第88話 夜を越えて
朝だった。
薄い光が、石室へ差し込んでいる。
肌には、まだ熱が残っていた。
乱れた寝具。
剥がれ落ちた衣。
女の体じゅうに、残る、痕。
アレクシスは、ゆっくりと目を開ける。
(・・・くそ)
何かを打ち消すように、指で額を抑える。
昨夜。
理性が、壊れていた。
半ば強引に、身体を繋げてしまった、記憶。
自己嫌悪と、なお止まぬ欲情。
繰り返し、繰り返し、嬲るように、責めた。
(・・・どうかしていた)
傷つけた。
自分でも、分かっている。
抑えられなかった。
ひどい抱き方をした。
ああでもしなければ。
――繋ぎ止めていられない気がした。
その、どうしようもない焦燥と、不安を、この女は、ただ黙って、受け止めたのだ。
分かっている。
どれほど自分勝手で、一方的で、思慮のない抱き方をしてしまったのか。
蹂躙したのと同じだ。
(・・・最低だ)
抱き潰した。
どうすれば、彼女を自分の傍にとどめておけるのかと。
アレクシスは、深く息を吐いた。
腕の中には、ラゴウ。
泣き疲れたように静かに目を閉じていた女の睫毛が、わずかに揺れた。
やがてゆっくりとまぶたが開く。
金色の瞳が、ぼんやりと男を捉えた。
それから。
責めるでもなく。
怯えるでもなく。
ただ。
どこか困ったように、小さく笑った。
「また、傷つけてしまいしたよね」
「・・・アンタのほうがよっぽど傷ついた顔をしてるぞ」
どこまでも愛おしい、金色の瞳が、やわらかく、揺れる。
「・・・大丈夫。別に、いやじゃなかった。ただ少し、びっくりしただけだ。そんな顔をするな」
青灰の瞳が、苦痛の色を帯びて揺れる。
「・・・ちがう」
――自分は、間違いなく、深く、このひとを、傷つけたのだ。
「自分を責めなくていい」
「ひどい抱き方をしました」
「・・・アレク」
ラゴウが、笑う。
「愛してる」
アレクシスの目が見開かれる。
「アンタの王妃も、アンタの妻もやめるけど」
はっきりと、告げる。
「愛している」
誰にも言ったことがない言葉だった。
ラゴウであるときにも。ジンナイであるときにも。
「勝手に吹っ切れないでください」
「いや、吹っ切ったわけじゃなくて」
蜜色の瞳に、アレクシスが映る。
「別に無理に、王妃であり妻である必要はない。離れるほうがメリットが大きいのなら、そっちを一時的に選択しておくだけだ」
「・・・言っていることの、意味がわからない」
「だから・・・未来がどうなるかなんて、分からないだろう」
「あなたを手放して、わたしの望む未来があるとでも?」
「未来なんて、いくらでも変えられる」
「あなたと暮らす未来は?あなたとわたしの子を育て慈しむ未来は?」
「まあ、そのうち機会があるさ」
「機会って、いったいいつですか」
半ば男は混乱する。
なにを言っているのだ、このひとは?
「その相手って、だれですか。カヨウですか、シキですか。ケイトですか」
「そんなことする相手は、アンタだけに決まってる」
アレクシスが黙る。
「アンタだけだよ」
二度と会えないなんて、決める必要はない。
「馬くらい駆れる」
「弓も引ける」
「数十人くらいなら撒けるし」
「アンタのところへ忍び込むくらい、なんとかなるだろ」
アレクシスは、答えられない。
離れたくないに決まっている。
それでも。
この女は。
最後まで、自分で選んだ道を歩こうとしている。
アレクシスの喉が、ゆっくり上下する。
ラゴウは、そっとその頬へ触れた。
「そんな顔するな」
低く笑う。
指先が、愛おしそうに銀髪を梳く。
「離婚したからって、嫌いになるわけじゃない」
「王妃をやめたからって、アンタとの関係が終わるわけでもない」
胸の奥が、痛い。
愛しくて。
苦しくて。
どうしようもない。
ラゴウは、困惑した表情の男を見つめながら、少しだけ目を細めた。
「アンタ、真面目すぎるんだよ」
「世界とか、国とか、責任とか」
「全部、一人で抱え込む」
「もっと、ずるく生きればいいのに」
朝の光の中。
微笑む女の顔が、あまりにも美しい。
王妃としてではなく。
誰かの所有物としてでもなく。
ただ。
ひとりの女として。
強く。
自由で。
どうしようもなく愛しかった。
ラゴウは、額を、そっとアレクの胸へ預けた。
鼓動が聞こえる。
生きている。
ちゃんと。
それから、ゆっくりと身を起こした。
長い赤髪が、裸の肩を滑り落ちる。
朝の光が、その肌を淡く照らしている。
そして。
おもむろに、アレクシスの腹の上へ、跨がった。
男の目が驚いたように見開かれる。
男の上に跨って膝をついたまま、ラゴウはその胸に触れた。
薄い皮膚の下で、しなやかな筋肉が呼吸に合わせて動いた。
剣を振るい、馬を駆り、幾度も戦場を越えてきた男の身体だった。
「・・・なにを・・・」
「仕返し」
短く言って。
獲物を見定める肉食獣のように、ゆっくり目を細めた。
長い赤髪が、裸の胸元を流れ落ちる。
朝の光の中で、その金色の瞳だけが、妙に熱を孕んでいた。
引き締まった白い肢体が、甘く、誘うように日に透ける。
銀髪の王は、息を呑む。
その反応が、可笑しかったのか。
ラゴウは、くすりと喉で笑った。
「・・・仕切り直しだ」
熱を帯びた声。
「もう一回、しよう」
一瞬。
なにを言われたのか、分からなかった。
「な・・・」
掠れた声ごと、女の手がそっと男の唇に触れる。
「黙って」
指先が、熱を持っていた。
「昨夜の後悔なんか、忘れさせてやるから」
ラゴウは、ゆっくり腰を落とす。
「・・・っ」
喉の奥で、男の呼吸が乱れる。
「逃がさない」
「ラゴウ・・・!」
掴み返そうとした腕を、逆に押さえ込まれる。
「・・・こんなことするの、アンタとだけだからな」
吐息が触れるほど近く。
挑発するように、ラゴウは笑う。
まるで。
別れの前夜だというのに。
「・・・アンタのからだを、ちゃんと覚えておきたい」
泣き崩れる代わりに、笑っている。
「昨夜は、散々アンタの熱を刻みこまれて、満たされて、眠ってしまったから。・・・今朝は、わたしがアンタを吞み込みたい」
怖くないわけがない。
「・・・いい?」
金色の瞳が、切なげに、苦し気に、潤んだ。
アレクシスは、一瞬、驚いたように目を見張って――それから、観念したように、笑った。
「ほんとうに、あなたというひとは」
声が、わずかに上ずる。
上に乗る女の腰に手を添える。
熱が、蛇のように這い上がってくる。
「わたしを、呑み込みたいんですか」
「だって、いつもアンタばっかり、ずるい」
「・・・では、あなたの、お好きなように。・・・でも」
少し間を置いて。
「我慢できなくなったら、形勢逆転しても?」
「だめ」
金色の瞳が、悪戯をする前の子どものように、光った。
「ぜんぶ、呑み込み尽くしたいから」
ラゴウは、熱に濡れた瞳で笑う。
「そうしたら」
掠れた声。
「アンタが、ずっと、わたしのなかに残る気がする」
困ったように、アレクシスは笑う。
「わたしは、未来永劫、あなたの男ですよ」
「知ってる」
熱が、上がる。
男の腹の上で、美しい獣のように、女の身体が、しなる。
朝の光の中で。
それは終わりではなく。
まるで、新しい始まりのように。
第88話「夜を越えて」を読んでいただき、ありがとうございました。
今回は、離婚請願を出したラゴウと、それを受け入れられないアレクシスの話でした。
王妃をやめても。
妻をやめても。
ラゴウは、ようやく「愛している」と言葉にしました。
そしてアレクシスもまた、国や王位より、ラゴウを失うことのほうを恐れています。
別れの話を書いているはずなのに、不思議と別れには見えない回になりました。
シキの運命。
カヨウとの決着。
そして、ラゴウが選ぶ未来。
終幕まで、もう少しお付き合いいただければ幸いです。
また次回。




