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第72話 湯治洞の一夜

 

 湯気が、濃い。

 岩に囲まれた湯の縁で、ラゴウは膝をついていた。

「動くな」

 短く言う。

 アレクの衣をほどく。

 血に濡れた布。

 巻かれていた包帯を、慎重に外す。

 そっと傷に触れる。

 毒は、ほとんど抜けている。

 湯の効能もあってか、傷口も、閉じかけていた。

 ラゴウは、安堵したように息を吐く。

「・・・良かった」

 低く、呟く。

 アレクシスは何も言わない。

 ただ、じっとこちらを見ている。

「何だ」

「・・・いえ」

 少しだけ、間があく。

 それから。

「あまり触れられると、さすがに余裕がなくなるんですが」

 ラゴウの手が止まる。

「なに?」

 顔を上げる。

 アレクシスは、ふ、と微笑を浮かべたまま、ラゴウから視線を逸らさない。

「・・・わたしは、ようやく」

 一拍。

「あなたの男、に、なれましたか」

 ラゴウが固まる。

 一瞬、言葉を失う。

「・・・アンタ、どこから聞いて・・・」

「ほとんど、最初から?」

 さらりと返る。

 ラゴウの頬が、かっと熱を帯びた。

「性格が悪いぞ!」

「毒に侵されていても、意識はありましたから」

 平然と言う。

 ラゴウは、舌打ちした。

「最悪なやつ・・・」

 それでも。

 その手は止まらない。

 最後の布を外し、アレクを支える。

「入れ」

 湯へと導く。

 アレクの身体が、水に沈む。

 静かに。

 湯気が、ふたりを包む。

 一瞬。

 ラゴウの肩から、力が抜ける。

 安堵だった。

 確かに、生きている。

 そのとき。

 ふいに、手首を、掴まれた。

「なに・・・」

「あなたも」

 低く言う。

「満身創痍でしょう」

 ラゴウは、眉を寄せる。

「問題ない」

「あります」

 即答。

 手が、離れない。

「一緒に、薬湯に」

「バカ言うな!」

 振り払おうとする。

 だが。

 力が、抜ける。

 湯治洞の空気は、熱かった。

 濃い湯気。

 湿った熱。

 肌へまとわりつくような湿度。

 そのせいで、ラゴウの衣はひどく薄くなっていた。

 汗と湯気を吸った布が、肌へぴたりと張りついている。

 肩の線。

 濡れた鎖骨。

 呼吸に合わせて上下する胸元。

 隠しているはずなのに、余計に目を逸らせなくなる。

 アレクシスの指が、その内紐へ触れた。

 ゆっくり。

 確かめるように。

 細い紐が、するり、とほどける。

「アレク!」

 名を呼ぶ。

 止めるつもりで。

 だが。

 声が、わずかに揺れた。

 ほどけた衣が、肩から静かに落ちる。

 白い肌へ、湯気がまとわりついた。

 ラゴウが咄嗟に押さえようとする。

 その手首を、アレクが掴んだ。

 強引ではない。

 だが、逃がさない力だった。

「・・・っ、病み上がりのくせに・・・!」

「あなたを抱くのに、別に、なんの障りもありませんよ」

「ふざけてないで・・・」

 離せ、と言葉が途切れる。

 視線を逸らして、男の肌を押し返す。

「そんな顔をしても、無駄です」

 低く、囁く。

 アレクシスの指が、濡れた赤い髪に触れた。

 熱を持った指先が、耳の後ろをなぞった瞬間、ぞくり、と背筋が震えた。

「もう、絶対に、逃がしませんから」

 距離が、消える。

「とまる気も、ありませんから」

 ラゴウは、息を詰める。

 逃げようとすれば、逃げられる。

 だが。

 動けない。

「・・・ラゴウ」

 名前を呼ばれる。

 近くで。

 あまりにも、近くで。

 吐息が近い。

 湯気のせいで、視界が滲む。

 互いの肌が触れ合っている場所だけが、妙に熱かった。

「あなたは、我慢、できるんですか」

 一瞬。

 沈黙。

 湯気の中で、視線がぶつかる。

 逃げ場はない。

 引くか、進むか。

 ――引くに決まってる。

「ラゴウ」

 ――なんでこんな目で見るんだ、この男は!

 ラゴウの手が、無意識に、動く。

 アレクの首を掴む。

 噛みつくような勢いで、引き寄せる。

 一瞬、唇が重なって、すぐに離れる。

 が。

 それで、終わらなかった。

 アレクシスの手が、腰を強く引く。

 そのまま――

 湯が、大きく揺れた。


 ◇ ◇ ◇


 遠くで。

 ナイルート川が、吠えていた。

 ごう、と。

 地の底を揺らすような轟音が、断続的に湯治洞へ響いてくる。

 岩壁が、微かに震えた。

 天井から、ぱらり、と砂が落ちる。

 大逆流。

 神の浄化。

 古代から語られてきた、浄化という名の災厄が、今まさに、村を呑み込もうとしていた。

 濁流のうねりが、まるで巨大な獣の咆哮のように、洞窟の奥へ反響している。

 それなのに。

 湯治洞の最奥だけは、不思議なほど熱く、静かだった。


 湯が揺れる。

 岩に囲まれた狭い湯溜まりの中で、

 赤い髪がゆっくりとほどけていく。

 水に溶けるように。

 熱に染まるように。

 アレクシスの手が、ラゴウの腰を強く掴む。

 逃がさない圧で。

 岩肌を伝う雫が、静かな音を立てる。

 ラゴウは、息を乱したまま、アレクの胸へ額を預けている。

 熱い。

 触れている場所すべてが。

 外では、世界が壊れようとしている。

 なのに。

 この腕の中だけが、ひどくあたたかかった。


 アレクシスの指が、濡れた赤髪を梳いた。

 大切なものを慈しむように。

「・・・やっと」

 低い声が落ちる。

「わたしを、見つめてくれましたね」

 ラゴウの肩が、わずかに揺れた。

「あなたは、いつも頑なに目を閉じていた」

「何度、体を重ねても・・・怯えるように」

 熱を秘めた、静かな声だった。

 感情の疼きを耐えているような。

「わたしは、ずっと」

 アレクの唇が、ラゴウの額へ触れる。

「あなたに、見つめられたかった」

 首筋へ。

 肩へ。

 ゆっくりと口づけが落ちる。

「もっと抱きしめたかった」

「もっと、触れたかった」

 吐息が掠れる。

「体中に、キスしたかった」

 ラゴウの呼吸が、乱れる。

 アレクシスの腕が、さらに深くラゴウを引き寄せる。

「もっと」

 低い声。

「深く、繋がりたかった」

「でも」

 一拍。

「あなたは、いつも不安そうに震えていたから」

 ラゴウの睫毛が揺れる。

 思い出す。

 義務だった夜。

 王妃としての役目。

 嫌われたくなくて。

 拒まれたくなくて。

 なのに、怖くて。

 痛みを逃すすべも分からず、王に身を任せきることもできず。

 アレクシスは、ラゴウを抱き締めたまま、小さく息を吐く。

「だから、距離を置くしかなかった」

「・・・壊しそうで、怖かった」

 湯が、また、揺れる。

 金の瞳が、溶けたように、潤む。

「アレク」

 白い指が伸びる。銀髪に触れる。

「・・・もう、大丈夫だから」

 ほどけた体が、熱に溶ける。

「わたしも、欲しい」

 苦し気に、ほとんど息だけで、言う。

 その視線に。

 堕ちるように、アレクシスはラゴウに口づける。

 互いを貪るように、深く舌が絡み合った。


 息が乱れる。

 水面が揺れる。

 ひとつ。

 また、ひとつ。

 規則を持った波が、岩肌に返る。

 男の背に、白い素足が絡む。

 ほどけない。

 湯の中で、身体がわずかにずれるたびに、

 深く、揺れる。

 何度も。

 繰り返し。

 水が、低く音を立てる。

 呼吸が重なる。

 言葉はない。

 ただ、同じリズムだけが続く。

 逃げない。

 止めない。

 そのまま。

 さらに、深く。

 揺れが重なり――やがて、境界が消えた。


 ◇ ◇ ◇


 熱を含んだ湯から上がると、外気がわずかに冷たい。

 岩肌の上には、アレクシスの外套が敷かれていた。

 粗い石が、肌を傷つけぬように。

 その上に、ふたりは身を落とした。

 まだ体に残る熱が、逃げきらない。

 息が、近い。

 触れた場所が、まだ熱い。

 外では、洪水の残響音が続いている。

 洞の奥で、その音はどこか遠い記憶のように響いた。

 ラゴウの赤い髪が、外套の上に広がる。

 その中に、男の銀髪が沈む。

 何度も。

 確かめるように。

 繰り返し。


 夜明けが、ゆっくりと近づいてくる。


今回は、たぶん、この物語の中でもかなり静かで、かなり激しい回でした。

洪水。

逆流。

疫病。

世界が壊れていく音の中で。

ようやく、ラゴウとアレクが、“義務”ではなく、互いを求めて触れ合えた夜。


そして一方で、外の世界はどんどん崩れ始めています。

草原。

神殿。

メフィスト。

カヨウ。

「国をどう生かすのか」という思想の衝突も、ここから本格的に動き出します。

ぜひ、ブックマークや感想で応援いただけると、とても励みになります。

この先のフェルンと、ふたりの未来も、見届けてもらえたら嬉しいです。

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