第69話 わたしの男だ
石室には、静かな湯音が響いていた。
岩肌を伝う雫。
淡い湯気。
熱を含んだ空気。
アレクシスの呼吸は、徐々に落ち着いていた。
湯治洞に湧く水は、傷を癒し、毒を鎮め、身体を本来の巡りへ戻す効能がある。
村の老婆が言っていた通りだった。
ラゴウは、横たわる王の傍らへ座ったまま、壁へ背を預けていた。
ほとんど眠っていない。
疲労で、視界が霞む。
アレクシの熱がようやく下がりはじめた。
その安堵だけで、張り詰めていた意識が少し緩む。
うとうとと、瞼が落ちる。
その時だった。
指先へ、わずかな力が返る。
ラゴウが顔を上げる。
アレクが、薄く目を開けていた。
熱に濡れた青灰の瞳が、ぼんやりと、ラゴウを見る。
「・・・意識は」
アレクシスは答えない。
ただ。
繋いだ手を、わずかに握り返した。
熱に滲む視線だけが、ラゴウを追っていた。
ラゴウは、安堵したように、ほっと息を吐く。
――その瞬間。
空気が、裂けた。
殺気。
ラゴウの背筋が凍る。
黒い影が、岩壁から滑り落ちるように現れた。
銀の刃。
一直線。
王の喉を狙っている。
「――アレク!!」
ラゴウが踏み込む。
火花が散った。
甲高い金属音。
刃と刃が噛み合う。
ラゴウは腰の短剣で、ギリギリのところでその一撃を受け止めていた。
重い。
腕が痺れる。
だが、退かない。
刃が離れた。
黒い影が、軽やかに着地する。
白銀の髪。
青とも赤とも見える、不思議な色を秘めた瞳。
笑っている。
「・・・ツクヨミ」
いや。
違う。
ラゴウは睨み返す。
「カヨウ」
少女のように美しいその青年は、嬉しそうに目を細めた。
「やっと呼んでくれた」
甘えるような声音。
なのに。
その剣先は、真っ直ぐにレザリアの王を狙っている。
「どいて」
静かな声。
「そいつ、殺すから」
アレクシスは起き上がろうとする。
だが、力が入らない。
「ねえ」
「何度、そいつに抱かれたの」
「君の唇に、腰に、脚に、爪に、どんなふうにそいつは触れたの」
カヨウの口元が、奇妙に歪む。
「大丈夫だよ、姉上」
「そんなのは、ぜんぶ、忘れさせてあげるから」
「ぼくと草原に帰ろう」
一歩。
近づく。
「ふざけるな!」
「ラゴウ」
低い声。
「なんで、そんな男守るの」
ラゴウは、ゆっくり息を吐いた。
そして。
一歩、前へ出る。
完全に。
アレクを庇う位置へ。
「君は月蝕の夜に命を断った――そいつは、壊れるほどズタズタに君を傷つけたのに」
「わたしを壊したのは」
じわじわとラゴウの体に毒を流し込み、月の周期を狂わせ、心身を蝕んだのは。
「おまえだ」
金の瞳が、真っ直ぐにカヨウを射抜く。
「・・・この男に手を出すな」
静かな声だった。
だが。
その場の空気を、断ち切るような声だった。
「アレクシスは」
一拍。
ラゴウは、はっきりと言った。
「わたしの男だ」
沈黙。
カヨウの笑みが、止まる。
ほんの、一瞬だけ。
空気が、凍った。
その瞬間。
カヨウが動く。
銀閃。
速い。
だが。
ラゴウは、さらに速かった。
踏み込む。
身体を捻る。
刃を受け流し、その勢いのまま懐へ潜り込む。
至近距離。
ラゴウの短剣が、真っ直ぐカヨウの喉を狙う。
カヨウの目が見開かれた。
次の瞬間。
――ドッ!!
鈍い音。
短剣が、カヨウの顔のすぐ横の岩壁へ突き立つ。
石に深く食い込む。
カヨウの白銀の髪が、数本、宙を舞った。
あと数寸ずれていれば。
喉を裂いていた。
「ラゴウ」
「本気で、ぼくを殺す気だっだ?その男のために?」
ラゴウは、カヨウを壁へ押し付けたまま、低く言う。
「・・・なぜこんなことをする」
呼吸が近い。
互いの熱がぶつかる距離。
カヨウは動かない。
ただ。
目だけが、ゆっくりラゴウを見る。
そして。
ふ、と笑った。
カヨウは、壁に縫い止められたまま、小さく息を吐く。
「だって」
妖しいほどに美しいカヨウの双眸が、ゆっくり歪む。
「君が、そいつを選ぶから」
カヨウの瞳から、すう、と熱が消える。
静かだった。
静かすぎて。
逆に、恐ろしい。
「君がいなくなったら、僕にはもうなんにも残らない」
小さく呟く。
そして。
カヨウが動く。
速い。
今度は、ラゴウではなく。
アレクの左胸。
一直線。
「っ――!!」
アレクが咄嗟に身を捻る。
だが、遅い。
刃が、深く薙いだ。
布が裂ける。
血が飛ぶ。
アレクの身体が、岩壁へ叩きつけられた。
「アレク!!」
ラゴウが叫ぶ。
王の体を守るように、抱きしめた。
カヨウは、軽く剣を振った。
刃先から、黒ずんだ血が滴る。
「その体で、避けるとはね」
つまらなそうに笑う。
「でも、もうすぐ終わる」
カヨウの刃に。
白い粉のようなものが、わずかに残っていた。
甘い香り。
「・・・月白花?」
掠れた声で、ラゴウが絞り出すように呟く。
カヨウは笑う。
「あたり」
「濃縮したものだ」
「血に入れば、すぐに回るよ」
アレクが、苦しげに息を吐く。
傷口から滲む血が、みるまに黒ずんでいく。
熱。
痙攣。
呼吸が乱れる。
毒が、急速に侵食している。
カヨウが、静かに言った。
「レザリア王は、もう助からない」
その言葉に。
ラゴウの中で、何かが切れた。
次の瞬間。
ラゴウは、アレクの胸ぐらを掴んでいた。
「・・・ラゴウ?」
アレクシスが掠れた声を漏らす。
ラゴウは答えない。
そのまま。
唇を、重ねた。
深く。
躊躇なく。
アレクの目が見開かれる。
「・・・よせ・・・!」
意図を察して、王はラゴウを引き離そうとする。
が。
毒。
血。
熱。
全部、混ざる。
ラゴウは、無理やりアレクシスの口内へ舌を差し入れた。
毒に侵された血を。
自分の中へ引き込むように。
「――っ、ラゴウ……!」
アレクシスが息を呑む。
ラゴウは唇を離した。
口元から、黒い血が垂れる。
それでも。
笑った。
カヨウを見る。
草原王の表情は、氷のように硬直している。
「・・・わたしを死なせたくないなら」
金の瞳が、真っ直ぐカヨウを射抜く。
「解毒薬の処方を吐け」
沈黙。
カヨウの笑みが、完全に消えた。
初めてだった。
その顔から、“余裕”が消えたのは。
「・・・ラゴウ」
低い声。
怒っているのか。
傷ついているのか。
分からない。
ラゴウは、血の混じった唾を吐き捨てる。
一歩。
カヨウへ近づく。
「どうする?」
「アレクシスごと、わたしも殺すか?」
第69話「わたしの男だ」でした。
「アレクシスは、わたしの男だ」
この一言を書きたくて、ここまで積み重ねてきた気がします。
今回のカヨウは、かなり危ういです。
でも彼なりに、本気です。
草原を変えたい。
民を飢えから救いたい。
そして、ラゴウを取り戻したい。
一方で。
アレクシスは、死にかけていてもなお「王」であり続ける人です。
そしてラゴウは、そんな王を守るために、自分から毒を引き受けた。
そして、シキ。
実は、彼の側も、かなり危ういところまで来ています。
神話。
盟約。
宿命。
いろんなものが、少しずつ動き始めました。
続きを読んでいただけたら嬉しいです。




