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第68話 逆流の予兆と発病

 最初に異変に気づいたのは、川漁師だった。

「・・・なんだ、こりゃ」

 網を引こうとして、手が止まる。

 ナイルート川の水面が、妙だった。

 揺れている。

 風もないのに。

 ざわ、ざわ、と。

 まるで、水の下で巨大な何かが身をよじっているように。

 次の瞬間。

 魚が跳ねた。

 一匹ではない。

 何十。

 何百。

 銀色の腹を見せながら、水面へ弾き飛ばされる。

 逃げるように。

 怯えるように。

「おい・・・!」

 漁師が後ずさる。

 川が、鳴っていた。

 低い。

 腹の底へ響くような音。

 ごう、と。

 遠雷にも似ている。

 だが、違う。

 音は、近づいていた。

 上流からではない。

 下流から。

 ありえない方向から。

 水鳥たちが、一斉に飛び立つ。

 岸辺の馬が嘶いた。

 犬が吠え続ける。

 村人たちが、不安げに空を見上げる。

 だが。

 空は静かだった。

 異変は、大地の下にある。

 ナイルート川の水位が、ゆっくりと盛り上がる。

 押し返されるように。

 本来の流れに逆らって。

 ざわり。

 川面が、逆巻いた。

 その瞬間だった。

 遠く。

 地平線の向こうから。

 轟音が来た。

 海鳴りのような。

 山崩れのような。

 世界そのものが軋むような音。

 白い飛沫が、はるか遠くで立ち上がる。

「・・・逆流だ」

 もはや遠い昔の伝説になりかけていた。

 村の古い老人たちしか知らぬ、そしてたしかに古代から繰り返されてきた、<神の浄化>。

「ナイルート川の大逆流・・・!」

 誰かが呟く。

 水の渦が。

 生き物のように、こちらへ向かってきていた。


 ◇ ◇ ◇


 湯治洞へ続く岩道は、暗かった。

 湿った空気。

 熱を含んだ蒸気。

 その中を、アレクは壁へ手をつきながら歩いていた。

 呼吸が、浅い。

 熱い。

 視界が滲む。

「……っ」

 喉の奥に、鉄の味が広がる。

 ラゴウが振り返った。

「アレク?」

 返事がない。

 次の瞬間。

 長身の身体が、大きく傾いた。

「――っ!」

 ラゴウが駆け寄る。

 崩れ落ちる寸前の身体を支える。

 熱い。

 異常な熱だった。

「おい、しっかりしろ!」

 アレクシスは息を荒げる。

 だが。

 その瞳は、まだラゴウを見ていた。

「・・・平気、です」

 掠れた声。

 そんなわけがない。

 少女の膿を吸った。

 伝染病。

 ラゴウが唇を噛む。

 ――感染した。そして、発病。

「馬鹿が・・・!」

 ふ、と力なく王は笑った。

「・・・ひどい言い草だ」


 ◇ ◇ ◇


 湯治洞は、山の内臓のような場所だった。

 岩を裂くように続く地下道。

 その奥に、大小さまざまな石室が点在している。

 地の底から湧き上がる熱水が、岩肌の窪みに静かに満ちていた。

 白い湯気。

 硫黄と鉱石の匂い。

 水音だけが、絶え間なく響く。

 “地母の湯”。

 村人たちは、そう呼んでいた。

 浅い湯溜まりもあれば、人ひとりが沈めるほど深い泉眼もある。

 岩壁には淡く発光する苔が張りつき、暗い洞窟をぼんやり照らしていた。

 まるで。

 大地の胎内だった。

 ラゴウは、次々と指示を飛ばす。

「重症者は奥へ!」

「熱の高い者は湯に近づけすぎるな!」

「水は必ず煮立ててから飲ませろ!」

 動ける者たちが、必死に患者を運び込んでいく。

 泣き声。

 咳。

 呻き。

 湿った熱気の中で、死の気配が漂っていた。

 その奥。

 最も静かな石室へ、ラゴウはアレクシスを支えながら運び込む。

 意識はない。

 熱が下がらない。

 呼吸も荒い。

「・・・っ」

 ラゴウは唇を噛む。

 岩場へ、厚い毛布を敷く。

 さらに乾燥させた草葉を重ねた。

 少しでも身体が痛まないように。

 硬い岩肌が熱を奪わないように。

 その上へ、慎重にアレクを寝かせる。

 銀の髪が、毛布へ流れ落ちた。

 顔色が悪い。

 熱に浮かされ、唇が乾いている。

 ラゴウはすぐに水を含ませた布で額を拭う。

 冷たい水。

 熱い肌。

 指先へ伝わる熱の高さが、恐ろしかった。


 ◇ ◇ ◇


「姫様、少し眠らないと倒れちゃいますよ!」

 ユイが泣きそうな顔で訴える。

 アレクシスが倒れてから、数日。

 ラゴウは、ほとんど眠らなかった。

 衣服を替える。

 熱を逃がすため、身体を拭く。

 濡れた布を、静かに肌へ滑らせる。

 そのたび。

 アレクシスの身体に刻まれた傷が、嫌でも目に入った。

 深く抉れた古傷。

 刃の軌跡。

 矢傷。

 焼け爛れた痕。

 鍛え抜かれた筋肉の上を、無数の傷痕が横切っている。

 美しい身体だった。

 だが。

 同時に。

 どれほど過酷な人生を生きてきたのかが、分かる身体でもあった。

 ――王位継承者。

 ――常に命を狙われる立場。

 メフィストとの継承争い。

 毒。

 暗殺。

 戦場。

 アレクシスは、その全部をくぐり抜けてきた。

 ラゴウは、そっと布を握りしめる。

 こんな傷だらけになるまで。

 ずっと、ひとりで。


 熱に浮かされたまま、王は眠っている。

 ラゴウは、清潔な布に水を含ませ、少しずつ飲ませた。

 粥を煮る。

 唇へ運ぶ。

 飲み込めない時は、喉を支えた。

 熱が上がるたび、湯の温度を調整した。

 夜も。

 昼も。

 ずっと。

 石室には、水音だけが響いていた。


 ラゴウは、毛布の端を直す。

 熱を逃がさないように。

 寒くないように。

「・・・この、馬鹿」

 小さく呟く。

「王が、自分から毒を吸うなんて」

 声は震えていた。

 怒っているのか。

 泣きそうなのか。

 自分でも分からない。

 アレクシスの手が、わずかに動く。

 熱に浮かされたまま。

 無意識に、ラゴウの腕を掴んだ。

 そのまま、自然に、ふたりの指がからまる。

 離せない。

 離れられない。

 ラゴウは、その手をそっと自分の額へ押し当てた。


第68話でした。

ついに、ナイルート川が動き始めました。

魚が逃げ、水が逆巻き、地そのものが唸る――

今回の逆流は、自然災害というより、“神話”が近づいてくる感覚で書いています。

そして、アレクシスも発病。

次回、湯治洞に“殺意”が入り込みます。

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