第81話 天を縫う老婆
第81話 草原の使者
ナイルート川の中州には、白い霧が立ち込めていた。
逆流のあと、川の流れは変わっている。
かつて浅瀬だった場所は深く抉れ、岩場だった場所には泥が積もり、水の筋が幾重にも走っていた。
まるで、大河そのものが地図を書き換えたようだった。
その中央に、仮設の会談場が設けられていた。
レザリアの旗。
草原の黒旗。
そして、神殿の白い聖印。
三つの旗が、湿った風の中で重く揺れている。
そのとき。
遠くで角笛が鳴った。
草原側の騎馬隊が、霧の向こうから姿を現す。
先頭に立つのは、カヨウだった。
白銀の髪。
神話の中の美しい少年神のようなその顔に、薄い笑みを浮かべている。
背後には、ダッキ族の兵。
さらに、その横には、淡い金髪の男が馬を進めていた。
メフィスト。
王弟は、まるで当然のように草原側の列に並んでいた。
ルシアンが、低く唸る。
「・・・陛下」
「分かっている」
アレクシスは、視線だけを弟へ向けた。
「兄上」
メフィストが静かに頭を下げる。
「よく、お越しくださいました」
「おまえに迎えられるとは思わなかった」
「国のためです」
その声には、迷いがなかった。
「レザリアは、変わらなければならない」
アレクシスは黙ってメフィストを見る。
「そのために、裏で草原と手を組んだのか」
「草原を外へ置いたままでは、いつまでも侵略は終わりません」
メフィストの暗青の瞳が冷たく細まる。
「ならば、内へ入れる」
「神殿も、草原も、水運も、王権の下へ統合する」
「それが、この災厄を越える唯一の道です」
沈黙。
湿った風が吹く。
中州の泥が、靴底に沈む。
アレクシスは、静かに言った。
「わたしは、そうは思わない」
メフィストの眉が、わずかに動く。
「草原は草原のまま。レザリアはレザリアのまま。それでも繋がる道はある」
「フェルンを、交易の街にするつもりですか」
「そうだ」
「甘いですね」
「おまえは、急ぎすぎる」
兄弟の視線がぶつかる。
人を信じる王。
国を制御する王。
同じ血を引きながら、まるで違う未来を見ている二人だった。
これまでレザリアは、ラゴウとの婚姻によって、草原との盟約を成立させていた。
だが、それは単なる政略結婚ではない。
アレクシスは最初から、“征服による統一”を望まなかった。
草原を属国にしない。
神殿を王権へ組み込まない。
地方を、中央へ従属させない。
互いを変えず。
互いのまま、生き延びる道。
それが、アレクシスの描いた未来だった。
メフィストは、それを脆いと切り捨てた。
人の感情に依存した和平など、いずれ壊れる。
強い中央だけが、災厄の時代を生き残れる、と。
だが。
アレクシスは知っていた。
恐怖で縫い合わせた国家は、恐怖によって崩壊する。
神殿も。 草原も。 王権も。
ひとつへ統合した瞬間、その中心が腐れば、世界ごと死ぬ。
だから彼は、“流れ”を止めようとしなかった。
水路。 交易。 往来。 境界。
異なるもの同士が、異なるまま繋がること。
それこそが、水運国家レザリアの本質だと知っていたからだ。
一方、カヨウは別の現実を見ていた。
略奪だけでは、もう草原は冬を越えられない。
必要なのは、 一時の友好ではない。
港。 定住地。 水路。 恒久的な交易。
そして、それを保証する“強制力”。
だからこそ。
草原王カヨウと王弟メフィストは、 互いを利用し合う道を選んだ。
アレクシスの描く“共存”ではなく。
世界を再編するための、“統合”という名の支配を。
ふたりの間へ、カヨウの声が割って入る。
「難しい話はいいよ」
金の瞳が、まっすぐラゴウを捉える。
「僕が欲しいものは、ひとつだけだから」
カヨウは笑った。
「ラゴウを返して」
空気が止まった。
ルシアンが剣へ手をかける。
近衛たちも一斉に動いた。
アレクシスは、半歩前に出る。
「断る」
低い声だった。
カヨウの笑みが深くなる。
「そう言うと思った」
◇ ◇ ◇
アレクシスがフェルンを発って、数日が過ぎていた。
空は重い。
洪水のあとから、天候が不安定になっている。
低い雲。
湿った風。
遠くで、ナイルート川の唸り声が響いている。
ラゴウは、仮設小屋の外で、薬湯を煮ていた。
ふいに。
「あまり無理をしないでください」
低い声が、耳の奥で蘇った。
銀髪の王は、薬草の匂いのするラゴウの手を取って、いつも困ったように眉を寄せた。
――ちゃんと眠っていますか。
ラゴウは、無意識に眉をしかめる。
「・・・うるさい」
ここにはいないのに。
いつのまに、これほど彼の不在を自覚してしまうようになってしまったのか。
鍋の中で、うっすらと緋色に染まった液体が静かに揺れる。
月白花の毒を抑えるため、自らの血を混ぜた薬湯だ。
疲労のせいか、視界が少し霞む。
そのときだった。
ふいに。
周囲の空気が、変わった。
ざわり、と。
風が止む。
焚き火の煙が、不自然に揺れた。
ラゴウは、ゆっくり顔を上げる。
――そこに、いた。
白い布を幾重にも纏った、小さな老婆。
骨細の杖。
灰色の長髪。
肌には、乾いた川底のような深い皺が刻まれている。
だが。
その瞳だけが異様だった。
濁った水の底のような色の双眸は、ぎょろりと大きく、まるで人の内側まで覗き込むような色をしている。
「何者だ」
敵ではないと直感的に思った。
が、それ以上に厄介なものかもしれないとも。
「薄情なやつめ」
裂けるような大口が、にたりと笑う。
「ジョカの王妃の腹からおぬしを取り上げてやったのは、このワシぞ」
「その大恩を忘れるとは」
ラゴウの背筋へ、冷たいものが走る。
老婆は、ゆっくりラゴウを見た。
まるで。
長い間なくしていたものを探し当てたように。
「見つけた」
ふぉっ、と声が漏れた。
「威勢ばかり良かった痩せっぽちの小娘が、ずいぶんと良い女になったではないか」
どこかからかうような声音で、ふぉっふぉっと、老婆は笑った。
ラゴウは、眉を寄せる。
「・・・誰だ、アンタ」
老婆は答えない。
代わりに。
杖の先を、ゆっくり地面へ突いた。
ご、と。
「出てこい、愚か者めが」
何もない空間に向かって言う。
風が揺れた。
その瞬間。
ラゴウの背後で、殺気が弾けた。
黒衣。
双眸に巻かれた、封呪の布。
シキだった。
いつも通り、気配もなく立っている。
だが。
空気が違う。
異様に張り詰めていた。
シキが先に、低く吐き捨てる。
「・・・生きていたのか、ババアめ」
草原では、彼女を“縫天の巫女”と呼ぶ。
古代、草原の創始神である女媧が、天を繕った神話に由来する名だ。
草原の人間は、畏怖と親しみを込めて、老婆を「縫天婆」(ほうてんば)と呼んだ。
第81話「天を縫う老婆」でした。
縫天婆。
胡散臭くて、図々しくて、でも、たぶんこの世界で一番“境界”を見ている老婆です。
このひと、シキの天敵です。
今回の回では、
・アレクシスの「共存」
・メフィストの「統合」
・カヨウの「生存」
それぞれの思想が、少しずつ見え始めました。
誰が正しいというより、全員、本気で「国を生かそう」としている。
だから厄介です。
次回は、さらに“壊れ始めたもの”の話へ。




