第79話 悪夢の中の抱擁
――世界が、裂ける。
川が、吠えている。
濁流。
血。
霧。
ナイルート川の中州。
湿った白が視界を覆い、剣戟の音だけが遠く響いていた。
草原兵。
近衛隊。
神殿兵。
怒号。
悲鳴。
金属音。
その中央で。
銀髪の王が、剣を振るっている。
「アレク!」
叫ぶ。
だが、声が届かない。
霧の向こう。
アレクシスは、たったひとりで立っていた。
血を浴びながら。
それでも。
誰かを守るみたいに。
次の瞬間。
銀の刃が、胸を貫いた。
「――っ」
赤い血が、濁流へ落ちる。
青灰の瞳から、ゆっくりと光が消えていく。
その前へ、ひとりの男が歩み寄る。
淡い金髪。
返り血を浴びた、冷たい青眼。
メフィスト。
王弟は、静かに兄を見下ろしていた。
「・・・兄上」
感情のない声。
川が、吠える。
世界が、崩れる。
嫌だ。
行くな。
その瞬間だった。
ふいに。
景色が、ぶれた。
冷たい。
暗い。
水。
知らないはずの景色が、頭へ流れ込む。
夜。
雨。
濡れたアスファルト。
白い街灯。
制服姿の少女。
池。
「お兄ちゃん!!」
悲鳴みたいな声。
ケイト。
「助けて!!」
胸が、凍る。
飛び込まなければ。
早く。
身体が、水へ落ちる。
冷たい。
息ができない。
肺へ、水が流れ込む。
視界が暗く沈む。
苦しい。
それなのに。
遠くで。
また、ナイルート川が吠えていた。
濁流の向こう。
銀髪が見える。
アレク。
違う。
ジンナイ。
分からない。
「やめろ・・・!」
ラゴウが叫ぶ。
だが。
王は、振り返らない。
濁流の向こうへ消えていく。
「お兄ちゃん!!」
ケイトの叫びが重なる。
―ふたたび、世界が、裂けた。
ラゴウは、はっと息を呑んだ。
よくわからない衝撃を受けたあとのように、唐突に目が覚めた。
荒い呼吸。
汗で濡れた身体。
暗い湯治洞。
「・・・ラゴウ?」
低い声。
すぐ後ろから。
振り返るより先に、背へ熱が触れる。
銀髪の王が、半ば眠ったままラゴウを抱き寄せていた。
昨夜、ふたりは、体を重ね合って、そのまま眠りに落ちた。
――生きている。
ちゃんと。
ラゴウは、無意識にその身体へ触れる。
裸の胸。
熱。
鼓動。
確かに、生きている。
その事実に、胸の奥がひどく安堵した。
アレクシスが、薄く目を開ける。
青灰の瞳は、まだ眠気を帯びている。
「・・・どうしました」
掠れた声。
熱を含んだ吐息が、首筋へ落ちる。
ラゴウは答えられない。
――アンタが死ぬ夢を見た。
川へ沈んでいくのを見た。
そんなこと。
言えるはずがなかった。
ただ。
指先だけが、強く男の腕を掴んでいる。
アレクシスは、そのかすかな震えに気づいたようだった。
ゆっくりと身体を起こす。
岩壁の隙間から差し込む淡い月明かりが、男の肩を白く照らしていた。
ここ数日。
ふたりは、ほとんど朝から晩まで被災した村人たちの対応に奔走していた。
昼は、被災したフェルンを駆け回る。
泥を掻き出し。
患者へ薬湯を配り。
瓦礫の下から人を引きずり出し。
泣き叫ぶ子どもを抱き上げる。
王も。
王妃も。
泥だらけになって、人を救っていた。
それなのに。
夜になると。
互いの存在を確かめるように、抱き合った。
愛撫の激しさは増して。
衝動は強く、快感は深くなるばかりで。
壊れかけた世界の中で。
この熱だけが、本物だと言い聞かせるように。
アレクシスの指が、ラゴウの髪に触れる。
「・・・怖い夢でも見ましたか」
ラゴウは、小さく息を呑む。
だが、誤魔化すように首を振る。
「別に」
「嘘ですね」
少し笑う声。
そのまま。
男は、ラゴウの肩へ額を預けた。
熱い。
疲労の熱。
欲情の熱。
生きている熱。
全部が混ざっている。
「あなたは、最近」
低い声が落ちる。
「わたしが離れると、すぐ目を覚ます」
「・・・うるさい」
「あなたが眠れるように、ずっと抱いていますよ」
薄く笑う。
その声音が、優しすぎて。
余計に、苦しくなる。
夢の中で。
この男は死んだ。
血を流して。
手の届かない場所へ。
――正史において、王の死に場所になった、ナイルート河川。
ラゴウは、ぎゅ、とアレクの肩へ額を押しつける。
アレクシスは何も聞かない。
ただ。
抱き締める腕だけが、少し強くなった。
◇ ◇ ◇
王都は、崩れ始めている。
ルシアンから詳細な報告が届いていた。
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王都南門。
メフィスト率いる草原軍が、正式に駐留を開始。
ダッキ族騎兵、およそ三千。
さらに、草原側の補給隊が河港区を掌握。
名目は、治安維持。
実質的には、王都制圧。
河港は閉鎖。
物流はさらに滞り、食糧価格は三倍まで高騰。
下町では暴動も起き始めている。
加えて。
神殿側の動きも不穏。
大神殿地下。
封鎖区画への出入りが急増。
神殿の地下庭園にて、変種の月白花が栽培されていたことが発覚。
神殿と王弟は完全に癒着している。
聖女の奇跡を求める民は増え続けているが、その一方で、“治療後に錯乱する患者”の報告も相次ぐ。
そして。
もっとも深刻なのは。
王の不在。
レザリア王がフェルンへ留まっている今、王都ではメフィスト派貴族が急速に勢力を拡大。
諜報機関からは、すでに、王城内にも草原側へ通じる者がいるという報告があがっている。
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ルシアンの報告書は、最後にこう結ばれていた。
『王都は限界です』
『このままでは、内乱になります』
『至急、草原側との正式交渉が必要かと』
アレクシスは、ゆっくりと報告書を閉じた。
石室の中へ、沈黙が落ちる。
遠く。
ナイルート川の轟音だけが、低く響いていた。
ラゴウが、小さく息を吐く。
「・・・もう、“戦争になるかどうか”の段階じゃないな」
「そうですね」
アレクシスの声は低かった。
「すでに、国そのものが崩れ始めている」
王都は飢えている。
河港を失ったことで、水運国家であるレザリアは、喉元を塞がれたも同然だった。
小麦も。
塩も。
薬草も。
すべてが止まる。
その一方で。
草原軍は、“侵略軍”ではなく、“王弟公認の治安維持軍”として王都へ入り込んでいる。
武力で排除すれば。
それはもう、草原との戦争では済まない。
王家同士の内戦になる。
そして。
その混乱に、神殿まで結びついている。
月白花。
回復魔法。
錯乱する患者たち。
信仰すら、崩壊し始めていた。
「・・・だから、草原側は“協定”を持ちかけてきたのか」
ラゴウが呟く。
アレクシスは静かに頷いた。
「ナイルート河川協定会合」
それは、表向きには。
洪水被害への共同対応。
河港再開。
水路利用権。
疫病対策。
難民整理。
そのための協議だった。
だが。
真相は違う。
これは。
洪水によって壊れた“世界そのもの”を、どう再編するかという交渉だ。
ナイルートの逆流によって。
地形が変わった。
国境が変わった。
水路が変わった。
かつての盟約も、交易路も、支配構造も、すべて崩れ始めている。
だから今。
新しい秩序を、誰が握るのか。
それが問われていた。
メフィストは、“統合”を望んでいる。
神殿も。
草原も。
軍も。
交易も。
全部を、中央へ集める。
強い王権だけが、この災厄を生き残れると信じて。
一方。
アレクシスは、“共存”を選ぼうとしている。
草原を属国にしない。
地方を切り捨てない。
フェルンを、奪い合う境界ではなく、行き交う交易都市へ変える。
武力ではなく、水路で繋がる未来。
そのための協定。
そのための交渉。
だが。
誰もが予感している。
――この協定が、単なる河川交渉で終わるはずがないことを。
草原側もまた、本気だった。
冬を越える土地。
水路。港。交易。定住地。
草原は傍流のダッキ族カヨウを王に戴き、“略奪だけで生きられる時代”を終わらせようとしている。
だからこそ。
カヨウは、大河ナイルートを欲している。
<神から選ばれた地>フェルンを統治下に置こうと目論んでいる。
新しい都を。
新しい国家を。
アレクシスは、報告書を握り締めた。
協議ではない。
和平でもない。
これは。
王権。信仰。草原。水路。
次の時代そのものを巡る戦争だ。
石室の空気が、重く沈む。
やがて。
アレクシスが、静かに口を開いた。
「・・・ナイルートへ向かいます」
アレクシスは、ゆっくりとラゴウを見た。
「本音を言えば」
淡く笑う。
「あなたを抱いたまま、この辺境へ閉じこもっていたい」
「王都も」
「神殿も」
「草原も」
「全部、放り出して」
冗談めいているのに。
目だけが笑っていない。
「あなたから、離れたくない」
ぽつりと落ちた声に、ラゴウの指先がわずかに揺れる。
静かな声だった。激情ではない。
だからこそ、重い。
「ですが」
王は、静かに立ち上がった。
「この協定会合は、誰かに任せてよいものではない」
「なら」
ラゴウは、まっすぐに、王を見る。
「アンタの手で、次の世界を選び取ってくればいい」
アレクシスは、少しだけ、笑った。
その横顔を見ながら。
ラゴウは、自分の胸騒ぎを押し殺す。
――嫌な夢だった。
ナイルート。
霧。
血。
なのに。
「行くな」とは、言えなかった。
草原も。
神殿も。
王家も。
全部が、壊れかけている。
それなのに。
この湯治洞の奥だけは、妙に熱かった。
湿った熱。
絡み合った体温。
甘噛みした跡の残る肌。
まるで。
世界の終わりへ背を向けるように、互いを求め続けた。
危ういほど幸福で。
だからこそ。
この熱は、いつか壊れる前触れのようにも思えた。
第79話でした。
ここから物語は、少しずつ「次の時代」へ動き始めます。
ナイルート協定は、単なる河川交渉ではありません。
洪水によって壊れた国境。
崩れ始めた王都。
狂い始めた神殿。
そして、変わってしまった世界そのもの。
誰が、どんな未来を選ぶのか。
アレクは“共存”を。
メフィストは“統合”を。
草原は、“生き残るための変化”を求めています。
そんな中で、
ラゴウだけは、
「愛している」
「離れたくない」
という、とても個人的な感情を抱え続けている。
だからこそ、ふたりが抱き合う時間は、幸福で、危うい。
世界が壊れ始めているからこそ、
互いの体温だけが、やけに鮮明でした。
次話から、物語はさらに大きく動いていきます。
引き続き読んでいただけると嬉しいです。




