第75話 ふたりの王
ナイルート川の逆流は、王都から遠く離れた辺境だけの災厄では終わらなかった。
濁流は支流を遡り、地下水脈を揺らし、王都へ繋がる水路にまで泥と腐臭を運び込んでいた。
港では、水面へ黒い泥が浮く。
腐った魚の臭いが、風に混じる。
荷揚げ場では、縄を握ったまま倒れ込む船乗りの姿があった。
熱病だ。
河港へ入るはずだった輸送船は半減している。
いや。
半分も届いていない。
市場から、小麦が消えた。
薬草が消えた。
塩すら足りない。
長い列。
怒号。
奪い合い。
井戸水は濁りはじめていた。
下町では、母親が咳き込む子どもを抱えたまま、配給列へ並んでいる。
顔色は悪い。
だが、列を外れれば食べ物が手に入らない。
死体処理も追いついていなかった。
白布を被せられた遺体が、石畳の端へ並べられている。
夏が近い。
臭気が街へ滲みはじめていた。
そして、人々はようやく気づき始めていた。
――王都そのものが、沈みはじめている。
◇ ◇ ◇
城門の向こう。
石畳を踏み鳴らす音が、低く響く。
馬だ。
それも。
草原の軍馬。
重く。
速く。
戦場のためだけに育てられた巨大な馬体が、王都へ流れ込んできていた。
市民たちは、怯えたように道端へ退く。
褐色の肌をした勇猛な男たちに交じって、極彩色の衣装を身にまとった女戦士たち。
編み込まれた髪。
湾曲した刀。
風を纏うような騎馬装束。
レザリアの兵ではない。
草原の軍勢だ。
ざわめきが広がる。
「なぜ草原の兵が?」
「同盟を結んでいるはずでは・・・」
「まさか、侵攻・・・?」
だが。
彼らは略奪をしない。
黙々と。
まるで“自分たちの街”のように、堂々と王都へ入り込んでくる。
その先頭にいた男が、ゆっくりと顔を上げた。
「・・・宰相様!」
民衆の間にざわめきが広がる。
王の血を分けた実弟。
王と同じ青灰の瞳。
しかしその色合いは、兄のように光を弾く氷ではなく、光を飲み込む海の底の色だ。
月光を秘めた銀髪のアレクシスとは対照的な、陽の光に満ちた淡い金髪が、馬上で揺れた。
王弟は、静かに王城を見上げる。
その隣には、異国の装束を纏った美貌の女が、寄り添うように馬を並べている。
草原ダッキ族の王女――珠衣。
「民の反発は、思っていたより弱いわね」
シュイが、薄く笑う。
王都の民衆は、道端へ退きながらも、誰ひとり石を投げなかった。
恐怖。
疲弊。
飢え。
そして――諦め。
メフィストは、馬上から静かに街を見下ろす。
つい数ヶ月前まで。
彼は、この王都から姿を消していた。
アレクシスによる粛清。
宰相派貴族の摘発。
神殿内部の調査。
近衛軍の再編。
王は、弟へ直接刃こそ向けなかったが、確実に包囲網を狭めていた。
だからメフィストは、一度、姿を消した。
草原へ。
ダッキ領へ。
敗走ではない。
待っていたのだ。
レザリアが、自壊を始める瞬間を。
ナイルートの逆流。
洪水。
疫病。
物流崩壊。
王都の秩序が揺らぎ、人々が“強い統治”を求め始める時を。
だから今、戻ってきた。
草原軍を率いて。
救援者として。
そして、新しい支配者として。
メフィストは淡々と答えた。
「王都は疲弊しつつある」
疫病。
洪水。
物流の停滞。
食糧不足。
「民は、秩序を与える者へ従う」
一拍。
「それが、王というものだ」
シュイが目を細める。
「だから、兄を切り捨てる?」
沈黙。
メフィストは感情を動かさない。
「兄は、抱え込みすぎた」
静かな声だった。
「地方領主も」
「自治都市も」
「草原も」
「神殿も」
「全部を、共存させようとした」
風が吹く。
王城の旗が、低くはためく。
「・・・あのひとは、民を信じていた」
「土地ごとの営みを」
「それぞれの文化を」
「人が人を支える力を」
「だから、地方へ権限を残した」
シュイが、薄く目を細める。
「・・・暗君には聞こえないけど?」
「そうだ」
メフィストは否定しない。
「実際、兄は王として極めて優れている男だ」
その声音には、嘲りも憎悪もなかった。
むしろ。
誰より理解している者の冷静さがあった。
「だが」
暗い青眼が、ゆっくり細まる。
「これからのレザリアに必要なのは、“善き王”ではない」
遠く。
王都の鐘が鳴る。
「洪水」
「疫病」
「食糧不足」
「物流の崩壊」
「国が壊れかけている時に、地方ごとの意思を尊重していては間に合わない」
低い声。
「必要なのは、ひとつの意志で全部を動かすことのできる王だ」
一拍。
「兄に取って代わるべき時がきた」
シュイは、メフィストの横で、嫣然と笑った。
――これこそが。
わたしの望んだ男。
草原王カヨウの求める新都建造のための、礎となる男。
「軍も」
「神殿も」
「交易も」
「治水も」
「すべてを中央へ集め、統制する」
シュイが、くすりと笑みをもらす。
「王が、ふたり」
沈黙。
「しかもどちらも優れた資質を持っている」
メフィストは、しばらく答えなかった。
やがて。
ぽつりと落ちた声は、妙に静かだった。
「それが、レザリアの不幸だ」
兄は、人を信じる王。
弟は、国を制御する王。
どちらも、間違ってはいない。
だからこそ。
この国は、ふたつに裂けた。
第75話、ありがとうございました。
ついに「王都崩壊前夜」が本格的に始まりました。
洪水、疫病、物流崩壊――静かに沈み始める王都。
そして、草原軍を率いて帰還するメフィスト。
今回描きたかったのは、
単純な「悪役の反乱」ではなく、
“国家を救うために、別の国家の形を選ぼうとする王”
としてのメフィストです。
アレクシスもまた、間違いなく賢王です。
だからこそ、「王がふたりいた」ことそのものが、この国の悲劇になっていく。
次回から、停戦会談にむかって物語が動き始めます。
ナイルート河川を舞台に、それぞれの思惑がぶつかり始めます。
もし少しでも続きが気になっていただけたら、
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