第63話 大河逆流の予見
王都。
玉座の間は、異様な静けさに包まれていた。
「……どういう意味だ」
アレクの声が低く落ちる。
――王妃が、辺境から無事に戻られるとよろしいですわね。
シュイ王女は、微笑みを崩さない。
白い衣。整えられた所作。
一切の隙がない。
「草原の星読みの報告をお持ちしました」
「述べろ」
「ナイルート川が、逆流します」
空気が止まる。
「・・・逆流だと」
「80年に一度の更地の時節です。最大規模の洪水になるでしょう」
淡々とした口調で、シュイは続ける。
「支流まで遡上し、流域のすべてを呑み込みます」
「どの支流だ」
「フェルン村です」
その名が落ちた瞬間、空気が変わる。
アレクの指が、わずかに動く。
「確認は」
「済んでおります。王都の観測とも一致いたします」
老いた天文官が進み出る。
「逆流は“神の浄化”と呼ばれております」
「・・・浄化」
「一度滅ぼし、再生させる。洪水の後、肥沃な土が残るのです」
沈黙。
「ゆえに、その土地は――」
「神に選ばれし地、と」
アレクシスが呟く。
シュイは頷いた。
「ええ。80年前、大逆流はレザリアの支流で起こりました。そしてかの地に王都が置かれ、土地は富み、栄えた」
「・・・次は、フェルンなのか」
静寂。
すべてが、嫌な形で繋がる。
そのとき。
「もうひとつ」
シュイが口を開く。
「メフィスト宰相殿下が、すでに王都を離れておられるのは、存じ上げています」
ざわめき。
「・・・どこにいる」
「ダッキ族領です」
一拍。
「すでに莫大な結納金を納めていただいています。つまり――わたくしとの婚姻の契約は、成立したも同然です」
空気が凍る。
「・・・何だと」
シュイの声は穏やかだった。
「草原王の公的な親書もございます。これは単なる婚姻ではございません」
ゆっくりと続ける。
「草原王家の血統と、中央政権の権限の統合です」
「・・・!」
「メフィスト様は、王弟であると同時に、草原における正統な後継権を持つ立場に入られました」
静かに言い切る。
「陛下の外に、もう一つの“王権”が成立したということです」
沈黙。
「草原連合は三部族から成ります」
シュイは語る。
「ジョカ族、ダッキ族、フギ族」
「本来の正統な継承者はジョカ族――ラゴウ王女でした。しかし、凶星の重なりのもとに生まれたため、王位継承者として排除されたのです」
「ジョカ族にはその後も継承権を持つ者が生まれず、王位はダッキ族のカヨウへと移りました。わたくしはカヨウの従姉にあたります」
「そしてフギ族は草原王との盟約に縛られた不老長寿の一族です。草原の守護者を輩出します」
「当代のフギ族の守護者は、シキ。・・・すでにラゴウの影としてこちらに来ているはず」
一拍。
「ですが、長らく保たれてきた草原の三均衡は、今、崩れつつあります」
アレクの目が細くなる。
「カヨウは、草原を超えようとしているのです」
「草原を、超える?」
「神から選ばれし土地に、新たな国家を」
聞いていた侍従や神官たちが、息を飲む。
「その中枢が――フェルン」
完全に繋がった。
洪水。
土地。
婚姻。
王位。
すべてが“計画”になる。
アレクは立ち上がる。
「・・・新たな王権を立てる気か」
「ええ」
シュイは微笑む。
「カヨウは定住の道を探り続けていました。かつてジョカ族の歴代草原王は禁じていたことです」
「・・・メフィストと、手を組んだのか」
その一言が、刃のように落ちる。
「ダッキ族は、メフィスト様を選んだのです」
嫣然と、シュイは微笑む。
「どんなお気持ちですか」
――かつて。
あなたはわたくしを選ばなかった。
ラゴウなどわたくしの足元にも及ばなかったのに。
誰よりも美しく、誰よりも正しかったわたくしを、あなたは選ばなかった。
そのことを、後悔させてさしあげましょう。
◇ ◇ ◇
王の私室。
扉が閉まる。
雨音だけが残る。
ルシアンと静蘭だけが静かに控えている。
しばらく誰も口を開かない。
先に動いたのは静蘭だった。
「失礼いたします」
一礼し、書簡を机に置く。
「辺境からの追加報告です」
アレクは視線だけで続きを促す。
静蘭は淡々と読み上げた。
「フェルン村周辺にて、疫病の再燃。水源汚染の可能性が高い」
「さらに、現地にて近衛隊ツクヨミが王妃の一行と合流」
ルシアンがわずかに顔を上げる。
「・・・ツクヨミ」
静蘭は続ける。
「行動様式、指揮系統、戦闘能力――いずれも草原王カヨウと一致」
沈黙。
確信だった。
ルシアンが小さく息を吐く。
「・・・やはり、本人か」
アレクは何も言わない。
静蘭はさらに紙をめくる。
「加えて、白い花に関する記述あり。“粉末化され、水や薬に混入”」
一拍。
「毒性と薬効の両面を持つと推測されます」
アレクの視線が、わずかに鋭くなる。
(・・・月白花)
言葉には出さない。
だが、繋がる。
ルシアンが腕を組む。
「洪水、疫病、内通」
低く言う。
「偶然にしては出来すぎだ」
静蘭が頷く。
「はい。意図的な重畳です」
「段階的に状況を崩し、最終的に“自然災害”で収束させる」
ルシアンが目を細める。
「浄化、というわけか」
静蘭は淡々と続ける。
「その後、土地は肥沃化。人口が減少した状態で再開発が可能」
一拍。
「新都建造に最適です」
沈黙。
アレクがゆっくり口を開く。
「・・・フェルンは、単なる土地ではないな」
静蘭が答える。
「はい。“核”です」
ルシアンが続ける。
「メフィストとシュイの婚約」
一拍。
「これも単なる同盟ではない」
静蘭が頷く。
「ダッキ族の血統と中央の統治権の統合」
「すなわち、正統性の確立です」
ルシアンが言う。
「そこにフェルンの新都建造」
「逆流によって更新された土地は、軍事・農業・水運の中心となっていくでしょう」
その土地を、だれが、得るか。
静蘭が静かに補足する。
「そして、洪水による“再生”という神話的正当化」
沈黙。
すべてが一本に繋がる。
ルシアンが低く呟く。
「・・・やってることは単純だな」
「土地を消して、国を作る」
静蘭は否定しない。
「はい。ですが、その正当化が極めて強固です」
一拍。
「“神に選ばれた土地”という物語が付与される」
ルシアンが笑う。
「厄介だ。民衆が納得する」
アレクが言う。
「カヨウの意図は」
静蘭は即答する。
「遊牧の終焉です」
一拍。
「定住国家への転換」
ルシアンが続ける。
「草原を“超える”か」
静蘭が頷く。
「はい。従来の3部族の均衡――ジョカ、ダッキ、フギの三位構造を解体し、単一権力へ再編」
アレクの目が細くなる。
「フギ族はどう動く」
当代のフギの首長――あの、閉じられた視覚を持つ、黒衣の護衛。
シキ。
静蘭は一瞬だけ考える。
「盟約に従うなら、中立を維持」
「ですが――」
「ラゴウ様が関与する場合、例外が生じる可能性があるでしょう」
沈黙。
「本来、フギの長は、正統であるジョカの影。対の魂を持つ存在だと聞いています。異端のダッキ族カヨウは、本来草原を継ぐべき存在ではない。フギの守護を受ける正当な資格をもっていないのです」
ルシアンが息を吐く。
「・・・つまり」
指を折る。
「メフィストは王都の外で軍を作る」
「カヨウは現地で状況を崩す」
「シュイは正統性を持ち込む」
一拍。
「三方向から挟まれているな、完全に」
静蘭が静かに言う。
「はい。王都には、すでに敵の手が入っている。このままでは、内側から崩れます」
「フェルンに向かえば、王都が空きます」
沈黙。
選択肢は、ない。
アレクは立ち上がる。
「・・・王都を出る」
短く言う。
ルシアンが顔を上げる。
「やはり、そちらを選びますか」
アレクは続ける。
「フェルンは奪わせない」
一拍。
「黒幕は、カヨウとメフィストだ」
「メフィストはすでに草原のダッキ族領に匿われている。ならば、カヨウから潰す」
静蘭が静かに言う。
「王妃殿下も、現地に」
アレクシスは一瞬だけ目を閉じる。
すぐに開く。
「・・・ああ」
それだけ。
ルシアンが苦笑する。
「王妃の後を追いたいのでしょう」
アレクシスは無言だ。
「最初からそうおっしゃればよろしいのに」
「言う必要があるか?」
ルシアンは肩をすくめた。
「ないですけど」
一拍。
「ルシアン」
アレクシスがレザリア最高位の騎士の名を呼ぶ。
「兵権をおまえに預ける」
ルシアンが跪く。
「謹んで、お受けいたします」
「留守中、王都は任せた。好きに暴れろ」
静蘭も一歩下がる。
「情報網は維持します。動きがあれば即座に伝達を」
アレクシスは頷き、扉へ向かう。
迷いのない足取りだった。
そして、扉が閉まる。
◇ ◇ ◇
腹心はふたり残される。
ぼそり、とルシアンがつぶやく。
「やはり陛下は変わった好みの持ち主だな」
「というと?」
くすくすと、静蘭が笑う。
「シュイ王女は絶世の美女だった。それを選ばず、ラゴウ王女を娶るという選択をした王の気が知れない」
主君は、なぜあのような、面倒な女を選んだのか。
「ええ、でも」
一拍。
「だからこそ、選ばれたのでしょう」
くすりと、静蘭が笑った。
「いずれにしても。陛下は、ちゃんと、最初から、ラゴウ様を、選んでいた、ということよ」
第63話でした。
洪水の予見と、メフィストとシュイの婚姻。
そして、草原側の思惑がはっきりと見えてきました。
フェルンは偶然ではなく、“選ばれた土地”。
すべてはそこに集約されています。
敵はすでに動いている。
そして、王都もまた安全ではありません。
そんな中で、アレクは王都を離れる決断をしました。
物語が大きく動きます。




