第55話 逃がさない
夜明け前の王都には、まだ鐘も鳴っていなかった。
東の空が、ようやく薄く白みはじめる。
人々の眠りと共に、昨日の祝宴の喧騒だけが街に置き去りにされていた。
王宮の裏門には、数人の護衛と、旅装の侍女ユイ。
そして、鞍を置かれた一頭の馬――ラゴウの愛馬、赤焔。
炎を流したような赤毛が、朝靄の中でゆらめいている。
鼻息は白く、蹄はじっと石畳を打っていた。
主の気配を、とうに察していたのだろう。
ラゴウは歩み寄る。
「・・・一緒に、行ってくれるか」
額に触れると、赤焔は低く鼻を鳴らし、その頬へ顔を擦り寄せた。
――何が起こるか分からない。用心しろ。
ルシアンには、ひそかに聖女に護衛をつけるよう忠告しておいた。
王の子を宿したとみなされた女が、危険にさらされないとも限らない。
体調の管理は異民街の薬房の静蘭に、そして聖女の護衛はガレスに。
各国は事実上空位となる王妃の座を巡り、水面下で動き始めるだろう。
そして自分が、生きて戻れる保証などない。
運よく伝染病が収まり、生き延びたとしても――
そのまま姿を消した方がいいのかもしれない。
「姫様……本当に、陛下に黙って行くんですか」
ユイの目は赤かった。
昨夜からずっと泣いていたのだろう。
ユイには、王都に残れ、と伝えた。もしくは、使者とともに草原に戻ってもいいと。
伝染病の実態も不明だ。
しかし、侍女は頑として首をたてに振らず、ラゴウと共に辺境に向かうと決めた。
ツクヨミは後日合流することになっている。
ラゴウは赤焔の手綱を取ったまま、振り返らず答えた。
「密命だ」
短い返事だった。
王妃として、何ひとつ残せなかった。
子もなく、祝福もなく、国に益もない。
せめて最後くらい、役に立ちたい。
今回の派兵は、近衛隊の一員としてではない。
密命とはいえ、正式に、王妃として、辺境慰問の行幸という形をとっている。
表向きは、王妃自ら疫病に苦しむ民を見舞う慈行だ。
今となっては。
王の妻として果たせる、最初で最後の務めだ。
「でも、こんな形で・・・!陛下だって、本当は――」
「ユイ」
その一言で、侍女は口を閉ざした。
ラゴウは少しだけ笑う。
「分かってる」
分かっている。
あの男が否定できなかった理由も。
あの場で守るべきものが何だったかも。
全部、分かっている。
分かったうえで、ここにいる。
「だから、行くんだ」
これでいい。
王と聖女が結ばれる。
・・・そう望んでいたはずだ。
そう思えば、少しは楽になるはずだった。
「戻らない気か」
背後から落ちた声に、ラゴウは振り向かない。
唐突に現れるのは、いつものことだ。
後ろで気配がした。
黒衣。
黒い眼帯。
朝靄の中に溶けるように、シキが立っていた。
「・・・あーあ」
ラゴウは赤焔のたてがみを撫でる。
軽い口調を装う。
「どうせ、別れることになるなら」
空を見上げる。
そして、もう二度と、会えないのなら。
あいつの銀髪に、もっと触れておけばよかった。
あいつの青灰の瞳を、もっと見つめておけばよかった。
「・・・一度くらい、寝とけばよかったな」
シキが、深く息を吐く。
「どこまでも、馬鹿なやつだな、おまえは」
「そうかもな」
ラゴウは鐙に足をかける。
一息で、馬上へ跳んだ。
三ヶ月ぶりとは思えぬほど自然に、身体がそこへ収まる。
王妃の椅子より、よほどしっくりきた。
「わたしは先に行く。おまえたちは、ツクヨミと合流し、薬材を仕入れてから来い」
「でも」
泣きそうな顔で、ユイが言いかける。
が、ラゴウはきっぱりと遮る。
「感染が拡大する前に、一刻も早く現地に入りたい」
赤焔が嬉しげに前脚を鳴らす。
「行くぞ」
風が吹いた。
王宮の旗が、かすかに揺れる。
◇ ◇ ◇
王妃宮は、静かだった。
朝の光が、白い窓辺に差している。
いつもなら侍女たちの足音や、湯を運ぶ気配がある時間だ。
だが今日は、妙に音が少ない。
アレクシスは、無言のまま廊下を進んだ。
その歩調に、後ろを従うルシアンも、異民街から呼び寄せられていた静蘭も、口を開けない。
扉の前で、王は止まる。
扉を、静かに開く。
冷えた空気が流れ出る。
アレクシスは一歩、踏み込んだ。
沈黙。
そこには、何もなかった。
寝台は整えられている。
乱れひとつない。
布も、枕も、きちんと整えられ、昨夜誰かが眠った痕跡すら薄い。
卓上の茶器は片づけられ、花瓶の花だけが水を吸っている。
衣装棚は、半分ほど空だった。
旅装に必要なものだけを持ち出したのだと、すぐに分かった。
窓辺に置かれた小鉢には、乾きかけた薬草。
壁際には、折れた木剣。
「・・・いつだ」
低い声だった。
ルシアンが膝をつく。
「侍従たちの話によると、夜明け前に発たれたと」
――また、遅れたのか。
シキが言ったように。
また、間に合わなかった。
アレクシスの拳が、壁へ叩き込まれた。
鈍い音。
石壁に血が滲む。
――いや。
「・・・間に合わせる」
「陛下?」
揺るぎない声だった。
「馬を!」
第55話「逃がさない」を読んでくださり、ありがとうございます。
ついにラゴウが王都を去りました。
自分にできる最後の務めを果たすために。
そして、ようやくアレクシスが動きます。
次回、第56話。
王は追いかけます。
そして、ようやく本音を口にします。
続きも見届けていただけたら嬉しいです。




