第84話 視線の盟約
「やだ」
幼いラゴウは、頬を膨らませた。
「ばば様のお薬、苦いもん」
草原の夜だった。
満天の星。
焚火。
乾いた風。
その真ん中で、白布をまとった老婆が、ふぉっふぉっと笑っている。
「嫌でも飲め」
「飲まない!」
「おぬしは昔から頑固じゃのぉ」
縫天婆が差し出しているのは、薬草を煎じた黒い汁だった。
幼いラゴウは、全力で顔をしかめる。
その後ろで。
まだ少年だったシキが、深々とため息を吐いた。
「だから言っただろう。こいつは飲まない」
「おぬしが甘やかすからじゃ」
「別に甘やかしていない」
「では、おぬしが飲め」
「なんでそうなる」
縫天婆は、けらけら笑う。
幼いラゴウは、その隙を見て逃げようとした。
だが。
ひょい、と。
首根っこを掴まれる。
「ぐえっ」
「逃げるな」
「シキのばか!裏切り者!」
「薬くらい飲め」
「苦い!」
「三秒で終わる」
「やだ!」
暴れるラゴウを抱えたまま、シキは無表情で老婆を見る。
「で、どうすればいい」
「鼻をつまめ」
「雑だな」
「子どもへの薬などこんなものでよい」
「横暴!」
ぎゃあぎゃあと騒ぐラゴウを押さえ込みながら、結局、最後はシキが薬を飲ませた。
飲み終えた瞬間。
「まずいぃぃ!!」
涙目で叫ぶラゴウへ、縫天婆が愉快そうに笑う。
◇ ◇ ◇
湯治洞の奥は、静かだった。
岩壁を伝う水音に、薬草を煮る匂いがうつる。。
ラゴウは、深く息を吐いた。
ようやく、包帯を結び終える。
シキは、岩壁へ背を預けたまま、浅く呼吸を繰り返していた。
顔色は、まだかなり悪い。
それでも。
先ほどより、血は止まっている。
ラゴウは、針へ通した糸を、乱暴に噛み切った。
縫合跡は荒い。
皮膚の下で脈打つ刻印ごと、無理やり肉を縫い留めたのだ。
針を通すたび。
裂けた傷口の奥から、どくり、と血が滲んだ。
麻酔などない。
焼けた鉄を押し込まれるような痛みだったはずだ。
実際。
縫っている最中、シキの指先は何度も痙攣していた。
岩壁へ押しつけた手が、血が滲むほど強く握り込まれていたことを、ラゴウは見ている。
それでも。
この男は、一度も悲鳴を上げなかった。
ただ。
針が深く刺さるたび、喉の奥で低く息を漏らすだけだった。
「・・・下手くそな縫い方だ」
掠れた声。
ラゴウは、額の汗を乱暴に拭った。
「死にかけのくせに文句言う元気はあるんだな」
「痛い」
「当たり前だ」
容赦なく返す。
最後の包帯を結び終えた瞬間。
シキは、息を吐いた。
長く。
重い呼吸だった。
そのまま、岩壁へ後頭部を預ける。
黒衣の隙間から覗く喉が、ゆっくり上下した。
やがて。
血に濡れた手を、目元へ当てる。
指先が、わずかに震えていた。
呼吸はまだ荒い。
縫い留めたばかりの傷が、脈打つたびに焼けるように痛むのだろう。
ラゴウは、その横顔を見る。
いつもなら。
どれほど深手を負っても、平然としている男だった。
だが今は違う。
張り詰めていた糸が、わずかに切れかけている。
宙を仰ぐように顔を上げたまま、シキはしばらく目を閉じていた。
まるで。
痛みを飲み込むように。
それから、掠れた声で、言った。
「しばらく、眠る」
「ついてる。熱が上がるかもしれない」
「必要ない。おまえは外で村人の世話でもしてろ」
「やだね」
即答だった。
シキは、わずかに息を吐いた。
「・・・余計なことを喋るなよ、ババア」
低い声だった。
洞窟の入口近く。
老婆が、ふぉっふぉっと笑う。
「さて、なんのことやら」
「・・・」
シキは、舌打ちした。
だが。
それ以上は、もう言葉にならなかった。
張り詰めていた気配が、ふっと緩む。
肩から、力が抜ける。
そのまま。
男は、眠りへ落ちた。
ラゴウは、思わず眉を寄せる。
こんなふうに、完全に意識を手放したシキを見るのは、はじめてだった。
「・・・よほど限界だったんだな」
縫天婆は、静かにシキを見下ろした。
「視覚を封じるというのは、本来の力の半分近くを捨てるようなものじゃ」
白布の奥。
濁った瞳が、細くなる。
「しかも、この愚か者は、盟約違反まで犯した」
「フギの治癒力にも、限界はある」
ラゴウの指先が、ぴくりと揺れる。
沈黙。
洞窟の奥で、水音だけが響いていた。
やがて。
ラゴウは、ゆっくり口を開く。
「・・・シキは、どうしてこんな傷を負う」
金色の瞳が、老婆を見る。
縫天婆は、しばらく黙っていた。
それから。
「シキの王は、カヨウではない」
低い声。
「この男にとって、草原を継ぐ者はただひとり」
「ジョカの系譜に連なる、おぬしだけじゃ」
ラゴウの呼吸が、わずかに止まる。
「フギの長とは、本来、ヒトというより、半神に近い」
老婆は、静かに続けた。
「長命で」
「強靭で」
「異能を宿し」
「気脈そのものへ干渉する」
「ゆえに、草原王を守るため、古代の盟約で縛られておる」
ラゴウは、眠るシキを見る。
封呪布。
黒衣。
血の滲む包帯。
「・・・だが」
縫天婆の声が、低く沈んだ。
「この男は、ダッキへ忠誠を誓わなかった」
風が吹く。
洞窟の灯火が、揺れた。
「フギとは、本来、“王を視る者”じゃ」
低い声。
「血脈を見抜き、気脈を読み、器を量る」
「視ることで、王へ忠誠を誓う」
風が吹く。
白布が、かすかに揺れた。
「つまり」
老婆の濁った瞳が細くなる。
「フギにとって、“視線”そのものが盟約」
ラゴウの喉が、わずかに鳴った。
「・・・じゃが、この愚か者は」
縫天婆は、眠るシキをふんと一瞥する。
「おぬしが王位継承から外されたあと――他の王を見たくなかった」
静寂。
水音だけが響く。
「だから、自分で封じた」
ラゴウの呼吸が、止まる。
「おぬし以外の王に跪くくらいなら、見えぬほうがましだと」
ラゴウは、言葉を失った。
黒布。
閉ざされた双眸。
ずっと、そこにあった。
当たり前のように。
だから。
理由なんて、考えたこともなかった。
――そんな理由で。
「・・・馬鹿じゃないのか」
掠れた声が漏れる。
縫天婆は、けらけら笑った。
「まこと、救いようのない男よ」
ラゴウは、眠るシキを見る。
血の気を失った横顔。
乱れた呼吸。
それでも。
この男は、何も言わなかった。
「王を視る力を捨て」
「不完全なまま草原王との盟約に繋ぎ止められ」
「そのうえで、カヨウへ刃を向けた」
老婆の濁った双眸が、細くなる。
「・・・本来なら、即座に死んでいてもおかしくはない禁忌じゃ」
ラゴウの指先が、震えた。
視線の先。
眠る男の呼吸は、まだ浅い。
「それでも正気を保っているのは」
縫天婆が、ぽつりと呟く。
「この男が、異常なほどしぶといのか」
「あるいは――」
老婆は、にたりと笑った。
「執着に値する何かに、縛られておるからであろう」
ラゴウは、眉を寄せた。
「……執着?」
「視覚を捨てた理由はもうひとつある」
「もうひとつ?」
「ジョカを喰わぬための、自らへの枷じゃ」
ラゴウの眉が寄る。
「……喰う?」
「フギとジョカは、本来、混ざる」
老婆の声が、低く落ちる。
「魂も」
「肉も」
「欲も」
「境界も」
「放っておけば、どちらかがどちらかを呑み込む」
ラゴウの背筋が、ぞくりと震えた。
「じゃが・・・この男は、それを恐れた」
静かな声。
「おぬしを、壊したくなかったのじゃ」
沈黙。
水音だけが、静かに響く。
「・・・このままだと、シキは」
「壊れる」
ラゴウの喉が、かすかに鳴る。
「どうすればいい」
「新しい王と、新しい盟約を結ぶのだ」
縫天婆は、ゆっくりラゴウを見た。
「ラゴウよ」
しわがれた声。
「レザリアの王妃として生きるか」
「草原を統べる女帝となるか」
「選ぶべき時がきた」
沈黙。
眠るシキの呼吸だけが、かすかに響く。
――選びたいのは。
――選ぶべき道は。
どちらだ。
アレクシスとともに歩む道か。
シキを生かす道か。
心臓が、軋む。
そのとき。
ふいに。
眠っているシキの指先が、わずかに動いた。
まるで。
無意識のまま、ラゴウを探すように。
縫天婆が、ふぉ、と笑う。
「さて」
濁った双眸が、細くなる。
「どうする、ジョカよ」
第84話「視線の盟約」でした。
今回は、シキが視覚を封じた理由が明かされました。
“王を視る”ことそのものが、フギにとっての忠誠。
だからシキは、ラゴウ以外の王を認めたくなかった。
結果、自分で目を封じた。
本当に、救いようのない男です。
でもたぶん、シキは最初からずっと、ラゴウを守るためだけに生きてきたんだと思います。
そして今回、ラゴウは初めて知りました。
この男が、どれほど壊れながら、自分のそばにいたのかを。
次回から、ラゴウは「選ぶ側」になります。
王妃として生きるのか。
ジョカとして還るのか。
物語も、いよいよ終盤です。




