めてないんですね」

 ルシアンが、疲れ切った顔で呟く。

「嫌いになったとは、言われていない。別れようとも。・・・それどころか」

 あの女は。

 このわたしを組み敷いて、「愛している」と。


 ――アンタだけだよ。


 最悪だったはずの夜を。

 底知れぬ明るさで、あっさりと塗り替えてしまった女の。

 やさしさと、体温。

(・・・忘れられるものか)

 諦められるものか。

 世界のどこを探しても、あんな女は、いない。


第89話をお読みいただき、ありがとうございました。

ついに離婚請願が成立しました。

……成立したのですが、誰も失恋していない回になりました。

アレクシスが思ったより全然諦めていません。

むしろ「どうやってもう一回振り向かせるか」を真面目に考え始めています。

王としては優秀なのに、恋愛になるとだいぶ面倒な男です。

一方のラゴウも、「離婚=別れ」だとはあまり思っていない様子。

このあたりの価値観のズレは、今後も二人らしく続いていきます。


そして物語は、いよいよ終盤へ。

ナイルート協定。

草原。

カヨウ。

シキ。

そして、アレクシスが見ることになる未来。

それぞれの思惑が、少しずつひとつの場所へ集まり始めます。

次回もお付き合いいただけましたら幸いです。


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