第73話 ふたりの朝
岩の隙間から、光が差し込んだ。
細い光が、洞の奥へ伸びてくる。
湿った空気の中で、それは淡く揺れていた。
アレクシスは、ゆっくりと身を起こす。
身体の芯に、まだ熱がくすぶっている。
視線を落とす。
外套の上には、わずかな乱れと、温もりだけが残っていた。
――いない。
ラゴウの姿は、なかった。
岩肌のそばに、女の衣服を結わえていた細い内紐が落ちている。
拾い上げる。
指先に、かすかに香りが残る。
昨夜の記憶が、静かに戻る。
触れた感触。
重なった呼吸。
逃げなかった体温。
はじめて、本気で、求めた。
(・・・彼女は、逃げなかった)
止まれるはずがなかった。
あたたかな湯の中で、交わり合った。
岩肌がラゴウの肌を傷つけるのをおそれて、自分の外套を敷いた。
その上で、夜明けまで、昂ぶりあった。
昨夜は。
完全に理性のタガが外れていた。
三年間、抑えてきたものが――一度に溢れた。
丁寧に、大切に、触れるつもりだった。
なのに。
彼女の体温を感じた瞬間、まるで、自制がきかなくなった。
王はゆっくりと立ち上がる。
岩間から差し込む朝の光が、裸の肩をなぞった。
背に、細い爪痕がうっすらと残っている。
脱ぎ捨てられた衣が、床に落ちていた。
(・・・)
小さく、息を吐く。
衣を拾い、羽織る。
剣帯を締める。
動きは、いつも通りだ。
だが、どこか違う。
胸の奥に、静かな熱が残っている。
数刻前、気配が動くのを感じた。
ラゴウが、静かに立ち上がったのだ。
女の白い背が、岩間から漏れる朝の光を受けて淡く浮かぶ。
しっとりと濡れた赤い髪が、背に沿って落ちている。
水を含んだ髪先が、ゆっくりと滴る。
その雫が、背の曲線をなぞって消えた。
音を立てずに、衣服を羽織る。
肩から腰へ落ちる線が、やわらかく揺れて、視界から消えた。
(・・・患者たちもとへ、向かったのか)
自らの成すべきことをやり遂げるために。
(ならば、自分も彼女とともに在るのみ)
長い沈黙。
やがて。
低く、呟く。
(もはや)
「・・・手放せない」
外では、朝の風が岩肌を撫でていた。
◇ ◇ ◇
夜明けを迎えてもなお、ナイルート川の轟音は、遠くで低く唸り続けていた。
川は、一晩中、荒れ狂っていた。
逆流した濁流。
岩を砕くような波。
大地そのものが揺れるような咆哮。
洞窟の奥まで響いてきた、神の浄化の音。
ラゴウは、ふと足を止める。
脳裏に、一瞬だけ昨夜が蘇った。
熱い湯。
擦れ合った、肌。
耳の奥で鳴り続けていた洪水の轟音。
からだの奥を、深く、穿つ、振動。
足を開かせた、男の手の熱。
逃がさない強さで、腰を掴まれた感触。
湯の中で、何度も、何度も、名前を呼ばれた。
「・・・っ」
ラゴウは、かすかに顔をしかめる。
熱を振り払うように、短く息を吐いた。
――はじめて。
義務ではなく。
止めようのない熱情で。
彼を求めた。
身体が、こんな幸福を覚えてしまったことが。
ひどく、恐ろしかった。
湯治洞の中には、まだ昨夜の轟音の残響が沈んでいた。
ナイルート川の逆流。
岩を砕くような濁流の咆哮。
地の底から響くような、あの不気味な震動。
夜が明けても。
村人たちの顔から、不安は消えていない。
石室のあちこちで、避難できなかった者たちが身体を横たえていた。
焚き火の煙。
煮沸された薬湯の匂い。
湿った熱気。
咳き込む声。
子どもを抱きしめたまま眠る女。
壁際では、眠らずに水を運び続ける若者たちの姿もある。
だが。
昨夜より、確かに死の気配は薄れていた。
ラゴウの血で中和した月白花の薬湯。
それを飲んだ者たちの熱は、少しずつ下がり始めている。
荒かった呼吸が落ち着き、痙攣は止まり、死人のようだった顔色にも、わずかに血色が戻っていた。
それでも。
誰も、安心はしていない。
その中を。
ラゴウは、静かに歩いていた。
赤い髪が揺れる。
その足取りに迷いはない。
ラゴウの姿を見た瞬間。
張り詰めていた空気が、わずかに変わった。
「・・・王妃様」
誰かが、小さく呟く。
ラゴウは止まらない。
そのまま歩く。
「水は煮沸したか」
短く問う。
「は、はい!」
「井戸は封鎖を続けろ。先日捉えた不審な男どもと接触した者は分ける」
「はい!」
指示が飛ぶ。
迷いがない。
声に、揺れがない。
その背を見て、動きが戻る。
止まりかけていた流れが、再び動き出す。
ラゴウはしゃがみ込む。
子どもの額に手を当てる。
「・・・大丈夫だ。じき熱は下がる」
立ち上がる。
そのとき。
背後に、気配がした。
振り返らない。
分かっている。
「起きたのか」
ラゴウが言う。
一拍遅れて、低い声が返る。
「・・・ようやく、あなたの男、に、なれた朝だったのに」
足音が近づく。
並ぶ。
触れない距離で。
それでも、近い。
耳元で、ささやく。
「あなたの身体のカタチを思い出す余韻に浸るヒマも、ありませんね」
「アンタな・・・!」
「・・・昨夜は、無理を、させてしまいましたよね」
「無理、って」
「痛く、なかった、ですか」
(なんでそういうことを聞く!)
逃げるように、ラゴウはふいと視線を逸らす。
(・・・あんな、あんなのは)
「・・・反則だ」
「なんです?」
かつての記憶の中の、義務の夜と違いすぎて。
「アンタとは、もうしない」
「・・・嫌でしたか?」
首をかしげるように、男は少し笑った。
そんなわけが。あるはず。ない。
あれほど貪りあってしまった夜の後では、なんの言い訳も通じない。
つながった身体が、もうどちらのものかさえ、あいまいになるほど。
――分かっているくせに。
「・・・では、少しずつ、慣らすことにしましょう。わたしの愛撫。わたしの体温。わたしの欲情に」
(慣らされて、たまるか)
「・・・距離を置くって選択肢は」
「あるはずがない」
即答。
「いや、でも、少し、冷静になったほうがいいんじゃないかと」
「・・・冷静に、なりたいのは、あなたが動揺しているからでしょう」
「別に、動揺なんて・・・!」
あんな抱き方をされたら。
あんな抱かれ方に慣れてしまったら。
――自分がおかしくなる気がする。
「好きな女に狂うのは、ふつうでしょう」
朝の冷えた風が、熱を持った肌を撫でていく。
「あなたはわたしの妻ですから」
なのに、耳元の声だけが、妙に熱かった。
ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
第73話は、「一夜のあと」を描いた回でした。
ようやく、本当の意味で互いを求め合えたふたり。
でも、だからこそ、ラゴウは“幸福”を怖がっています。
失うことを知っているから。
壊れることを知っているから。
そして、ふたりが心を通わせる一方で、王都では少しずつ別の火種も動き始めています。
洪水。
疫病。
揺らぐ王国。
ここから、物語全体も大きく動いていく予定です。
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いつもありがとうございます。




