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第71話 キスを秘める


「君に、新しい王国を捧げるよ」

「・・・そんなもの、いらない!」

ぐ、とラゴウは血を吐く。

毒が回る。


そのとき。


黒い影が、ラゴウの前へ落ちた。

音が、遅れて来る。

――いや。

違う。

速すぎて、誰も“動き”を認識できなかった。

次の瞬間には、そこに立っていた。

長い黒髪が、ふわりと宙を流れる。

湯治洞の淡い蒸気の中で、その背だけが異様なほど静かだった。

均整の取れた身体。

肩から腰へ落ちる線は無駄がなく、一切の隙がない。

鍛え上げられた獣の骨格。

しなやかで、鋭く、美しい。

人間の領域を超えた、圧倒的な速さと強さを誇るフギ族の長。

黒衣の裾が、ゆっくり揺れる。

片手には、細身の長刀。

切っ先が、静かにカヨウへ向いていた。

シキは振り返らない。

毒に侵され、ふらつきながらも立とうとするラゴウを、ただ背中で庇っている。

その姿は、まるで“壁”だった。

誰にも越えさせないための、絶対の境界線。

カヨウが、目を細める。

「・・・シキ」

低い声。

だが。

シキは答えない。

閉ざされた目隠しの奥、見えないはずの双眸が、まっすぐ草原王を見据えている気配だけがあった。

洞窟の空気が、軋む。

殺気。

いや。

もっと原始的な何か。

捕食者同士が向き合った瞬間の、本能的な緊張と牽制。

ラゴウが、息を呑む。

そのとき。

シキの首筋へ、赤黒い紋様が浮かび上がった。

刻印。

盟約。

フギ族が代々その身へ刻まれる、草原王守護の呪。

皮膚の下を、血のような光が走る。

ぶち、と。

血管が裂ける音。

黒衣の袖口から、赤が滴った。

それでも。

シキは、一歩も退かない。

「・・・シキ!」

思わずラゴウは立ち上がる。

「来るな」

感情を削ぎ落とした、冷たい声音が、ラゴウを制した。


カヨウが、ゆっくり目を細める。

「シキ」

その声音だけで、空気が軋む。

「草原王の“影”であるお前が」

「僕に逆らえるの?」

沈黙。

湯治洞の熱気が、ゆらりと揺れた。

シキは答えない。

ただ。

ほんのわずかに。

ラゴウの前へ立つ位置を深くする。

その動きだけで、十分だった。

カヨウの笑みが、消える。

「・・・そう」

頭の奥で、声が響く。

「フギの血脈に刻まれた盟約を、破るんだね?」

定められた、血の掟。

草原王への、絶対服従。

逆らうな。

刃を向けるな。

心臓が、激しく脈打つ。

どくん。

どくん。

その鼓動に合わせるように。

全身の血が、逆流した。

「――っ」

喉の奥から、低い呻きが漏れる。

熱い。

いや。

違う。

焼けるように、冷たい。

血管の内側を、無数の針が這い回るようだ。

シキの指先が震えた。

黒衣の下。

肌へ刻まれた古い紋様が、ぼう、と赤黒く浮かび上がる。

盟約の刻印。

それが今。

皮膚を破るように脈動していた。

血管が裂ける。

視界が揺れる。

肺が痙攣する。

呼吸が、できない。

――逆らうな。

頭蓋の奥で、古い盟約が絶叫する。

シキは奥歯を噛み砕くように、強く唇を噛んだ。

一歩前へ出る。

カヨウとラゴウの間へ。

「フギの長であるおまえが」

カヨウが、静かに笑う。

「草原王との守護の盟約を破れるとでも?」

その瞬間だった。

シキの胸に、激痛が走る。

――ぐしゃ。

心臓を、内側から握り潰されたような痛み。

視界が赤く滲む。

膝が軋む。

だが。

獣のような呻き声で、言う。

「……知らん」

全身が裂けるような激痛が襲う。

それでも。

絞り出すようにして、言う。

「・・・フギは、草原王の<影>ではない」

「なんだって?」

「ジョカの<影>だ」

カヨウは、下からねめつけるように、シキの顔をのぞき込んだ。

「ダッキは正統じゃないんだって、もしかして、そう言ってる?」

カヨウの瞳の虹彩が、蛇のように、細く長く光った。

「草原王の正統な血脈は、ジョカのラゴウだ」

「王位はダッキに移ったんだよ」

一拍。

「――おまえ、まだ、認めない気?」

不機嫌そうに、カヨウは眉をひそめた。

「おまえと宿命の盟約で結ばれたは、この僕――ダッキ族である草原王カヨウだ」

次の瞬間。

空気が、消えた。

否。

シキが、消えた。

カヨウの瞳が、わずかに見開かれる。

速い。

そう認識した時には、もう刃が喉元へ届いていた。

――ギィン!!

鋭い音。

黒い刀身が、カヨウの首筋へぴたりと当てられている。

あと一寸。

押し込めば、頸骨ごと断ち切れる位置。

長い黒髪が、遅れて宙へ流れる。

シキは、いつの間にかカヨウの懐へ踏み込んでいた。

低い姿勢。

無駄のない重心。

一切の迷いがない。

草原最強。

フギ族の長。

その異名を、誰も疑えない。

「草原を捨てる者が、王を名乗ることは、許さぬ」

カヨウの頬を、一筋の血が伝った。

ほんの僅か、刃先が触れただけで皮膚が裂けている。

「ジョカを継ぐラゴウを傷つけ阻むことも」

シキの握る刀が、ぎり、と鳴った。

「次は」

シキが、低く言う。

声が擦れていた。

閉ざされた双眸の奥から、凄まじい殺気だけが溢れていた。

「殺す」


黒衣の戦士は、ラゴウを庇う位置から動かない。

「・・・おまえの身体がどこまでもつか、見物だねえ?」

嘲るように嗤って、カヨウは闇に消えた。


◇ ◇ ◇


石室に、静かな水音が響いていた。

アレクシスの呼吸は、ようやく落ち着いている。

月白花の毒は抜け始めていた。

ラゴウは、その顔を見つめたまま、長く息を吐く。

「・・・よかった」

掠れた声。

そして。

張り詰めていた糸が、切れる。

視界が揺れる。

膝から力が抜けた。

「ラゴウ」

落ちる身体を、黒い影が受け止める。

シキだった。

熱を持たない腕。

だが、驚くほど確かに支える。

ラゴウは朦朧としたまま、シキの胸へ額を預ける。

呼吸が熱い。

毒を取り込んだ。

ジョカの血で中和したとはいえ、負担がないはずがない。

シキは黙ってラゴウを見る。

閉ざされた双眸。

それでも。

“見えている”。

触れた瞬間から。

血流も。

熱も。

鼓動も。

全部。

流れ込んでくる。

――フギは、ジョカを求める。

それは、本能だった。

いや。

もっと古い。

神話の時代から続く、宿命の鎖。


草原には古い口伝がある。

世界がまだひとつだった頃。

神は、自らをふたつに裂いた。

伏義フギ女媧ジョカ

女媧を得たのは妲己ダッキだったが、欠けた魂の半分を欲して、ふたりは互いを探し求める。

ダッキはジョカを奪う。

フギはジョカを求めつづける。

フギの血族は、ヒトとしての感情と引き換えに、人倫を超えた長命と、圧倒的な戦闘能力を得た。

そしてその長は、何千年にも及ぶ悠久の神の記憶をも継承する。

女媧を求め続ける伏義の記憶を、継いでいる。


――個人的な欲望などではない。

そのはずだ。

なのに。

シキの指先が、わずかに震える。

触れたい。

ひどく。

口づけたい。

その衝動に、自分で息を呑む。

「・・・っ」

シキは片手で額を抑える。

違う。

これは。

単なる解毒だ。

そう、言い聞かせる。

湯薬を口に含む。

苦い薬草の匂い。

そして。

シキは、ラゴウの髪を乱暴に掴んだ。

上を向かせる。

優しくなど、できない。

女を慈しむように触れれば。

壊れてしまう。

――自分が。


唇を重ねる。

熱い。

ラゴウの呼吸が、小さく揺れる。

口移しで、薬を流し込む。

喉が動く。

零れた雫が、顎を伝った。

シキは、ゆっくり唇を離す。

だが。

距離を取れない。

額が触れそうなほど近い。

ラゴウは、熱に浮かされたまま、小さく息を漏らした。

「・・・シキ・・・おまえ、大丈夫か」

その声だけで。

胸の奥が、裂けそうになる。

「こんな状態で、よくひとを気遣えるものだな」

声が。

震えそうになるのを、気取られてはならない。

刻印が、熱を持つ。

黒い紋様が、首筋へ浮かび上がる。

ずきり、と。

心臓が軋む。

「・・・手当は?」

「済んでいる」

盟約違反。

草原王への反逆。

安堵したように、ラゴウは瞳を閉じる。

「眠れ」

血が逆流する。

それでも。

シキは、ラゴウを離さなかった。

まるで。

何千年も前から。

ずっと、こうしたかったように。


第71話「キスを秘める」でした。

今回は、シキ回でした。

ずっと“影”として描いてきた男が、

はじめて、自分自身の意思で草原王へ刃を向けた回でもあります。

草原に残された神話と血の記憶が、少しずつ物語の表へ出てきました。

シキにとって、ラゴウへ向かう感情は、

恋なのか。

宿命なのか。

神話の残響なのか。

本人にも、まだ分かっていません。

この感覚が何なのか。

それも、これから少しずつ描いていけたらと思っています。

ここまで読んでくださって、ありがとうございます。

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