第64話 聖女の選択
雨の音が、窓を叩いていた。
王宮離宮。
白い壁。白い寝台。
整えられた香の匂い。
静かで、清潔で――息苦しい。
カナリアは窓辺に座っていた。
腹へ、そっと手を置く。
まだ小さい。
それでも、そこにある命は確かだった。
「・・・あなたは、誰の子なの」
問いかける声は、かすれている。
答えはない。
答えを知っているのは、自分だけだった。
唇を噛む。
――浅ましくも、王の名を使った。
――狡猾にも、王の誠実さを利用した。
そして。
――王妃の場所を奪った。
守られたかった。
捨てられたくなかった。
その結果が、これだ。
扉の外で、気配が止まる。
控え目なノックの音が響く。
静かに扉が開いた。
「・・・失礼いたします」
低い声。
近衛隊の若き筆頭騎士――選抜首位のガレスだった。
鎧は外している。
だが背筋はまっすぐで、いつも通りブレのない立ち方だった。
カナリアは振り向かない。
「・・・何か、あったのですか」
ガレスは一歩入る。
扉を閉める。
そのまま、少しだけ距離を置いて立った。
「報告があります」
声が、わずかに硬い。
カナリアは気づく。
「・・・良くない報せですか」
「メフィスト宰相殿下は」
一拍。
ガレスは、言葉を選ぶように口を開いた。
「すでに王都を離れております」
沈黙。
雨の音だけが、強くなる。
「・・・どこへ」
「ダッキ族の領地です」
カナリアの指が、腹の上で止まる。
ガレスは続ける。
視線は落とさない。
だが、どこか苦い。
「・・・草原のシュイ王女と、婚約を交わされたと」
言い切った。
――わたしを置いて、逃げた。
わたしのお腹の子が自分の種だと分かっていながら。
わたしではない女と、婚約を。
部屋が、静まり返る。
カナリアは、動かない。
ただ、窓の外を見ている。
長い沈黙。
ガレスは、その背を見ていた。
あの日、聖女が倒れたときのことを思い出す。
熱に浮かされて、細い身体が崩れ落ちた。
抱き上げたとき、あまりに軽くて、息が詰まった。
守られているはずの聖女が、あまりにも脆かった。
その後、カナリアを訪ねた男はだたひとり。
宰相メフィストだ。
ふたりの話を盗み聞きするつもりはなかった。
しかし。
・・・聞いてしまった。
宰相は、こともあろうに、聖女を唆すような讒言を。
――誰の子であるべきか、分かっているな?
それでも今、聖女の背はまっすぐだった。
やがて。
「・・・そう」
カナリアが言った。
声は、驚くほど静かだった。
ガレスはわずかに眉を寄せる。
「・・・申し訳ありません」
自然と出た言葉だった。
「なにを、どうお伝えしていいか、分からず・・・」
カナリアは首を振る。
「いいの」
小さく。
「あなたが謝ることじゃない」
振り向く。
その目は、泣いていなかった。
「・・・知っていました」
ガレスの息が止まる。
「なんとなく」
カナリアは苦く笑う。
「ずっと、分かっていた気がする」
――メフィストは、わたしを愛してなどいなかった。
「彼の望みは、自分の中央集権国家を築くこと」
聖女の権威を捨てられず、アレクシスの求婚を断ったわたしに近づいたのも。
カナリアは、ゆっくりと息を吐いた。
「・・・都合が良かったから」
静かに言う。
「聖女は、国にとって“神意”そのものだから」
ガレスは黙っている。
カナリアは続けた。
「誰が王に相応しいか」
「どの戦に正当性があるか」
「どの命を救い、どの命を見捨てるか」
一拍。
「・・・全部、“聖女が選んだ”ことにできる」
ガレスの眉がわずかに動く。
カナリアは、かすかに笑った。
「便利でしょう?」
その笑みは、もう少女のものではなかった。
「わたしの言葉は、“神の言葉”になる」
「だから彼は――」
言葉を選ぶように、少しだけ間を置く。
「わたしに“選ばせた”の」
沈黙。
「この腹の子を、王の子と偽ることも」
「王妃を排除することも」
「全部、“わたしの意志”として」
ガレスの拳が、わずかに握られる。
カナリアは目を伏せた。
「わたしは、ただ――」
唇が震える。
だが、泣かない。
「“選んだつもりにされていただけ”」
雨音が強くなる。
カナリアは腹に手を当てる。
「回復魔法も同じ」
静かに続ける。
「治しているつもりだった」
「救っているつもりだった」
「でも」
顔を上げる。
その目には、はっきりとした意志があった。
「人の身体を、無理やり“正しい形”に戻す」
「それは、命を繋ぐのではなく――」
一拍。
「作り替えていただけなのかもしれない」
ガレスは息を呑む。
カナリアは言う。
「彼は、それを知っていた」
「そして、利用した」
静かな声。
「痛みを感じない兵」
「命令に従う人間」
「壊れても、また使える身体」
その言葉に、部屋の空気が冷える。
「・・・それが」
カナリアは呟く。
「彼の“国”」
カナリアは目を閉じる。
深く息を吸い、吐く。
そして開く。
その瞳には、もう迷いはなかった。
腹へ手を置く。
「・・・ごめんね」
小さく。
「わたしは、間違えた」
一拍。
「でも、もう間違えないわ」
顔を上げる。
ガレスを見る。
まっすぐに。
「わたしは、選ぶ」
辺境に向かう王妃が言った言葉を思い出す。
――決めろ。
守られたいのか。
嘘を貫くのか。
それとも、自分で立つのか。
「自分で、立つわ」
その言葉に、ガレスの背筋がわずかに伸びる。
「もう、誰かに選ばれるのを待たない」
「この子も」
腹を抱く。
「わたしが守る」
沈黙。
ガレスは、ゆっくりと膝をついた。
自然な動きだった。
騎士として。
だが、それだけではない。
「・・・承知しました」
低く言う。
「何があっても、カナリア様を、お守りいたします」
その言葉に、カナリアの胸がわずかに揺れる。
だが、涙は出なかった。
ただ、小さく頷く。
「・・・ありがとう」
ガレスは顔を上げない。
ただ、静かに頭を垂れたまま。
その姿は、誓いそのものだった。
距離を保ったまま。
決して越えない距離で。
だが、離れない距離で。
その距離が――
やがて一生をかけて守るものになることを、まだ、ガレス自身も、知らない。
第64話は、カナリアの「選択」の話でした。
これまで“選ばされてきた”彼女が、はじめて「自分で選ぶ」と決めた瞬間です。
彼女の力は、救いにもなり、支配にもなる。
その危うさを、彼女自身がようやく理解しました。
一方で、王都と辺境はそれぞれ別の方向に動き始めています。
選択は連鎖し、やがてぶつかります。
引き続き、お付き合いいただけると嬉しいです。




