第58話 キスのあとの戦場
北方辺境へ続く街道。
昼前だというのに、風は冷たかった。
山から吹き下ろす乾いた風が、砂と土を巻き上げていく。
街道脇では、逃げてきた村人たちがうずくまり、簡易の天幕がいくつも張られていた。
泣く子ども。
咳き込む老人。
傷ついた男。
その中央で、ラゴウは膝をついていた。
「じっとしてろ」
男の腕に巻かれた布を外し、新しい包帯をきつく締め直す。
裂傷は深いが、縫うほどではない。
「次」
休む間もなく立ち上がる。
泥に汚れた外套。
髪はひとつに束ねられ、頬には乾いた血がついていた。
その場にいる誰も、その女が王妃だとは思わない。
そこへ、馬のいななきと共に駆け込んでくる影があった。
シキ。
そして。
「姫様ぁーっ!」
ユイだった。
ラゴウは振り向きもせず、手当てしていた男の腕を縛り直す。
「荷台の左奥、青い印の箱を出せ。止血草と乾燥布が入っている」
「え、あ、はい!」
「布は細く裂け。汚れたものと分けろ」
ユイは慌てて荷台へ駆け戻る。
「それと、水樽は三つに分けろ。飲み水、薬用、洗浄用だ。混ぜるな」
「は、はいっ!」
「鍋は火にかけ続けろ。湯が切れたら終わる」
「わ、分かりました!」
「薬包は数えて並べろ。吐き気止め、熱冷まし、腹下し用で列を分ける。字が読めない者にも分かるよう印を置け」
「そんな余裕・・・」
「作れ」
短い一言だった。
ユイは息を呑み、それから背筋を伸ばした。
「・・・はい!」
侍女の顔が消える。
代わりに、働く者の顔になった。
ラゴウはようやく一瞬だけ振り返る。
「よく来た。疲れてるだろうが、今は手を動かせ」
「……っ、はい、姫様!」
ユイは荷馬車へ飛び乗った。
その様子を見ていた村人たちが、思わず道を開ける。
ラゴウは次の患者へ向き直る。
「次、連れてこい」
せっせと手を動かしながら、ユイが言う。
「なんだか・・・気力充実してますね?」
何かを期待するように、侍女の目がキラキラしている。
ラゴウは包帯を噛み切りながら眉を寄せた。
「なに?」
「いえ、その・・・数日前までの姫様、こう……世界の終わりみたいな顔してたのに、今日はなんか、顔色いいです」
「・・・気のせいだ」
――あなたが、好きです。
まさか追ってくるとは思っていなかった男の、唐突な告白が、脳裏に反芻する。
激しい口づけの余韻に、ラゴウの体温が上がる。
(患者に集中しろ!)
自分に言い聞かせる。
その後ろから、黒衣の男がゆっくりと歩いてくる。
シキだった。
両目を隠す眼帯。
風に揺れる黒衣。
いつもの無表情で、まず赤焔の脚元を見た。
「・・・追ってきたのか」
――そして、追いついた。
低い声。
ラゴウが顔をしかめる。
「何が」
「レザリア王だ」
シキは赤焔の鼻先を軽く撫でる。
「こいつに追いつくには、相当の騎馬の力が必要だ。地理も、風向きも、近道も、緻密に計算して走ったはずだ」
シキは赤焔の蹄跡を見下ろし、鼻で笑った。
「草原の軍馬に平地で食らいつくなど、並の騎手には無理だ」
一拍。
「やつは馬を力で抑えつけもせず、呼吸で乗る。馬の気を読み、地の起伏まで使って走らせることができたから、お前に追いついたんだろう」
――これほど厄介な男だったか。
声には出さず、思う。
(さて)
「どう、追い払うか」
ぼそり、と護衛はつぶやく。
ユイの目が、かっと輝いた。
「ええっ!?それで!?陛下と会ったんですか!?」
「うるさい」
「どうなったんですか!?泣いて謝ってきました!?抱きしめられました!?愛の告白とか!?」
「黙れと言ってるだろ!」
ラゴウが怒鳴る。
だが耳だけ、うっすら赤い。
シキがすっと手を伸ばし、ラゴウの顎を持ち上げる。
「なんだよ?」
「・・・心残りは、叶ったか」
値踏みするような静かな空気。
ラゴウはその手を面倒くさそうに払いのけた。
「何の話だ」
「一度くらい寝ておけばよかった――だったか?」
「邪推するな!!」
「寝たのか」
「キスしただけだ!」
一瞬、風が止んだ。
しまった、とラゴウは口を押さえる。
ユイが飛びつく勢いで叫びだす。
「きゃああああ!!キス!?キス!?陛下と!?」
「連呼するな!」
シキは、ほんのわずかに口角を上げた。
「・・・ほお」
その声は妙に低かった。
「薬材の運搬を押しつけ、おれの目をかいくぐって、そんなことに興じるヒマがあったとは」
嫌味が、痛い。
「懲りないな。王も、おまえも」
「なんでも見えるんじゃなかったのかよ」
「見ようと思わなければ、見えない」
――見たくなかったのだ。
王に抱かれる草原の王女を。
安堵の中で口づけを交わすこいつの姿を。
そしてそこに獣じみた殺意と焦燥を感じる自分自身を。
「意味が分からん」
「分からなくていい」
ユイはまだ興奮している。
「ど、どっちからです!?陛下から!?深かったですか!?長かったですか!?」
「おまえは薬材を下ろせ!」
ラゴウの怒声が街道に響いた。
そのときだった。
天幕の向こうから、呻き声が上がる。
「・・・助けてくれ」
一人の男が、血の気のない顔で倒れ込んできた。
衣服は泥だらけ。
肩には子どもを抱えている。
「村が・・・封じられた」
その場の空気が変わる。
ラゴウの表情から、熱が消えた。
「感染した者は皆、隔離されて、中に・・・」
男は咳き込み、震える指で北を指した。
「水を飲んだ者から・・・倒れていく・・・」
ラゴウは立ち上がる。
「赤焔」
愛馬が鼻を鳴らす。
「行くぞ」
あとがき
第58話でした。
キスの余韻に浸る間もなく、ラゴウは辺境の戦場へ突入です。
王宮では居場所を失いかけた王妃が、ここでは誰より必要とされる。
この対比を書きたかった回でもあります。
ユイは今日も元気です。
シキは今日も面倒くさいです。
そしてラゴウは休む気がありません。
次話から、封鎖された村で本格的な疫病対応が始まります。
命を救う現場で、ラゴウが何を選ぶのか。ぜひ見届けてください。




