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第66話 嫉妬と不在

 

避難が始まっていた。

怒号。

泣き声。

荷車の軋み。

高地へ向かう列が、雨の中をゆっくりと伸びていく。

ラゴウは、その流れを見ていた。

――足りない。

ふと、違和感が走る。

視線が動く。

人混み。

兵。

避難民。

探す。

だが。

いない。

「・・・ツクヨミは?」

小さく呟く。

返事はない。

ラゴウは眉を寄せた。

いつもなら。

必要な時に、必要な場所にいる。

気づけば隣にいて。

言葉より先に動く。

それが、当たり前のようになっていた。

なのに。

今は、いない。

ラゴウは歩き出そうとする。

その腕を、後ろから掴まれた。

「どこへ」

低い声。

アレクシスだった。

ラゴウは振り返る。

「ツクヨミを探す」

アレクの表情が、一瞬だけ止まる。

本当に、一瞬だけ。

だが。

「・・・いないんだ。数日前に、薬材の補充のための薬草を探しに行かせたんだが」

ラゴウは続ける。

「まだ戻っていない。いつも絶妙なタイミングでそばにいるのに」

一拍。

「彼がそばにいないと、不安ですか」

低い声。

「え?」

思いがけず剣のある声音に、ラゴウは心なしか驚く。

「いや、そういうわけでは・・・。ただ、あいつにはすいぶん助けられているから」

ラゴウは少し笑う。

「・・・なんというか」

少しだけ目を細める。

「草原に置いてきた弟に似てるんだ」

沈黙。

アレクの目が細くなる。

「弟、ですか」

妙に静かな声だった。

ラゴウは気づかない。

「草原王とは、血が繋がっていないと聞きました」

ラゴウは肩をすくめる。

「部族が違うからな。ジョカ族から王を、ダッキ族からその配偶者を出す――そういう古いしきたりがあって」

「だから」

「わたしとカヨウは、生まれた時から許嫁だった」

アレクシスは黙っている。

その沈黙が、妙に冷たい。

が、その冷たさに、ラゴウは気づかない。

「まあ、わたしは凶星持ちだったから、早々に継承筋から外されたし、カヨウとの婚約も、その時に白紙に戻った」

沈黙。

それから。

アレクが、ぽつりと言った。

「・・・カヨウの妻に、なりたかったですか」

ラゴウは顔をしかめる。

「まさか」

即答だった。

「そもそも姉弟みたいに育ったんだ。夫婦になるなんて、考えたこともなかった」

――知っているくせに。

(・・・まったく、この男は)

ラゴウが、誰に片恋をして。

誰を追って。

誰のために異国へ嫁いだのか。

全部。

知っているくせに。

「わたしと離婚したい、と言いましたよね」

アレクシスが言う。

ラゴウが睨む。

「・・・離婚してくれないんだろう」

「するわけがない」

即答。

アレクの口元が、わずかに緩む。

だが。

次の言葉は、静かだった。

「ですが。もし、仮に、わたしと別れたら」

青灰の瞳が、真っ直ぐラゴウを見る。

「カヨウに再嫁するつもりでしたか」

ラゴウが絶句する。

「・・・アンタな」

頭を抱えたくなる。

「いったい何が聞きたいんだ」

「単なる嫉妬です」

さらりと言う。

まったく悪びれない。

「・・・カヨウは、あなたに触れましたか」

ラゴウの頬が引きつる。

「触れるって・・・獣のじゃれ合いみたいなのは、そりゃあるだろ。姉弟同然に育ったんだから」

そして。

思わず言い返す。

「アンタこそ聖女に求婚しただろ」

知っているくせに。

ラゴウにとって。

触れられることも。

抱かれることも。

口づけも。

なにもかも。

アレクシスが、はじめて、だったことを。

「・・・カナリアには、ちゃんと、振られましたよ」

「振られてもずっと好きだっただろう」

「まだ、それを言いますか」

アレクシスが笑う。

「酔狂にも、こんな辺境にまであなたを追ってきたのに」

ふい、とラゴウは顔を逸らした。

「やめだ。もういい。痴話ゲンカみたいになりそうだ」

「わたしは、続けたいですよ」

ふ、と、アレクシスはラゴウの髪に触れる。

「あなたと、痴話ゲンカ」

アレクシスは、静かにラゴウを見つめている。

「ああ、もう!ともかく先にツクヨミを探しに・・・」

ごまかすように言うラゴウの言葉を、王は遮る。

「彼の件については」

低い声。

「話さなければならないことがあります」

一拍。

「ですが」

銀の瞳が、わずかに細められる。

「・・・もう少し落ち着いてからにしましょう」


◇ ◇ ◇


人々が動き出す。

荷をまとめる者。

子を抱える者。

泣きながら名を呼ぶ者。

そのざわめきの中。

ひとりの老婆が、ゆっくりと前へ出た。

背は曲がっている。

だが、その目だけは不思議なほど澄んでいた。

深い皺の刻まれた額。

首には、古い骨飾り。

(・・・巫女か)

老婆は、王と王妃を交互に見て、ラゴウに視線を合わせた。

「王妃さま」

掠れた声だった。

「湯治洞が、ございます」

ラゴウの目が動く。

「・・・湯治洞?」

老婆は頷いた。

「山の奥です」

「岩の裂け目のさらに下」

「地下水脈へ繋がる、古い洞でございます」

周囲の村人たちが顔を上げる。

「ばあ様、あそこは・・・!」

「封じられて・・・」

老婆は静かに首を振る。

「今は、そんなことを言っている場合ではない」

その声には、不思議な力があった。

騒ぎが、少しだけ静まる。

老婆は続けた。

「湯治洞は、地の底に近い」

「大河ナイルートの支流とも繋がっておりますが、流れは逆です」

「岩盤の奥から湧く水は、表の川水とは混ざらぬ」

一拍。

「ゆえに、汚染されておりません」

ラゴウの目が細くなる。

(・・・地下水脈)

老婆は、遠くを見るように言った。

「あの水源は、昔から“地母の湯”と呼ばれておりました」

「傷ついた獣を運び込み」

「熱病の子を沈め」

「死にかけた旅人を、生き返らせる」

静かな声。

だが。

その場の誰より、確信に満ちていた。

「重病人を、そこへ」

「水が来ても、洞の上層までは届きません」

「入口を封じれば、しばらくは持つでしょう」

アレクシスが問う。

「何人入れる」

老婆は少し考える。

「詰めれば、三十」

「横になれるのは、十五ほど」

足りない。

だが。

今ある中では、最善だった。

ラゴウが息を吐く。

「・・・使おう」

即断だった。

「動けない重症者を優先する」

「湯治洞へ移送」

アレクシスが続ける。

「避難組と残留組を分ける」

「高地班はシキに従え」

人が、動き始める。

そのとき。

老婆が、ふとラゴウを見た。

深い皺の奥で、目だけが静かに揺れる。

「・・・あの場所は」

小さく言う。

「“選ばれた者”を拒みません」

ラゴウの眉が、わずかに寄る。

意味を問う前に。

老婆は、もう頭を下げていた。

風が吹く。

遠くで。

濁流のような、低い音が鳴っていた。



第66話、読んでいただきありがとうございました。

ツクヨミの“不在”と、アレクの嫉妬。

洪水前夜の不穏な空気の中で、少しだけ夫婦らしい痴話げんかを書けた気がします。

そして、現れた「湯治洞」。

神話と宿命が動き始めます。

次回もお楽しみください。

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