表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
75/84

第75話 ふたりの王

 

 ナイルート川の逆流は、王都から遠く離れた辺境だけの災厄では終わらなかった。

 濁流は支流を遡り、地下水脈を揺らし、王都へ繋がる水路にまで泥と腐臭を運び込んでいた。

 港では、水面へ黒い泥が浮く。

 腐った魚の臭いが、風に混じる。

 荷揚げ場では、縄を握ったまま倒れ込む船乗りの姿があった。

 熱病だ。

 河港へ入るはずだった輸送船は半減している。

 いや。

 半分も届いていない。

 市場から、小麦が消えた。

 薬草が消えた。

 塩すら足りない。

 長い列。

 怒号。

 奪い合い。

 井戸水は濁りはじめていた。

 下町では、母親が咳き込む子どもを抱えたまま、配給列へ並んでいる。

  顔色は悪い。

  だが、列を外れれば食べ物が手に入らない。

 死体処理も追いついていなかった。

 白布を被せられた遺体が、石畳の端へ並べられている。

 夏が近い。

 臭気が街へ滲みはじめていた。

 そして、人々はようやく気づき始めていた。

 ――王都そのものが、沈みはじめている。


 ◇ ◇ ◇


 城門の向こう。

 石畳を踏み鳴らす音が、低く響く。

 馬だ。

 それも。

 草原の軍馬。

 重く。

 速く。

 戦場のためだけに育てられた巨大な馬体が、王都へ流れ込んできていた。

 市民たちは、怯えたように道端へ退く。

 褐色の肌をした勇猛な男たちに交じって、極彩色の衣装を身にまとった女戦士たち。

 編み込まれた髪。

 湾曲した刀。

 風を纏うような騎馬装束。

 レザリアの兵ではない。

 草原の軍勢だ。

 ざわめきが広がる。

「なぜ草原の兵が?」

「同盟を結んでいるはずでは・・・」

「まさか、侵攻・・・?」

 だが。

 彼らは略奪をしない。

 黙々と。

 まるで“自分たちの街”のように、堂々と王都へ入り込んでくる。

 その先頭にいた男が、ゆっくりと顔を上げた。

「・・・宰相様!」

 民衆の間にざわめきが広がる。

 王の血を分けた実弟。

 王と同じ青灰の瞳。

 しかしその色合いは、兄のように光を弾く氷ではなく、光を飲み込む海の底の色だ。

 月光を秘めた銀髪のアレクシスとは対照的な、陽の光に満ちた淡い金髪が、馬上で揺れた。

 王弟は、静かに王城を見上げる。

 その隣には、異国の装束を纏った美貌の女が、寄り添うように馬を並べている。

 草原ダッキ族の王女――珠衣シュイ

「民の反発は、思っていたより弱いわね」

 シュイが、薄く笑う。

 王都の民衆は、道端へ退きながらも、誰ひとり石を投げなかった。

 恐怖。

 疲弊。

 飢え。

 そして――諦め。

 メフィストは、馬上から静かに街を見下ろす。

 つい数ヶ月前まで。

 彼は、この王都から姿を消していた。

 アレクシスによる粛清。

 宰相派貴族の摘発。

 神殿内部の調査。

 近衛軍の再編。

 王は、弟へ直接刃こそ向けなかったが、確実に包囲網を狭めていた。

 だからメフィストは、一度、姿を消した。

 草原へ。

 ダッキ領へ。

 敗走ではない。

 待っていたのだ。

 レザリアが、自壊を始める瞬間を。

 ナイルートの逆流。

 洪水。

 疫病。

 物流崩壊。

 王都の秩序が揺らぎ、人々が“強い統治”を求め始める時を。

 だから今、戻ってきた。

 草原軍を率いて。

 救援者として。

 そして、新しい支配者として。

 メフィストは淡々と答えた。

「王都は疲弊しつつある」

 疫病。

 洪水。

 物流の停滞。

 食糧不足。

「民は、秩序を与える者へ従う」

 一拍。

「それが、王というものだ」

 シュイが目を細める。

「だから、兄を切り捨てる?」

 沈黙。

 メフィストは感情を動かさない。

「兄は、抱え込みすぎた」

 静かな声だった。

「地方領主も」

「自治都市も」

「草原も」

「神殿も」

「全部を、共存させようとした」

 風が吹く。

 王城の旗が、低くはためく。

「・・・あのひとは、民を信じていた」

「土地ごとの営みを」

「それぞれの文化を」

「人が人を支える力を」

「だから、地方へ権限を残した」

 シュイが、薄く目を細める。

「・・・暗君には聞こえないけど?」

「そうだ」

 メフィストは否定しない。

「実際、兄は王として極めて優れている男だ」

 その声音には、嘲りも憎悪もなかった。

 むしろ。

 誰より理解している者の冷静さがあった。

「だが」

 暗い青眼が、ゆっくり細まる。

「これからのレザリアに必要なのは、“善き王”ではない」

 遠く。

 王都の鐘が鳴る。

「洪水」

「疫病」

「食糧不足」

「物流の崩壊」

「国が壊れかけている時に、地方ごとの意思を尊重していては間に合わない」

 低い声。

「必要なのは、ひとつの意志で全部を動かすことのできる王だ」

 一拍。

「兄に取って代わるべき時がきた」

 シュイは、メフィストの横で、嫣然と笑った。

 ――これこそが。

 わたしの望んだ男。

 草原王カヨウの求める新都建造のための、礎となる男。


「軍も」

「神殿も」

「交易も」

「治水も」

「すべてを中央へ集め、統制する」


 シュイが、くすりと笑みをもらす。

「王が、ふたり」

 沈黙。

「しかもどちらも優れた資質を持っている」

 メフィストは、しばらく答えなかった。

 やがて。

 ぽつりと落ちた声は、妙に静かだった。

「それが、レザリアの不幸だ」

 兄は、人を信じる王。

 弟は、国を制御する王。

 どちらも、間違ってはいない。

 だからこそ。

 この国は、ふたつに裂けた。


第75話、ありがとうございました。


ついに「王都崩壊前夜」が本格的に始まりました。

洪水、疫病、物流崩壊――静かに沈み始める王都。

そして、草原軍を率いて帰還するメフィスト。


今回描きたかったのは、

単純な「悪役の反乱」ではなく、

“国家を救うために、別の国家の形を選ぼうとする王”

としてのメフィストです。


アレクシスもまた、間違いなく賢王です。

だからこそ、「王がふたりいた」ことそのものが、この国の悲劇になっていく。


次回から、停戦会談にむかって物語が動き始めます。

ナイルート河川を舞台に、それぞれの思惑がぶつかり始めます。


もし少しでも続きが気になっていただけたら、

ブックマークや感想で応援いただけると、とても励みになります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ