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第61話 再燃と井戸の影

 子どもが咳き込んだ。

 ラゴウは脈を取ったまま、指先だけを動かす。

 その一瞬で。

 ツクヨミが水を運んでいた。

 背を支え、呼吸が通る角度に整える。

 ラゴウの手が伸びる前に、布が差し出される。

 濡れている。絞られている。

 ラゴウはそれを受け取り、口元を拭う。

「……水、少し」

 言い終わる前に、器が渡される。

 ほんのわずかだけ、唇に触れさせる。

 飲ませすぎない。

 吐かせない。

 ラゴウが立つ。

 同時に、ツクヨミが人を割る。

 道ができる。

 次の患者へ。

 もう、必要なものは揃っている。

 水。布。人手。

 すべて。

 ラゴウが一瞬だけ視線を上げる。

 ツクヨミと目が合う。

 それだけで十分だった。

 言葉はない。

 必要もない。

 遠くで、シキが見ていた。

 ――ふたりは幼い頃からともに育った。

 息を読めるは、当然だ。

 ただ。

 ツクヨミの視線が、蛇のようにラゴウにまとわりつく。

 草原王への定められた忠誠と従属の鎖は、重い。

 が。

 ――妙に、気に障る。

 腹の底に溜まる不快さを振り払うように、黒衣の護衛はふたりから目を逸らした。


 ◇ ◇ ◇


 熱は、落ち着いたはずだった。

 広場に、わずかな安堵が戻っていた。

 泣き声は減り、代わりに低い話し声が増えている。

 だが。

「・・・違う」

 ラゴウは、子どもの脈を取ったまま呟いた。

 軽い。

 速い。

 浅い。

「ユイ、水の量は守らせたか」

「はい、少しずつです」

「吐瀉は」

「減ってます」

 ラゴウは顔を上げる。

(落ち着いてない)

 抑え込んでいるだけだ。

 ――そのとき。

 ひとり、膝をついた。

 乾いた音。

 振り向く前に、もうひとりが崩れる。

 咳。

 深い、濡れた音。

 息を吸おうとして、吸えない。

 肩が跳ねる。

 誰かが叫びかけて、声を飲み込む。

「……っ」

 泡。

 口の端から、白いものがこぼれる。

 手が震える。

 水桶を持っていた女が、取り落とす。

 桶が転がる。

 水が広がる。

 それを踏んで、別の男が足を滑らせる。

 倒れる。

 起き上がれない。

 呼吸が乱れる。

 広場のあちこちで、同じ音が重なる。

 咳。

 呻き。

 息を探す音。

 さっきまで立っていた者が、次々と膝をつく。

 遅れて、子どもが泣き出す。

 だが、その声もすぐに途切れる。

 抱き上げた母親の腕の中で、ぐったりと沈む。

 空気が、変わった。

 さっきまでの“落ち着き”が、嘘のように剥がれていく。

 ラゴウは立ち上がる。

「――触るな!」

 声が、広場を裂いた。

「距離を取れ!」

 ツクヨミがすでに動いている。

 人を押し退け、間を作る。

 ラゴウは走る。

 崩れた男の元へ。

 脈。速い。浅い。

(・・・違う)

 昨日までとは、違う。

 進行が、早すぎる。

(なぜ容体が急変した)

「・・・感染源と経路を特定しなくては」

 低く言う。

 ツクヨミが頷いた。

 言葉はいらない。

 視線が合う。

 それだけで、理解が揃う。

 ラゴウは立ち上がる。

「患者の動きを洗い出す」

 ツクヨミがすぐに声を上げる。

「昨日から悪化した者、前に出ろ」

 混乱の中、何人かが集まる。

 ラゴウが問う。

「同じものを口にしたか」

 沈黙。

 やがて、ひとりが言った。

「・・・水だ」

「どこの水だ」

「井戸・・・」

「どの井戸だ」

 いくつかの名前が挙がる。

 ラゴウの眉が寄る。

(散らばっている)

 だが。

 ツクヨミが地面に枝で線を引く。

 村の簡易図。

 井戸の位置。

 患者の発生地点。

 ラゴウが無言で見下ろす。

(・・・繋がる)

「川だ」

 ツクヨミが言った。

「ナイルート川です」

 村人のひとりが告げる。

 その名に、ラゴウの思考は一瞬とまる。


 ――ナイルート川。

 その名は。たしか、アレクシスが命を落とすことになる戦場になった川の名。


 ナイルートは、この地を潤す大河である。

 いくつもの支流に分かれ、そのひとつがこの村へ流れ込んでいる。

「井戸は、支流と繋がってる」

 ラゴウが言う。

「水を止めろ。井戸は封鎖。飲み水は煮沸」

 ユイが駆け出す。

「はい!」

 だが。

(感染の連鎖が、早すぎる)

 広がり方が。

 人から人へ。

 空気感染のように見えたものは、すでに抑え込んでいる。

 それなのに。

「飲み水は先日から必ず煮沸させている。昨日まではそれで症状はおさまっていたのに・・・」

 ラゴウが低く言う。

「新たな何かが、水に混入したのかも」

 疲労の見えはじめた顔に、苦悶の表情がにじんだ。


 ◇ ◇ ◇


 夜が落ちた。

 闇の中、井戸の縁に、影が動く。

 白い粉が、静かに撒かれていた。

 音はない。

 手際だけが、やけに慣れている。

 その背後。

 風もなく、影が落ちる。


 次の瞬間。

 男の腕がねじり上げられた。

 骨が鳴る。

 声を上げる暇もない。

 地面に叩きつけられる。

「……っ!」

 シキだった。

 その動きに遅れて、もう一人の影が滑る。

 ツクヨミ。

 逃げようとした別の男の喉元に、短刀が当てられる。

 一瞬。

 刃が、ほんのわずかに沈む。

(――ここで終わらせる)

 その気配を。

 シキが止めた。

「殺すな」

 低い声。

 ツクヨミの手が止まる。

「・・・なんで?」

 軽い声。

 だが、刃はまだ外れない。

「証拠が消える」

 シキは淡々と言った。

「黒幕を吐かせてからだ」

 一拍。

 ツクヨミの口元が、わずかに歪む。

「・・・まあ、たしかにね」

 刃が引かれた。

「・・・カヨウ」

 シキが低く、男の本当の名を呼ぶ。

「殺り損なった、という顔をしているな」

 ツクヨミは、口元を歪めた。

「あいかわらず、余計なものがよく見えるね、オマエ」

「草原王がこの件に関わっているのか」

「別に。ただ――ラゴウの仕事の邪魔になるなら、殺しちゃってもいいかなって思ってさ」

「・・・殺すのは、後だ」

「そう簡単に口を割るかな?」

「割るさ」

 シキは、抵抗しようとした男の片腕をつかみ、そのまま地面に押さえつけた。

「草原随一の拷問官がここにいる」

「・・・なんだって?」

 男に縄がかかる。

 動けない。

 逃げられない。

「ユイ」

 シキが侍女の名を呼ぶ。

「はぁい」

 甘ったるい声が落ちる。

「好きにしていいぞ」

 その声音の意味するところを理解して――ユイの目が、かっと輝いた。


第61話までお読みいただき、ありがとうございます。


いったん落ち着いたかに見えた状況は、再び崩れました。

原因は偶然ではなく、明確な“意図”があるものへと変わりつつあります。


そして、ラゴウとツクヨミ。

言葉を交わさずとも通じるふたりの関係も、少しずつ輪郭を見せ始めました。


井戸に落とされた白い粉。

夜の影。

捕らえられた男。

すべてが、ひとつに繋がり始めています。

次回、地下でその名が明かされます。

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