第52話 嘘の行方と王妃の涙
腹の子の、父親は――陛下でございます。
その一言が落ちた瞬間、広間から音が消えた。
杯を取り落とした音だけが、やけに大きく響く。
誰かが立ち上がり、椅子が軋む。
息を呑む気配が幾重にも重なった。
王侯貴族たちの視線。
神殿の司祭たちの視線。
草原の使者たちの視線。
すべてが、玉座の前へ突き刺さる。
アレクシスは動かなかった。
その表情は、凍りついたように固く冷たい。
だが、胸の内では幾つもの計算が駆け巡っていた。
否定はできる。
今すぐにでも。
だが、その一言で潰れる命が二つある。
聖女カナリア。
その腹の子。
未婚懐妊の聖女。
父を持たぬ子。
神殿は彼女を切り捨てるだろう。
貴族は面白半分に叩くだろう。
そして王家は、女ひとりを晒し者にしたと記憶される。
さらに今この場は、跡継ぎ問題の渦中だ。
ここで否定すれば、王統不安は再び燃え上がる。
草原との婚姻も、王権も、すべてが揺らぐ。
(・・・八方ふさがりだ)
アレクの喉は、凍りついたままだった。
「それは……真実でございますか」
大司教が静かに問うた。
カナリアは唇を噛みしめ、うなずく。
「はい・・・」
その肩は小刻みに震えている。
顔色は青白く、今にも倒れそうだった。
ラゴウは、その様子を見ていた。
嘘だ、とすぐに分かった。
だが同時に、なぜそうしたかも分かった。
追い詰められたのだ。
この場で。
この国で。
この腹の子ごと。
(・・・なぜ)
胸の奥に鈍い痛みが走る。
あれほど、アレクシスに大切に想われていながら。
なぜ、ほかの男の子など。
聖女も彼を想っていると、そう信じていたのに。
そして、アレクシスを見る。
否定しない。
いや――できないのだ。
あの男はそういう男だ。
弱い者を切れない。
子を見捨てない。
自分の傷より、他人の傷を先に拾う。
だからこそ、腹が立つ。
だからこそ――ラゴウは彼に恋をした。
「陛下」
老貴族の一人が身を乗り出した。
「まこと、慶事にございますな。これで王統も安泰――」
「黙れ」
アレクの声は低かった。
広間が再び凍る。
王はゆっくりと立ち上がった。
そのまま階を降り、カナリアの前まで歩く。
カナリアは顔を上げ、縋るような目で見た。
アレクは一瞬だけ目を閉じる。
そして、外套を脱いだ。
震えるカナリアの肩へ、それを掛ける。
「聖女を下がらせろ」
静かな声だった。
「医師を呼べ。今すぐに」
誰も動けない。
「聞こえなかったか」
その一言で、侍従たちが跳ねるように動き出した。
カナリアは泣き崩れそうな顔で、外套を握りしめた。
ざわめきが、一気に広間を満たした。
「やはり……」
「王の御子か」
「ならば跡継ぎ問題は――」
「王妃は……」
言葉が飛び交う。
ラゴウは、そこで小さく笑った。
乾いた笑みだった。
(・・・やはり、そうするか)
王として正しい。
女と子を守る。
国の火種も消す。
完璧だ。
完璧すぎて、反吐が出る。
自分の立つ場所が、きれいに消えたことまで含めて。
草原の使者が立ち上がる。
「これはどういうことです、レザリア王」
別の貴族も叫ぶ。
「説明を!」
「王家の正式な見解を!」
怒号が広間を満たし始める。
アレクは振り返った。
その視線が、一瞬だけラゴウを探す。
金の瞳と、青い瞳が交わる。
何かを言いかけて、アレクは止まった。
ラゴウは微笑んだ。
王妃として、完璧な笑みだった。
そして優雅に一礼する。
「おめでとうございます、陛下」
広間のざわめきがさらに大きくなる。
アレクの顔色が変わった。
「待て――」
王の制止の声は届かない。
ラゴウは踵を返す。
衣の裾だけを揺らし、誰よりも美しく。
誰よりも遠く。
その背を追おうとして、アレクシスの腕を老臣が掴む。
「陛下、今はご説明を!」
神殿側の司祭が詰め寄る。
「聖女様の御身をどうなさるおつもりか!」
草原の使者も声を荒げる。
「我らへの侮辱と受け取りますぞ!」
王は一歩も動けなかった。
視線の先で、扉が閉まる。
ラゴウの姿が消える。
その瞬間、アレクシスは悟った。
国を守るために選んだ沈黙で、本当に守りたかった、ただひとりの女を失ったのだと。
◇ ◇ ◇
扉が閉まる。
(・・・ああ)
理解してしまう。
あの男は。
全部、背負うつもりだ。
嘘も。
責任も。
混乱も。
この場で否定して、カナリアを断罪の矢面に立たせることはしない。
そういう男だ。
誠実で。
愚かで。
優しくて。
残酷なほどに。
(・・・だから、だめなんだよ)
喉が、ひどく痛い。
視界が揺れる。
頬を、何かが伝った。
はっとして指で触れる。
濡れていた。
涙だった。
「・・・!」
こんな場所で。
こんなことで。
泣くなんて。
最悪だ。
思わず、両手で顔を覆う。
誰にも見られぬように。
誰にも知られぬように。
回廊へ出る。
冷たい夜気が頬を打つ。
「……っ」
喉が、震える。
止まらない。
ぽたり、と。
床に、落ちる。
一滴。
続く。
もう一滴。
「・・・は」
笑う。
声にならない。
「・・・なんだ、これ」
涙が。
勝手に。
溢れる。
拭う。
何度も。
それでも。
止まらない。
「・・・どうして・・・」
吐き捨てる。
震える声で。
分からない。
分かっている。
どっちでもいい。
ただ。
ひとつだけ。
はっきりしている。
(・・・離れる)
ここから。
あの男から。
完全に。
――でないと。
壊れる。
自分が。
全部。
第52話までお読みいただき、ありがとうございます。
ついに、カナリアの嘘が広間に落ちました。
この一言で、王家、神殿、草原との同盟、そしてアレクとラゴウの関係まで、一気に揺れ始めます。
今回描きたかったのは、誰か一人が悪いだけではない状況です。
カナリアには追い詰められた理由がある。
アレクは否定すれば守れない命がある。
そしてラゴウは、アレクシスがなぜ沈黙したのか分かってしまう。
だからこそ、傷つく。
優しくて、誠実で、弱い者を見捨てられない。
そんなアレクの長所が、この場面ではラゴウを失う原因になりました。
後半のラゴウの涙は、この章でも大切な場面です。
強く生きてきた彼女が、誰にも見せずに泣く。
そこまで追い詰められてしまった、という回でもあります。
ここからラゴウは王都を離れ、物語は大きく動きます。
アレクもまた、失ってから本当の意味で気づいていきます。
続きも見届けていただけたら嬉しいです。




