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第86話 離婚請願


 王の腕の中で、眠りながら。

 ラゴウの脳裏に、老婆の言葉が蘇る。


 ◇ ◇ ◇

 縫天婆は、しばらく眠るシキを見下ろしていた。

 やがて、杖を鳴らす。

 ご、と。

 洞窟の奥で、水音が低く反響した。

「・・・ラゴウに重なっている者よ」

 ラゴウの肩が、ぴくりと揺れる。

 濁った双眸が、真っ直ぐこちらを見ていた。

 まるで、ラゴウではなく、その奥にいる“誰か”を見ているように。

「おぬしもまた、ジョカの魂の一部じゃ」

 低い声。

「異界に生きる、もうひとりのジョカ」

 ラゴウの喉が、かすかに鳴る。

 ジンナイ。

 その名を知る者は、黒衣の護衛ただひとり。

 しかしこの老婆にも、異界の魂の気配が見えている。

「女媧は、何千何万と輪廻を繰り返してきた」

 縫天婆は、静かに続ける。

「あるときは花に」

「あるときは獣に」

「あるときは男に」

「あるときは女に」

「砕けた魂は、幾つもの世界を巡る」

 風が吹く。

 白布が、ゆっくり揺れた。

「そして」

「いずれ、戻るべき時が来るだろう」

 ラゴウの呼吸が、止まる。

 沈黙。

 ラゴウは、唇を噛んだ。

「・・・夢を見るんだ」

 掠れた声。

「アレクシスが死ぬ夢だ」

「血を流して」

「ナイルートで」

「わたしの手の届かない場所へ行ってしまう」

 金色の瞳が、揺れる。

「・・・あれは」

「現実になるのか」

 縫天婆は、しばらく答えなかった。

 やがて。

 濁った双眸を細める。

「正史は、流れじゃ」

 低い声。

「強く、巨大な水脈のようなもの」

「多くの命は、その流れに呑まれる」

「王も」

「国も」

「愛も」

「例外ではない」

 ラゴウの背筋を、冷たいものが走った。

「・・・なら、アレクは」

 ――定められた運命どおりに、死んでしまうのか?

 縫天婆は、静かに続けた。

「正史を変えるなら」

 しわがれた声が、洞窟へ落ちる。

「結末を変えねばならぬ」

 水音だけが、静かに響いていた。

 縫天婆の言葉が、洞窟の奥で重く沈んでいる。

 ――結末を、変える。

 ラゴウは、眠るシキを見た。

 浅い呼吸。

 血の滲む包帯。

 封じられた双眸。

 この男は、ずっと黙ったまま壊れ続けていた。

「・・・どうすれば?」

 掠れた声が、自分の喉から漏れた。

 縫天婆は、答えない。

 ただ、濁った双眸でラゴウを見ていた。

 ラゴウは、ゆっくり目を伏せる。

 脳裏へ浮かぶのは、銀髪の王だった。

 抱き締める腕。

 熱。

「行かせません」

 震えていた声。

 ――王など、どうでもいい。

 ――あなたさえ、ここにいれば。

 ラゴウの指先が、ぎり、と震える。

 分かってしまったのだ。

 もし、自分がこのままレザリアへ残れば。

 アレクシスは、きっと自分を選ぶ。

 国ではなく。

 世界ではなく。

 ラゴウを。

 そして、その先にあるのが。

 血に濡れたナイルート。

 剣。

 膝をつく銀髪。

 夢の光景だった。

「・・・あいつは」

 ラゴウは、掠れた声で呟く。

「わたしを守るためなら」

「王であることすら、捨てる」

 縫天婆が、ふぉ、と笑った。

「であろうな」

「そやつもまた、愚かな男じゃの」

 ラゴウは、唇を噛む。

 違う。

 愚かなのは、自分だ。

 どうすべきか分かっているのに、まだ迷っている。

「・・・もし」

 小さな声。

「わたしが草原へ戻れば」

「アレクは、死なずに済むのか」

 縫天婆は、しばらく黙っていた。

「シキも、壊れずにすむのか」

 やがて。

「分からぬ」

 静かな声。

「じゃが」

 濁った双眸が、細くなる。

「少なくとも、流れは変わる」

「ジョカが還れば」

「崩れた均衡は戻り始めるじゃろう」

「フギの盟約も繋ぎ直される」

「ナイルートの戦も、形を変える」

 ラゴウは、静かに目を閉じた。

 ――結末を変えねばならぬ。

 ならば。

 変えるしかない。

 たとえ。

 自分が、アレクシスの隣を失うとしても。

 長い沈黙のあと。

 ラゴウは、ゆっくり顔を上げた。


 ◇ ◇ ◇


 翌朝。

 フェルンには、薄い霧が降りていた。

 洪水の傷跡は、まだ村のあちこちへ残っている。

 崩れた石壁。

 泥に沈んだ荷車。

 だが、その中でも、人々は生きていた。

 火を起こし。

 水を運び。

 子どもたちが、小さく笑う声も戻り始めている。

 背後で、気配がした。

 振り返らなくても分かる。

「・・・シキ」

 黒衣の男は、壁へ寄りかかるように立っていた。

 だが。

 立っているだけで分かる。

 身体が限界に近い。

 呼吸が浅い。

 黒衣の下では、また盟約の刻印が暴れているのだろう。

 ラゴウは、眉を寄せた。

「休んでろって言っただろ」

 ラゴウが、呆れたように眉を寄せる。

「余計なお世話だ」

 顔色は悪いくせに、口だけは達者だ。

 ラゴウは、小さく笑う。

「ほんと、可愛げないな」

 沈黙。

 洞窟の奥で、水音だけが響いていた。

 やがて。

 シキが、低く口を開く。

「・・・縫天婆は、おまえに何を言った」

 ラゴウは、一瞬だけシキから視線を逸らす。

「別に、なにも。少し、昔話をしただけだ」

 シキは、黙ったままこちらを見る。

 封呪布に閉ざされた双眸。

 なのに、不思議と視線を感じる。

 ラゴウは、ぽつりと呟く。

「思い出したんだ」

「草原にいた頃のこと」

「おまえにしょっちゅう肩車をせがんでいた」

「おまえの髪をおもちゃがわりに編んで遊んで、よく叱られた」

 いつも、ともにあった。

 そのおまえが、途方もない痛みの中で、壊れてゆくのを、ほおっておけるわけがない。

「・・・ばば様は、おそらく、正しい」

 ――選ぶべき時が。


 シキの低い声が、唐突に言った。

「やめてもいい」

 ラゴウが、顔を上げる。

「・・・何を」

「全部だ」

 沈黙。

 やがて。

 シキが言う。

「世界が壊れようが」

「王都が沈もうが」

「全部見ないふりをして、あの王の隣にいる道もある」

 静かな声。

「おまえは、そういう女でも許される」

 ラゴウは、思わず笑った。

「そんなの、甘やかしすぎだろ。おまえらしくもない」

 ふん、とシキが嗤う。

「いっそのこと、あの男と逃げてしまえ」


 ――もう二度と。

 この封じた双眸が、その気配を感じないほど。

 遠くに。

 自分から離れて、はるか、遠くに。


 ラゴウは、ゆっくりと首を振る。

「・・・無理だ」

 声が、震える。

「だって、あいつは」

 喉が、熱い。

「わたしのために、本当に世界を壊す」

 シキが、沈黙する。

「本気で惚れたか」

「そんなのは、とっくの昔に、・・・わたしのほうがずっと先に」

 しぼりだすように、言う。

「・・・ほんとうは」

 掠れた声。

「ずっと、あの男の隣にいたい」

 シキは、何も言わない。

 ラゴウは、ゆっくり目を閉じる。

「でも」

「それを選んだら、あいつは王じゃなくなってしまう」

 長い沈黙。

 外では、ナイルート川が低く唸っている。

 やがて。

 ラゴウは、静かに言った。

「・・・レザリアの神殿に、離婚請願を出す」


第86話、お読みいただきありがとうございました。

今回は、ラゴウがついに「結末を変える」ために動き始める回でした。

アレクシスを愛している。

本当は、ずっと隣にいたい。

それでも。

ラゴウは、「離婚請願」を決意します。

好きだからこそ、離れる。

守りたいからこそ、手放す。


そんな回になりました。


そして今回、シキが初めて、

「逃げてもいい」とラゴウへ言いました。


世界より、おまえが幸せならそれでいい。

そう言ってしまうくらいには、シキもまた限界でした。


ここから先、物語はさらに大きく動いていきます。

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