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第85話 ラゴウの選択

 ――お兄ちゃん、助けて!

 冷たい水だった。

 暗い。

 深い。

 息ができない。

 白い手が、水の向こうへ沈んでいく。

 ケイト。

 伸ばした指先が、届かない。

「……ケイト、行くな……!」

 ナイルートの濁流が、吠える。

 違う。

 池じゃない。

 川だ。

 血の臭い。

 剣戟。

 銀髪の男が、膝をついている。

 胸を、剣が貫いていた。

 青灰の瞳から、光が消えていく。

「……っ、アレク!」

 ラゴウは、はっと飛び起きた。

 荒い呼吸。

 全身が汗で濡れている。

 暗い石室。

 外では、ナイルート川が低く唸っていた。

「なぜ・・・」

 手が、震えている。

 知らずに泣いていた。

 ぽろぽろと、涙がこぼれる。

 思わず、頬をぬぐう。

 連日のように、同じ夢を見る。


 アレクシスは、先日、ナイルートの会合から一時フェルンに戻ってきた。

 冷静を装ってはいたが、協定は難航しているとルシアンから聞いた。

 ひどく疲労しているようだった。

 そして。

「ケイト・・・」

 掠れた声が、自分の喉から漏れていた。

 妹は。今頃、どうしているだろうか。

 もう長いこと、こちらの世界にいるような気がする。

 もはやジンナイとラゴウは融合してしまって、もうひとつの世界の記憶が、遠く薄れていた。

 なのに。

 今になって、しきりに、妹の夢を見る。

 呼んでいる。

 沈みかけていたジンナイの意識がたちのぼる。

 ――戻らなければ。

 いや。

 戻るべき時が、近い予感がする。


「・・・誰です」


 低い声。

 夜明けの薄明りの中で、男の気配が揺れる。

 ラゴウの呼吸が止まる。

 まだ紺色が深い空に、細い月が架かっている。

 アレクシスが、薄闇の中でこちらを見ていた。

 青灰の瞳は、静かだった。

 静かすぎるほどに。

「あなたが、泣きながら呼ぶ、その名前は」

 ラゴウは、答えられない。

 ケイト。

 最愛の妹。

 入水自殺した妹を助けようとして、ジンナイは池に飛び込んだ。

 そして。

 目覚めたら、ラゴウになっていた。

 そんな話。

 できるはずがなかった。

 アレクシスは、しばらく何も言わなかった。

 ただ。

 静かにラゴウの頬へ触れる。

 涙の跡を、指でなぞる。

「最近」

 労わるような、低い声。

「あなたは、ずっとうなされている」

 ラゴウは、目を逸らした。

 その瞬間。

 ふいに、胸の奥が強く痛んだ。

 ――草原へ戻れ。

 ジョカへ還れ。

 老婆の声が、頭から離れない。

 シキの血。

 崩れていく身体。

 そして。

 ナイルートで死ぬアレクシスの夢。

 全部が、繋がり始めている。

 ラゴウは、ぎゅ、と毛布を握り締めた。

「・・・なあ」

 小さな声。

「もし」

 アレクシスが、静かに視線を向ける。

 ラゴウは、唇を噛んだ。

 怖かった。

 この先を言えば。

 何かが決定的に壊れる気がした。

 それでも。

 言わなければならない。

「・・・わたしが草原へ戻れば」

 声が、震える。

「全部、少しはマシになるのか」

 空気が、止まった。

 アレクシスの表情から、感情が消える。

「誰に、そう言われたんです」

 静かな声だった。

 静かすぎて、怖い。

 ラゴウは、答えない。

 だが。

 沈黙が、答えだった。

 アレクシスは、ゆっくりと目を閉じる。

 王としては、分かっていた。

 ラゴウは、国家を繋ぐ存在だ。

 フェルンで起きたことが、その証明になってしまった。

 だから。

 いつか誰かが、彼女を奪いに来ると、理解していた。

 そして。

 ラゴウ自身が、草原へ戻る道を選ぶかもしれないという可能性も。

 それでも。

 アレクシスは、低く呟く。

「嫌です」

 アレクシスは、真っ直ぐこちらを見ていた。

「世界がどうなろうと」

「王都がどうなろうと」

「わたしは、あなたを渡したくない」

 その言葉に。

 ラゴウの喉が、ひどく熱くなる。

 なのに。

 胸の奥では、別の声が響いていた。

 ――おまえが戻らなければ、壊れる。

 草原も。

 レザリアも。

 シキも。

 世界も。

 ラゴウは、ゆっくりと目を伏せる。

「・・・でも」

 掠れた声。

「そのせいで、アンタは死ぬかもしれない」

 アレクシスの視線が止まった。

 ラゴウは、震える声で続ける。

「ナイルートで」

「血を流して」

「わたしの手の届かない場所へ行ってしまう」

「何度も夢を見るんだ」

 アレクシスは、何も言わない。

 ラゴウは、自分のからだを抱き締める。

「怖い」

 小さな声。

「アンタが死ぬのも」

「シキが壊れていくのも」

「世界が崩れるのも」

「全部、怖い」

 その瞬間。

 アレクシスが、強くラゴウを抱き寄せた。

 息が、詰まった。

「行かせません」

 低い声。

 熱い。

 怒りと。

 恐怖と。

 焦燥で。

 震えていた。

「ようやく、あなたを手に入れた」

「なのに今さら、世界のために差し出せと?」

 腕の力が、さらに強くなる。

 ラゴウは、胸が潰れそうになる。

 苦しい。

 なのに。

 その熱が、愛しかった。

 アレクシスの声が、耳元へ落ちる。

「王など、どうでもいい」

「国など、どうでもいい」

「あなたさえ、ここにいれば」

 その言葉に。

 ラゴウの瞳から、ぼろぼろと、涙がこぼれる。

 アレクシスの腕の中は、あたたかかった。

 苦しいほど。

 だから。

 分かってしまった。

 もし自分が残れば。

 この男は、きっと。

 国を捨てる。

 王であることを捨てる。

 世界を壊してでも、自分を選ぶ。

 そして。

 そんな未来を。

 望んでいない、とは、言えなくなってしまっている。

 それが、怖かった。

 ラゴウは、震える指で、アレクの頬へ触れる。

 そして。

 泣きながら、笑った。

「・・・ダメだ」

 アレクシスの瞳が、揺れる。

 抱き締める腕だけが、わずかに震えている。

 やがて。

「・・・あなたを閉じ込めてしまえば」

 掠れた声。

「ずっと、わたしとともに、いてくれますか」

 ラゴウが青灰の瞳を見つめる。

 アレクシスは、笑わなかった。


第85話「ラゴウの選択」でした。

今回は、ラゴウが「どちらを選ぶのか」を突きつけられる回でした。

シキを救う道。

アレクシスと生きる道。

そしてアレクは、王である前に、ひとりの男としてラゴウを手放したくないと思ってしまっている。

ラゴウもまた、そんな彼を深く想っている。

だからこそ、選べない。


次回、物語はさらに大きく動きます。


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