第57話 王の豹変
王の執務室。
夜が明けても、灯りは落ちなかった。
机上には山のような書状があった。
各国使節からの抗議。
神殿からの要求。
草原との再交渉案。
王妃不在に伴う継承問題。
そして、宰相府からの通常決裁書類。
アレクシスは、一枚ずつ目を通していた。
顔色ひとつ変えず。
感情ひとつ見せず。
ただ、静かに。
「次」
その一言に、廷臣たちの背筋が震えた。
いつもの王ではない。
誰もが、それを悟っていた。
◇ ◇ ◇
最初に呼び出されたのは、祝宴の席で王妃廃后を口にした老貴族だった。
「陛下、あれは王国の安定を思っての進言で――」
「黙れ」
低い声だった。
老貴族の喉が止まる。
アレクシスは書状を机へ置く。
「昨年の徴税記録。北部領より銀貨八千枚が消えている」
「……な」
「加えて軍馬二十頭の架空計上」
静かな視線が突き刺さる。
「王統を案じる前に、自領を案じろ」
「へ、陛下・・・!」
「領地没収。爵位返上。身柄は拘束せよ」
衛兵が動く。
悲鳴のような声が上がったが、誰も助けなかった。
「次」
次に呼び出されたのは、神殿側の司祭たちだった。
白衣に金糸の刺繍。
普段なら王の前でも威厳を崩さぬ男たちが、この日はどこか落ち着かない。
祝宴の夜以来、王都には噂が渦巻いていた。
聖女懐妊。
王の御子。
神殿と王家の新たな結びつき。
その噂を追い風に、一部の司祭たちはすでに動き始めていた。
聖女は出産まで神殿で保護すべきだ。
御子は神意の証として育てるべきだ。
王家と神殿の共同管理とすべきだ。
裏にある本音は明白だった。
――聖女とその子を、権威の象徴にすること。
王座の前へ進み出た司祭長が、深く一礼する。
「本日は、聖女様の今後につきまして、神殿としてもご相談を――」
「その前に、誤りを正す」
アレクシスの声が、広間に落ちた。
誰も動けない。
王は一人ひとりを見渡し、はっきりと言った。
「聖女カナリアの腹の子の父親は、わたしではない」
息を呑む音が広がる。
司祭たちの顔色が変わった。
祝宴の夜から積み上げてきた計算が、一言で崩れたのだ。
だが王は続ける。
「だが、そのことをもって聖女を断罪させる気も、辱める気もない」
一拍。
「カナリアは長年、この国のために尽くしてきた」
「疫病の村へ赴き、戦で傷ついた兵を癒し、飢えた民に施しを行った」
「その献身と功績は、誰の子を宿したかで失われるものではない」
司祭たちは押し黙る。
王の声は冷たく、揺るがなかった。
「ゆえに、聖女カナリアは王家預かりとする」
ざわめきが走る。
「お待ちください、陛下!」
司祭長が一歩進み出た。
「聖女は神殿に属する御身。代々その管理と保護は我らの務めにございます」
「懐妊されている今こそ、神域で清浄に――」
「違う」
その一言で、空気が凍る。
アレクシスは玉座から司祭たちを見下ろした。
「女ひとりを都合よく祭り上げた」
「奇跡の象徴と呼びながら、自由も選択も与えず」
「今度は腹の子まで利用しようとした」
司祭長の喉が鳴る。
「それは誤解にございます。我らはただ信仰の安寧を――」
「ならば問う」
王の声がさらに低くなる。
「彼女が何を望み、何を恐れ、どう生きたいか」
「そなたらは一度でも聞いたか」
沈黙。
誰も答えられない。
アレクシスは静かに告げた。
「神殿会計を監査する」
広間にどよめきが走る。
「寄進金の流れ、聖女名義の献納、巡礼税、すべて洗え」
「陛下! それでは信仰への冒涜です!」
「信仰を穢したのは、そちらだ」
王は立ち上がる。
「民の祈りで肥え、弱き者の名で権威を飾る者に、神を語る資格はない」
司祭たちは、誰ひとり顔を上げられなかった。
底冷えするような王の声が落ちる。
「次」
◇ ◇ ◇
昼を過ぎた頃だった。
朝から途切れなく続いていた報告の列が、ふいに乱れる。
執務室の扉が荒く開き、ルシアンが青ざめた顔で進み出た。
「・・・ご報告申し上げます」
肩で息をしている。
ここまで走ってきたのだろう。
「宰相府所属の監査官三名が、先ほど西門より逃亡を図りました」
室内の空気が張りつめる。
アレクシスは書類から目を上げた。
「捕らえろ」
一切の迷いもなく、即答だった。
「文書庫は」
「すでに近衛が封鎖しております」
「焼かれる前に、帳簿・通達・印章記録、すべて押収しろ」
「はっ」
ルシアンは返答しながらも、どこか信じられぬような表情をしていた。
「陛下・・・まさか」
アレクシスは机上の一冊を掴み、そのまま投げ渡した。
分厚い会計帳簿だった。
古びた革表紙。
だが中身には、あまりにも整いすぎた数字が並んでいる。
ルシアンが頁をめくる。
地方領主、失脚。
地方領主、財産没収。
地方領主、爵位返上。
理由はいずれも同じだった。
穀倉金の不足。
徴税記録の齟齬。
公共工事費の不正流用。
だが。
「・・・同じ筆跡」
ルシアンの声が掠れた。
報告書末尾の監査確認欄。
そこに並ぶ署名は、すべて同じ癖を持っていた。
はね方。
払い方。
数字の書き順。
別人を装っていても、見慣れれば分かる。
王が静かに告げる。
「七年分ある」
さらに頁をめくる。
地方ごとに、中央への反対意見を出した領主。
徴兵増強を拒んだ者。
税制一元化に異を唱えた者。
神殿との距離を保とうとした者。
そうした者たちが、時を置かず“監査対象”となっていた。
そして失脚。
領地は分割され、中央派の官僚が送り込まれる。
徴税権は王都へ。
兵権も召し上げ。
改革。
誰もがそう呼んでいた。
効率化。
近代化。
腐敗一掃。
だが実態は違った。
「・・・冤罪」
ルシアンが呟く。
「そうだ」
アレクシスの声は低く、冷えていた。
「不正を捏造し、逆らう者だけを潰していた」
沈黙。
王は帳簿へ視線を落としたまま、しばらく動かなかった。
「・・・信じていた」
誰へともなく、低く落ちる声。
「たったひとりの弟だ」
ルシアンが息を呑む。
「彼と思想が異なることは、分かっていた」
秩序を重んじる弟。
人を守ろうとする兄。
何度もぶつかった。
何度も言い争った。
それでも。
「協力し合えると、信じていた」
王国のために。
違うやり方でも、同じ未来を見ていると。
アレクシスはゆっくりと帳簿を閉じる。
「・・・わたしが見ていたのは、弟ではなく」
その声は、ひどく静かだった。
「弟であってほしいと願った、都合のいい幻想か」
誰も答えられない。
長い沈黙。
やがて王は立ち上がる。
窓の外、王都の空には薄い雲が流れていた。
「民のための改革ではなかった」
青灰の瞳に、もう迷いはない。
「支配のための改革だ」
その言葉は、誰に向けた怒声でもなかった。
だが、室内の誰もが震えた。
「・・・メフィストは、どこだ」
初めて、その声に怒気が滲んだ。
ルシアンが膝をつく。
「宰相閣下は、今朝より政務塔にもおられず・・・護衛の一部も所在不明にございます」
「馬車は」
「北門側の厩舎で一台欠けております」
「供回りは」
「宰相府私兵と思しき者が十数名」
アレクシスの瞳が細まる。
逃げた。
それも、準備の上で。
そして。
おそらくは、わが子を宿した聖女を王都に置き去りにして。
監査が及ぶ前に。
王が動く前に。
すでに手を打っていたのだ。
「探せ」
短く命じる。
「王都全門を閉鎖。出入りする荷車、商隊、巡礼団、すべて改めろ」
「はっ!」
「街道ごとに騎兵を出せ。北・西・河港も封じろ」
近衛たちが一斉に走り出す。
王は玉座の前に立ったまま、低く言った。
「兄としては、もう遅い」
一拍。
「だが王としては、まだ間に合う」
その声音は、氷のように冷たかった。
「王国に、王は二人いらぬ」
近衛たちが走り去り、執務室に重い沈黙だけが残る。
ルシアンは膝をついたまま、背に冷たい汗が流れるのを感じていた。
近衛隊長として、誰より長く主君を見てきた。
公正で。
理知的で。
怒りより理を選び、剣より言葉で治める王。
それが、アレクシスだった。
だが今、玉座の前に立つ男は違う。
静かで。
冷たく。
容赦がない。
王冠を戴く獣。
(・・・どちらが、本当の陛下なのだ)
――王妃を失いかけたからなのか。
(・・・いや)
ルシアンは息を呑む。
違う。
変わったのではない。
最初から、この貌も持っていたのだ。
ただ、誰にも見せていなかっただけで。
第57話「王の豹変」でした。
これまで理知的で穏やかだったアレクシスが、ついに別の顔を見せ始めました。
ラゴウを失いかけたこと。
そして弟メフィストの裏切り。
その二つが、王を本気で動かします。
優しい王でいるだけでは、守れないものがある。
今回の話は、そんな転換点でした。
次回は王都の動きと、辺境へ向かったラゴウ側がさらに進んでいきます。
ここから物語が大きく加速します。
いつも読んでくださり、ありがとうございます。




