第65話 ともに残る
子どもが倒れた。
ひとりではない。
三人、同時だった。
広場の空気が、一瞬で変わる。
咳。
呻き。
水桶の落ちる音。
抱き上げた子どもの口から、白い泡がこぼれた。
「――っ!」
母親が叫ぶ。
ラゴウは走った。
脈を取る。
速い。浅い。熱い。
その横で、別の男が膝をついた。
吐血。
さらに奥で、老人が崩れる。
止まらない。
「水を止めろ!」
ラゴウの声が飛ぶ。
「井戸は封鎖! 煮沸以外、絶対に飲むな!」
だが。
返ってきたのは、怯えではなかった。
怒号だ。
「ふざけるな!」
男が叫ぶ。
「昨日は安全だと言ったじゃないか!」
「子どもが死にかけてるんだぞ!」
「俺たちを閉じ込めて何人死んだ!?」
「王妃だろうが何だろうが、責任を取れ!」
怨嗟が飛ぶ。
人が押し寄せる。
誰かが、ラゴウの肩へ手を伸ばした。
その瞬間。
黒い影が、間に落ちる。
「――下がれ」
低い声だった。
いつの間に現れたのか。
シキが、ラゴウの前へ立っていた。
黒衣が翻る。
細い指が、男の手首を掴む。
ぎり、と骨が鳴った。
「っ……!」
男の顔が歪む。
「シキ!民を傷つけるな!」
「次、触れたら折る」
静かな声。
だが。
人垣が、一歩止まる。
息が詰まるような圧だった。
シキは振り返らない。
ただ、わずかに肩越しに言った。
「下がっていろ」
ラゴウは動かない。
ただ、唇を噛む。
(……違う)
煮沸は間違っていなかった。
感染経路も、封鎖も。
なのに。
(月白花……)
粉末。
水。
誰かが、意図的に混ぜた。
そのとき。
子どもの泣き声が響いた。
振り向く。
少女だった。
まだ十にも満たない。
腕が赤黒く腫れている。
傷口は爛れ、膿が滲んでいた。
呼吸が浅い。
母親が泣きながら叫ぶ。
「誰か……!」
「お願い、助けて……!」
だが。
誰も近づかない。
空気が止まる。
感染を恐れて。
その沈黙を裂いたのは、地を叩く、激しい蹄の音だった。
黒馬が広場へ駆け込む。
土煙が舞う。
人垣が割れた。
漆黒の馬体が、鋭く前脚を上げる。
その勢いのまま、男が、鞍から飛び降りた。
黒い外套が翻る。
着地と同時に、王はすでに歩き出していた。
迷いがない。
銀の髪が揺れる。
アレクシスだった。
ラゴウの目が見開かれる。
「・・・なんで」
王は止まらない。
そのまま少女の前に膝をつく。
母親が息を呑む。
アレクシスは、少女の腕を取る。
腫れた傷を見る。
深い。
毒が回っている。
次の瞬間。
ラゴウが息を止めた。
「――待て!」
間に合わない。
アレクは、迷わず傷口へ口を寄せた。
膿を吸い出す。
広場が凍った。
「っ、ぅ……!」
少女が震える。
アレクは吐き出す。
もう一度。
深く。
吸う。
ラゴウが駆け寄る。
「この馬鹿!!」
腕を掴む。
「感染する!」
アレクシスは、ようやく顔を上げた。
それでも。
静かだった。
「知っている」
低い声。
それだけ。
広場が、静まり返る。
誰も声を出せない。
少女は、軽かった。
熱に浮かされた身体が、小さく震えている。
アレクは、その腕を支えたまま、ゆっくりと立ち上がる。
口元には、まだ血と膿が滲んでいる。
その瞬間。
誰かが、息を呑んだ。
「……王家の……」
視線が向く。
アレクの左腕。
濡れた外套の隙間から、黒銀の腕輪が覗いていた。
双頭獅子の紋章。
レザリア王家直系のみが身につける、王権の証。
ざわめきが走る。
「お、王……?」
「陛下……?」
少女を抱いたまま、アレクは群衆を見渡した。
逃げない。
逸らさない。
真正面から。
その視線を受け止める。
「聞け」
「王妃の処置は正しい」
低い声が、広場を裂いた。
「病は抑え込まれていた」
「再燃したのは、人為的な水源汚染だ」
ざわめき。
王は続ける。
「近いうちに、ナイルート川は逆流する」
空気が凍る。
「この土地は沈む」
「避難が必要だ」
少女を抱く腕に、わずかに力が入る。
「動ける者は丘へ」
「動けぬ者は、わたしが守る」
沈黙。
王は、群衆を見据えた。
「誰ひとり、見捨てない」
沈黙。
「指示に従え」
その言葉が、広場に落ちる。
少女が、小さく咳き込む。
アレクはその背を支える。
あまりにも自然な動作だった。
その姿を見て。
誰かが、泣いた。
「・・・ほんとうに」
かすれた声。
「見捨てないのか・・・?」
アレクシスは、その男を見る。
「民を見捨てるために、王になったわけではない」
静かだった。
だが。
その場にいた誰よりも、強かった。
広場が、ゆっくりと静まっていく。
怒号が消える。
代わりに残ったのは。
張り詰めた覚悟だった。
その横で。
ラゴウは、アレクを見ていた。
(・・・馬鹿だ)
こんなやり方。
王のすることじゃない。
命を賭けて、人を黙らせるなど。
だが。
喉の奥が、熱い。
視線を逸らせない。
「村の高地へ、一時避難を開始する」
アレクの声が、広場へ落ちる。
「すでに物資は運ばせている」
ざわめきが起こる。
「水、食料、簡易天幕、薬品。最低限の備えは整えてある」
ラゴウが目を見開く。
(・・・もう動いていたのか)
アレクは続ける。
「老人と子どもを優先しろ」
「動ける者は、互いに支え合って上がれ」
そして、銀の瞳が、黒衣を捉えた。
「シキ」
低く呼ぶ。
人垣の奥、静かに立っていた黒衣の戦士が顔を上げる。
「おまえの馬が一番速い」
アレクは言った。
「先に高地へ向かえ」
「避難民の誘導と配置を指揮しろ」
一拍。
「混乱を最小限に抑えろ」
シキは、わずかに目を細めた。
王命。
しかも。
ラゴウを守るべき自分を、この場から外す命令。
沈黙。
だが。
「・・・承知した」
短く答える。
その視線が、一瞬だけラゴウへ向く。
ラゴウは頷いた。
「行け」
シキは何も言わない。
ただ、静かに踵を返した。
黒衣が、人混みの向こうへ消えていく。
怒号と足音。
広場が慌ただしく動き始める。
その喧騒の中で。
ほんの一瞬だけ。
ラゴウとアレクの周囲に、静寂が落ちた。
ラゴウは、低く息を吐く。
「・・・アンタは」
視線を向ける。
「動ける村人と一緒に高地へ上がれ。動けない患者がいる以上、わたしは残る」
アレクは黙っている。
ラゴウは続けた。
「なんとか洪水を避ける方法を考える。残留組は、わたしがまとめる。だから――」
その先を。
アレクシスが遮る。
「あなたが残る以上」
静かな声。
「わたしも残ります」
ラゴウの眉が跳ね上がる。
「・・・馬鹿か、アンタ」
思わず吐き捨てる。
「それが王の言葉なのか」
アレクシスは、わずかに目を細めた。
「ええ」
迷いなく答える。
「王だから、残るんです」
ラゴウが息を呑む。
「最も弱い者を置いて逃げれば、王はただの飾りでしょう」
「まして」
一拍。
「あなたを置いては行けない」
ラゴウの喉が、詰まる。
怒鳴るべきだった。
無茶だと。
愚かだと。
だが。
言葉が出ない。
その代わり。
胸の奥が、ひどく熱かった。
アレクは、小さく笑う。
「そんな顔をしないでください」
「わたしは、あなたほど無茶はしません」
「・・・そんなの、信用できるか」
――感染の危険性を知った上で、患者の傷口の膿を吸い出すような無茶をした男なんて。
アレクが笑う。
ほんの少しだけ。
それだけなのに。
張り詰めていた空気が、わずかに緩んだ。
遠くで、避難を促す鐘が鳴った。
第65話ありがとうございました!
今回はかなり「王の回」でした。
アレクが“王として残る”理由を、言葉ではなく行動で描きたかった回です。
膿を吸うシーンは、理屈ではなく覚悟。
あの瞬間、村人たちは「王」を見たのだと思います。
そして、ラゴウとアレク。
互いに「逃げろ」と言いながら、結局どちらも残る。
このふたり、本当に似た者同士ですね。
洪水まで、残された時間はわずかです。




