第70話 殺意と思想
カヨウの瞳が、底知れぬ冷たさで凍ってゆく。
女の金の瞳だけが、燃えるようにカヨウを見ていた。
濁った血が、岩を濡らす。
「・・・そいつのために、死ぬ気なの」
掠れた声だった。
ラゴウは睨み返す。
「死ぬかどうかは、おまえの気分次第だろう」
沈黙。
やがて。
ふ、と笑う。
だが、その笑みはもう、ツクヨミのものではなかった。
「・・・意味がわからない」
低い声。
「君は生まれる前から僕の花嫁なのに」
剣先が、ゆっくり下がる。
ラゴウは、口元の血を拭いもせずに言った。
「解毒薬の処方を吐け」
沈黙。
カヨウの瞳が、ゆっくり細められる。
洞窟の奥で、水音だけが響いていた。
やがて。
カヨウは、諦めたように、小さく笑った。
「・・・煮出した月白花の煮汁に」
低い声。
「君の血を混ぜるんだ」
ラゴウの瞳が光る。
「ジョカ族の血なら、毒性を中和できる」
「逆に、ダッキ族の血を混ぜれば毒になる」
一拍。
「ジョカは“浄化”。ダッキは“変質”。・・・同じ月白花でも、効き方が変わる」
ラゴウは息を呑む。
アレクが、苦しげに咳き込んだ。
黒い血が零れる。
ラゴウは即座に振り返る。
「ユイ!」
奥から、パタパタと走ってくる音がした。
「姫様、どうなさいました・・・」
駆けつけた侍女は、状況を察して絶句する。
「え・・・えっ?ツクヨミ様?」
カヨウの双眸が、侍女を捉えた。
――ツクヨミ。では、ない。
ようやく、侍女は気が付く。
その視線の圧に、覚えがある。
3年前の姿しか記憶になかった。
ずっと背が伸びていた。肩が広くなっていた。
目の前のこの男は、間違いなく。
「・・・草原王?」
ラゴウが遮る。
「おまえが押収した月白花の粉末があったな!?」
「・・・えっ・・・はい!」
ユイが答える。
すでに荷袋を漁っていた。
「ありますあります!」
「煮だした後にわたしの血を」
「はい!」
恐ろしい速度で動き始める。
ラゴウは短刀を抜いた。
ためらわない。
自分の掌を切る。
血が滴る。
それを見た瞬間。
カヨウの表情が、僅かに歪んだ。
「・・・どうして」
掠れた声だった。
ラゴウは顔を上げる。
「どうして、そいつのためにそこまでするの」
カヨウの瞳が揺れている。
怒りとも。
悲しみともつかない色で。
「君は」
一歩。
近づく。
「僕の女だと、何千年も昔から決まっているのに」
ラゴウの呼吸が、わずかに止まる。
だが。
次に出た声は、静かだった。
「・・・カヨウ」
血の滴る手を握りしめる。
「なぜこんなことをした」
絞り出すように。
「伝染病を広げ、水源を毒に変え、村人を死なせる」
「こんなの、殺戮と同じだ」
カヨウは、黙ってラゴウを見る。
その目つきが、妙に幼い。
「ラゴウ」
甘える子どものような声だった。
「覚えてる?」
「冬が来るたび、子どもが死んだ」
「羊が凍って」
「馬が倒れて」
「雪の中で、母親が赤ん坊抱いたまま冷たくなってた」
ラゴウの目が、わずかに揺れる。
カヨウは続ける。
「歴代のジョカの王は、それでも“草原に誇りを持て”って言った」
笑う。
冷たく。
「風とともに生きる?」
「空の下で自由に?」
「・・・笑わせるなよ」
一歩。
近づく。
「自由ってのは」
「明日、生きてられる奴の言葉だ」
湿った洞窟の奥で、水音が響く。
カヨウの声だけが、静かに落ちる。
「草原には何も残らない」
「蓄えも」
「港も」
「水路も」
「城も」
「全部、風に消える」
「だから奪うしかなかった」
「だから侵すしかなかった」
「歴代の草原王だって、結局は南へ、西へ、略奪を繰り返した」
「生き残るために」
「飢えないために」
「民を冬で死なせないために」
その瞳が、ゆっくり細まる。
「僕は、それを終わらせたい」
「・・・終わらせる?」
ラゴウの問いに、カヨウの瞳は潤む。
「草原を、越える」
甘美な夢に浮かされるような声音で、カヨウは言った。
「定住する」
「蓄える」
「滅びない国を作る」
遠く。
再び、地鳴りのような轟音が響いた。
ナイルート川。
逆流。
カヨウが、薄く笑う。
「フェルンは、神に選ばれた」
「洪水の後には、肥沃な土が残る」
「水運も作れる」
「港も築ける」
「ここは、“始まりの土地”になる」
静かな熱が、その声に宿っていた。
夢を見る王の声だった。
洞窟の奥で、低い地鳴りが響いていた。
まるで。
大地そのものが呼吸しているように。
「・・・ラゴウ」
静かな声だった。
「ナイルートの逆流が、“浄化”って呼ばれてる理由、知ってる?」
ラゴウは答えない。
カヨウは構わず続けた。
「洪水は、全部さらう」
「病も」
「死体も」
「腐った土地も」
「古いものを、一度、全部流すんだ」
その声は穏やかだった。
恐ろしいほどに。
「だから、“神の選別”なんだよ」
「残るべきものだけが残る」
「生き延びる価値のある土地だけが、次の時代を待つ」
ラゴウの目が険しくなる。
「・・・だから村人を殺したのか」
カヨウは笑う。
「殺した?」
首を傾げる。
「違うよ」
「捧げたんだ」
沈黙。
湯治洞の蒸気が、ゆっくりと揺れる。
カヨウの声だけが、静かに落ちた。
「新しい国を作るなら、“清め”が必要だ」
「穢れたままじゃ、土地は生まれ変われない」
「病も」
「弱い血も」
「古い因習も」
「全部、一度死ななきゃならない」
ラゴウが、低く吐き捨てる。
「・・・狂ってる」
「そうかな?」
カヨウは否定しない。
むしろ、不思議そうだった。
「じゃあ聞くけど」
「草原で、何人死んだ?」
「冬で」
「飢えで」
「疫病で」
「その死には意味があった?」
沈黙。
「なかったよね」
カヨウの瞳が、冷たく細まる。
「ただ、弱かったから死んだ」
「運が悪かったから死んだ」
「だったら」
一歩。
ラゴウへ近づく。
「新しい国の礎になるほうが、まだマシだ」
「死ぬことに意味ができる」
「神に選ばれた土地へ捧げられる」
「それは“浄化”だ」
ラゴウの拳が、震えた。
「・・・ふざけるな」
低い声。
怒りで、喉が焼ける。
「生きてる人間を、勝手に礎にするな」
カヨウは静かに見返す。
「じゃあ、君には救えるの」
「全員?」
「洪水も」
「病も」
「飢えも」
「草原の民も」
カヨウの声が、さらに低くなる。
「ラゴウ」
「王ってのは、“選ぶ”側なんだよ」
「何を残して」
「何を捨てるか」
「それを決める」
「だから僕は、草原を捨てる未来を選ぶ」
「でも」
一拍。
「君だけは、捨てられないんだ」
第70話「殺意と思想」でした。
ついに、カヨウが“ツクヨミ”ではなく、“草原王”としてラゴウの前へ現れました。
今回のカヨウは、ただ狂っているわけではなく、
草原の過酷さや、冬と飢えの中で失われていった命を見続けた王でもあります。
そして次回から、湯治洞編はさらに深くなっていきます。
洪水。
神話。
宿命。
そして、ラゴウとアレクシスの関係。
ここまで読んでくださって、ありがとうございます。




