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第80話 ナイルート協定会合

 

 夜明け前だった。

 空はまだ青黒く、東の端だけが、かすかに白み始めている。

 湿った風が、草を揺らした。

 ナイルート川沿いの街道。

 アレクシスは、無言のまま馬を進めていた。

 蹄の音だけが、静かに夜気を裂く。

 護衛の近衛たちも、誰ひとり口を開かない。

 王の空気が、いつもと違うことを察していた。

 馬上。

 アレクシスは、黒革の手袋越しに、一通の書簡を握っていた。


 草原王カヨウより送達された、ナイルート河川協定に関する正式文書。

 そこには、草原側の要求が並んでいた。

 ――ナイルート水系共同管理権の承認。

  ――フェルン周辺地域における共同交易区画の設置。

  ――草原民の冬営地利用、および水路交易の恒久的保障。

 そして。

 最後の条件として。

 ――レザリア王妃ラゴウの身柄を、草原へ返還すること。

 アレクシスの胸の奥が、ざわりと粟立つ。

 だが。

 書簡は、それだけでは終わらなかった。


 ――草原は、もはや旧き遊牧のみでは生き残れぬ。

 ナイルートの流れは変わった。

 季節は乱れた。

 土地は痩せ、水は濁り、気脈は崩れ始めている。

 これは単なる洪水ではない。

 世界そのものの均衡が、壊れつつある兆しである。

 ゆえに草原は、新たな都を必要とする。

 河川と交易を繋ぐ地。

 遊牧と定住が交わる地。

 奪い合うためではなく、生き延びるための地を。

 そのためには、“循環を繋ぐ者”が必要となる。

 ジョカの系譜を継ぐ者。

 水脈を鎮め、土地を繋ぎ、気脈の乱れを調停する者。

 ラゴウ。

 彼女こそが、その資格を持つ。

 実際にフェルンでは、彼女が留まることで、暴走した月白花の毒性は弱まり、疫病の拡大も沈静化へ向かっている。

 それは偶然ではない。

 草原の古き盟約は、彼女を“境界を繋ぐ者”として指し示している。

 ゆえに。

 ラゴウ王妃は、もはや一国家のみの王妃ではない。

 草原とレザリア。

 両方の生存へ関わる存在である。

 もし、なおレザリアが彼女を囲い込むならば。

 草原は、それを“盟約の破棄”とみなす。

 その場合。

 河川封鎖の解除。

 草原軍撤退。

 水路交易再開。

 それら一切の保証は失効するものとする。


 アレクシスはゆっくりと目を閉じた。

 それは脅迫だった。

 だが同時に。

 否定しきれぬ現実でもあった。

 王都は、限界へ近づいている。

 河港封鎖による物流崩壊。

 食糧不足。

 疫病。

 暴動。

 さらに。

 神殿は月白花によって汚染され、人々は“奇跡”へ依存し始めている。

 レザリア単独では、もう立て直せない。

 だからこそ。

 本来なら、レザリア側にも条件があった。

 河港解放。

 草原軍撤退。

 物流正常化。

 神殿勢力への軍事介入停止。

 月白花流通規制。

 そのすべてを、協定で引き出さねばならない。

 だが。

 その条件すら。

 ラゴウの存在なしでは成立しない。

 草原は、彼女を求めている。

 レザリアもまた、彼女を必要としている。

 まるで。

 世界そのものが、彼女を中心に回り始めてしまったように。

 そして。

 それを誰より理解しているのが、カヨウだった。

 彼は、ラゴウを単なる女として取り戻そうとしているのではない。

 草原の未来。

 新都建設。

 水路支配。

 民族統合。

 そのすべての核として、ラゴウという存在を必要としている。

 だからこそ。

 この要求は、恋情だけでは終わらない。

 国家そのものを賭けた要求だった。


 ◇ ◇ ◇


 何度も読み返した紙。

 握り締めすぎたせいで、端がわずかに折れている。


 ――レザリア王妃ラゴウの身柄を、草原へ返還すること。


 その一文だけが、焼き付いたように頭から離れない。

 風が吹く。

 銀髪が揺れた。

 視線の先には、霧のかかったナイルート河川。

 あの川が。

 すべてを変えた。

 洪水。

 疫病。

 王都崩壊。

 神殿腐敗。

 草原軍進駐。

 そして。

 ラゴウ。

 アレクシスは、静かに目を閉じる。

 ――ラゴウが必要だ。

 その言葉自体は、否定できなかった。

 フェルンで起きたことを、彼自身、この目で見ている。

 ラゴウの血を混ぜた薬湯は、月白花の毒性を抑えた。

 彼女が留まることで、暴走しかけていた人心は落ち着きを取り戻した。

 荒れた水脈すら、わずかに安定している。

 偶然とは思えない。

 彼女は、本当に、“世界の継ぎ目”なのだ。

 そして。

 カヨウは、それを理解している。

 だから返せと言った。

 女として、そして草原の未来そのものとして、ラゴウを欲している。

 アレクシスの喉が、ゆっくり上下した。

(・・・ふざけるな)

 心の奥で、低い声が響く。

 渡せるはずがない。

 ようやく。

 ようやく、触れ合えたのだ。

 王と王妃ではなく。

 男と女として。

 夫婦として。

 人間として。

 互いを求め合えた。

 あの熱を、知ってしまった。

 それなのに。

 今さら。

 ――国家のために差し出せと?

 アレクシスの指先へ、力がこもる。

 書簡が、小さく軋んだ。

 そのとき。

 ふいに、背後から馬を寄せる気配がした。

「・・・陛下」

 王都から駆けつけて合流したルシアンだった。

 アレクシスは振り返らない。

 ルシアンも、それ以上なにも言わない。

 ただ。

 しばらく沈黙が続いたあと。

 低く呟いた。

「協定会合は、メフィスト様の主宰という形になっています」

 草原とレザリア。

 その再接続を主導する者として。

「・・・そうか」

「事実上、“次の秩序”を決める場になります」

 分かっている。

 アレクシスは、答えなかった。

 草原。神殿。王家。河川。交易。

 全部が、ナイルートへ集まり始めている。

 そして。

 その中心にいるのは。

 ラゴウだ。

 王は、ゆっくりと空を見上げた。

 東の空が、少しずつ白く染まり始めている。

 夜明けが近い。

 ふいに、柔らかな赤髪の感触が脳裏へ蘇る。

 体温。

 泣きそうな目。

 縋るように抱きついてきた指。

 胸の奥が、静かに軋んだ。

(・・・彼女を失えば)

 ――もはや、自分は、生きてはいけないだろう。


 馬の腹を蹴る。

 蹄が、強く地を叩いた。

 霧の向こう。

 ナイルート河川協定会合の地へ向けて。

 王は、まっすぐ馬を走らせる。

 まるで。

 逃れられない運命そのものへ向かうように。


第80話でした。

ナイルート協定は、ただの停戦交渉ではありません。

壊れ始めた世界を、誰が、どんな形で繋ぎ直すのか。

そのための会合です。

メフィストは、“統合”を選びました。

神殿も。草原も。王権も。

すべてを、ひとつへ集める道。

一方、アレクシスが望むのは、“共存”。

違うもの同士が、違うまま繋がる未来でした。

だからこそ、ふたりは同じように世界を救おうとしていながら、決定的に相容れない。

そして、その中心にいるのがラゴウです。

愛する女であり。

世界の均衡そのものでもある存在。

「国家のために差し出せ」

その正しさを理解していても、アレクは、それを受け入れられない。

そんな回でした。

次話から、ナイルート協定会合が始まります。


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