第87話 熱を刻む
――離婚請願を、出す。
それは、王妃である自分を捨てるという宣言だった。
ナイルート会合は、すでに複数回に渡って開かれている。
だが、協定は進まない。
草原側が提示した条件。
――ラゴウ王妃の返還。
それが、すべての前提になっているからだ。
草原は、ジョカを取り戻そうとしている。
レザリアは、王妃を手放さない。
王妃という存在そのものが、国家の継ぎ目になってしまった。
だから。
このままでは。
協定も。
王都も。
フェルンも。
全部、壊れる。
そして。
――シキも。
ラゴウは、ゆっくりと目を閉じる。
離婚請願。
それは単なる夫婦関係の解消ではない。
アレクシスという男の未来から、自分を切り離す行為だった。
◇ ◇ ◇
夜は、異様なほど静かだった。
フェルン復興の喧騒も、今は遠い。
外では、冷たくなりはじめた風が、乾いた草を揺らしている。
薬湯の匂いが残る石室で。
ラゴウは、アレクシスの視線を避けるように、外套を羽織った。
「・・・どこへ」
低い声。
振り返らないまま、ラゴウは答える。
「病人の巡回だ。今夜は戻りが遅くなる」
嘘ではない。
だが。
本当に伝えたいことは、別にあった。
喉の奥が、重い。
それでも。
ラゴウは、男に背中を向けたまま、静かに言った。
「・・・草原に、戻ろうと思う」
その瞬間。
空気が凍った。
次に、背後から、男の腕が回る。
逃げ道を塞ぐように。
胸の中に、閉じ込める。
「・・・誰のもとへ、戻るのですか」
「・・・なに・・・」
「カヨウですか。シキですか。・・・それとも、ケイトのもとに?」
低い声が、耳元へ落ちる。
「どうして・・・」
「苦しげに、愛おしげに、毎晩のようにあなたが呼ぶ名です」
吐息が、熱を帯びる。
「ケイトって、あなたの、なんですか」
ラゴウは、息を止めた。
誤解している、と言おうとしたが、言葉が出なかった。
胸の奥が、強く軋む。
「・・・離せ」
掠れた声。
だが。
背後からラゴウを抱きしめる腕は、びくともしない。
むしろ、さらに強くなる。
「逃がさない」
その声に。
ラゴウは、はっとする。
それは命令ではなく。
威圧でもない。
必死さを隠そうともせず、なにか足掻いているような声音だった。
(・・・怖がっている)
この男が。
(わたしを、喪うことを)
背中へ触れる体温が、やけに熱い。
「どこにも、いかないでください」
押し殺した声。
それが、胸へ深く刺さる。
ラゴウは、ゆっくり目を閉じた。
そして。
静かに言った。
「・・・離婚請願を出した」
その瞬間。
背後の男の呼吸が、止まった。
「近日中に、神殿に正式に受理されるはずだ」
「ラゴウ!!」
「――これが最適解だ」
絞り出すように、ラゴウは続ける。
「草原との協定にとっても」
「レザリアにとっても」
「フェルンにも」
かろうじて冷静を装いながら、言い放つ。
「わたしは、草原に戻るべきだし」
「アンタは、わたしを廃后して草原に戻す決断をするべきだ」
「そんなもの、握り潰します」
低い声だった。
ほとんど反射のように。
「アレク」
「そんなことを、わたしが認めると?」
空気が、震えた。
王の声だった。
だが。
その奥にあるのは、怒りではない。
失うことへの。
どうしようもない、怯えだった。
その瞬間。
ラゴウの胸の奥で、何かが、ひどく軋んだ。
(・・・ああ)
この男は、本気で。
国ごと世界ごと、自分を囲い込もうとしている。
泣きたくなるほど、幸福だ。
なのに。
だからこそ。
もう、時間がないのだと分かってしまった。
この身体が。
この世界が。
少しずつ、遠くなっている。
最近。
夢を見る。
知らない街。
夜の道路。
雨。
赤い光。
泣き叫ぶ少女の声。
『お兄ちゃん!』
ケイト。
水の音。
冷たい。
深い。
沈んでいく。
そのたびに。
目覚めた瞬間、自分が誰なのか分からなくなる。
ラゴウなのか。
ジンナイなのか。
それとも。
どちらでもない、何かなのか。
その不安が伝わったのか、男の腕の力が、さらに強まる。
引き寄せられる。
身体がぶつかる。
熱が混じる。
逃げ場がない。
次の瞬間。
追い詰められたように、アレクシスの手がラゴウの衣を引き剥がした。
乱暴に。
喰らいつく獣のように。
息も整わないまま、自らの腰元へ手をかける。
背後から抱き込まれたまま、身体の奥へ熱が押し込まれた。
「……っ、は……ぁ……!」
呼吸が乱れる。
深く。
何度も。
熱の塊が、容赦なく刻み込まれる。
確かめるように。
失わないように。
身体の芯が、激しく揺さぶられる。
「……っ、あ……」
立っていられない。
だが、逃がさないように支えられる。
熱い。
苦しい。
怖い。
なのに。
(・・・ああ)
あいしている。
はっきりと、自覚する。
この男を、愛している。
胸が、痛いほど締めつけられた。
容赦なく、深く強く穿たれる。
揺れる。
身体へ、「ここにいる」と刻まれる。
「……っ、ぁ……」
呼吸が、うまくできない。
触れる場所が、焼かれるように痛い。
なのに。
離れたくない、と思ってしまう。
だから逆に、怖かった。
(消える)
その予感が。
「声を」
耳元で、掠れた声が言う。
「あなたの声を、きかせてください・・・もっと」
「……っ、ぁ……あ……!」
熱が、限界を超える。
どこまでが自分で。
どこからが他人なのか。
境界が、曖昧になる。
視界が滲む。
世界が遠のく。
その瞬間。
水の音がした。
ナイルートではない。
コンクリートへ叩きつける雨音。
赤色灯。
泣き叫ぶ声。
『お兄ちゃん!!』
ケイト。
(……だめだ)
そう思った瞬間。
意識が、ふっと遠のいた。
崩れ落ちる寸前。
強く、抱き留められる。
「・・・ラゴウ」
名を呼ぶ声が、震えていた。
そのまま。
王は、王妃の身体を抱き上げる。
軽い。
あまりにも。
嫌な予感が、胸を掠めた。
石室の扉を蹴り開ける。
乱暴に。
だが。
腕の中の女だけは、壊れ物を庇うように抱き締めたまま。
寝台へ下ろす。
乱暴になりかけて。
寸前で、止まる。
そっと。
頬へ触れる。
髪へ触れる。
呼吸を確かめる。
ある。
まだ。
ちゃんと、ここに。
「・・・どこにも、行かないでください」
低い声。
命令のようで。
懇願のようで。
「・・・わたしのそばに」
返事はない。
分かっている。
それでも。
言わずにはいられなかった。
手を離しかけて。
止まる。
指先が、わずかに震える。
再び、触れる。
包み込む。
壊れ物を扱うように。
「・・・離さない」
それは誓いだった。
誰に向けたものなのか。
自分か。
この女か。
それとも。
見えない運命そのものへか。
もう、なにひとつ。
分からなかった。
## 後書き
第87話「熱を刻む」でした。
アレクは、ラゴウを失うことを恐れている。
ラゴウは、アレクを守るために離れようとしている。
なのに、どちらも相手を愛している。
今回は、そんな“矛盾した愛”の回でした。
そして少しずつ、ラゴウとジンナイの境界も揺らぎ始めています。
戻るべき場所はどこなのか。
未来は変えられるのか。
物語も、終盤へ向かって進み始めました。




