第53話 ラゴウはわたしの女だ
「・・・ラゴウ」
低い声。
背後から。
振り向かない。
振り向けない。
「シキ」
絞り出す。
「なんで・・・涙が、とまらない」
沈黙。
「・・・まったく、どうしようもない」
シキの骨ばった長い指が、後ろからラゴウの瞳を覆った。
「そんな顔を、見せるな」
ふ、と。
意識が途切れた。
シキの腕が倒れるラゴウの身体を受け止める。
そのまま、深い闇の底へ、落ちた。
◇ ◇ ◇
それから、数日。
王の執務室には、まだ灯りが落ちていなかった。
夜明け前だというのに、机上には未決裁の書状が積まれている。
神殿からの抗議。
各国使節への返答。
草原との再交渉案。
聖女保護に関する進言。
そして――王妃廃后を匂わせる、貴族たちの探り。
アレクシスは、ひとつずつ処理していた。
顔色ひとつ変えず。
声も荒げず。
ただ、容赦なく。
「この家は減封だ」
「こちらの発言は記録しておけ」
「神殿への回答は保留。先に財務監査を入れる」
淡々と。
正確に。
誰の目にも、揺るぎない王だった。
だが。
最後の廷臣が退出し、扉が閉まった瞬間。
沈黙。
アレクシスの指が、止まる。
机の端。
そこには、小さな紙片が置かれていた。
――本日も、王妃殿下はお戻りではありません。
何度目か分からない報告だった。
視線が、その一文に落ちたまま動かない。
「・・・どこにいる」
誰へともなく、低く漏れる。
王宮内は探させた。
訓練場。
馬場。
薬房。
離れの棟。
異民街にまで人を出した。
だが、捕まらない。
避けられている。
それを認めたくなくて、何度も別の理由を探した。
忙しいのだと。
怒っているだけだと。
時間を置けば戻るのだと。
だが。
あの女は、一度決めたら動かない。
知っている。
誰よりも。
アレクシスは、椅子にもたれ、ゆっくり目を閉じた。
祝宴の夜。
凍りついた広間。
ラゴウの顔。
あれほど傷ついた目を、見たことがなかった。
「・・・違う」
否定したかった。
あの場で。
すぐに。
だが王として、沈黙を選んだ。
その一瞬で。
(・・・わたしは、あの女に、見限られたのか)
拳が、きしむほど強く握られる。
空いた数刻をこじ開けるようにして、アレクシスは王妃宮へ足を運んだ。
だが。
「戻っておりません」
侍女は頭を下げる。
二度目も。
三度目も。
答えは同じだった。
四日目の夜。
ようやく掴んだ気配を追って辿り着いた先は、人気のない離れの棟だった。
扉の前に、黒衣の男が立っている。
「・・・ラゴウは」
「知らんな」
「どこに隠した」
「教えてやる筋合いはない」
はっきりと。
感情の読めないこの男の、こんな声音を、アレクシスは初めて聞いた気がした。
明確な敵意であり、殺意にも近い。
「・・・阻む気か」
「言ったはずだ」
静かに。
だが、鋭く。
「壊したら、許さないと」
シキ。
気配が、鋭い。
「おまえがラゴウを壊すのは、二度目だ」
アレクシスの表情が、凍りつく。
沈黙。
「どんな気分だ?おまえに傷つけられ、無視されてきた女が、自分を見失うほどに壊れていく様子を見るのは」
「黙れ!」
空気が、張り詰める。
「おまえは、またもラゴウを捨てたのだ」
「・・・ちがう!」
「もう二度と、触れさせぬ」
王の手。
王の口づけ。
王の痕。
思い出すたび、胸の奥に獣じみた熱が走った。
それは草原王カヨウの命ではない。
カヨウへの定められた忠誠のためではない。
とうの昔に、忘れ果て、枯れ果てたはずの感情。
もっと浅ましく、もっと個人的な衝動。
名を与えるには、あまりに醜く――
だが、あまりに強い感情だった。
アレクシスは、低く、絞り出すように、言う。
「ラゴウを手放す気はない」
一拍。
「カナリアを妃に迎える気もない」
空気が、揺れる。
「聖女を庇護する。しかし、それだけだ」
淡々と。
「この状況でカナリアの発言を否定すれば、疑念を招くだけだった」
視線が、動かない。
そして。
ほんのわずかに、声が落ちる。
「わたしは、カナリアの腹の子の父親ではない」
沈黙。
「笑えるな」
「なんだと?」
「もはや手遅れだ」
嘲るような声音で、シキは言う。
「おまえは最初から、手遅れだっだのだ」
あの月蝕の夜。ラゴウは自ら命を断とうとした。
それですべては終わるはずだったのだ。
「・・・ラゴウの泣き顔を、見たことがあるか」
シキの声。
低く。
静かに。
アレクシスは息を呑む。
――ラゴウが、泣いて?
シキは口元を歪める。
「・・・なかなか」
一拍。
「――そそるぞ」
空気が、冷える。
「一瞬、寝台に引きずり込んで泣かせてみたくなるくらいにはな」
王の瞳が、凍りつく。
そして。
「・・・代わってやろうか」
とどめのように。
「慰め役を」
沈黙。
その瞬間。
何かが、切れた。
「・・・黙れ」
低く。
短く。
切り捨てる。
一歩。
間合いが詰まる。
「――ラゴウは」
一拍。
「わたしの女だ」
その言葉に、シキの胸の奥で、何かが静かに牙を剥いた。
――そのとき、廊下の奥で足音が響いた。
「陛下!」
回廊の奥から近衛が駆け込んだ。
「宰相閣下より急報です。王妃殿下が――」
アレクシスの瞳が揺れる。
シキだけが、静かに嗤った。
◇ ◇ ◇
数日前。
王宮の奥、政務塔。
メフィストは窓辺に立ち、夜の王都を見下ろしていた。
扉の前で、足音が止まった。
――来たな。
「どうぞ」
扉が開く。
無言のまま、ラゴウが入ってくる。
目は赤い。
だが、涙の跡はもう乾いていた。
「・・・何の用で呼んだ」
「仕事です」
振り向きもせず、メフィストは答える。
「北方辺境で疫病が発生しました」
一拍。
「高熱、嘔吐、発疹。井戸水の汚染も疑われています。すでに村が三つ封鎖されています」
ラゴウの目つきが変わる。
「医師団は」
「半数が倒れました」
「聖女は」
その問いに、メフィストはようやく振り返った。
「妊婦です」
静かな声だった。
「危険地帯へは送れない」
沈黙。
――父親は、お前だろうが!
喉元までせり上がった言葉を、ラゴウは飲み込む。
カナリアは、メフィストの名を出さなかった。
名を明かせない事情があるのか。
それが、事情なのか、思惑なのか、策略なのかは、分からないが。
「かわりに、あなたに行っていただきたい」
ラゴウは鼻で笑った。
「厄介払いか」
「それもあります」
あっさりと肯定する。
「ですが、あなたなら救える」
――そして、死地へ送っても惜しくない。
声にならぬ声が、気配で伝わる。
机の上に、一通の封書が置かれる。
「それと、もう一件」
「・・・なんだ」
「伝染源を調べてください」
ラゴウの眉が寄る。
「……ただの疫病じゃないのか」
「広がり方が不自然です」
メフィストは薄く笑った。
「誰かが、作った可能性がある」
ラゴウの瞳が細くなる。
「誰だ」
「それを知るための密命です」
一拍。
「受けますよね?」
長い沈黙の後。
ラゴウは封書を掴んだ。
「・・・気に入らない」
「光栄です」
「だが、行く」
その声だけが、妙に静かだった。
メフィストは満足げに目を細める。
「護衛を一人、つけましょう」
「いらん」
「ツクヨミです」
ラゴウの表情が、わずかに歪んだ。
「……あいつ?」
「腕が立つ。辺境にも詳しい」
一拍。
「あなたの隣に置くには、実に都合がいい」
どこか底の見えない笑みで、宰相は告げた。
第53話までお読みいただき、ありがとうございます。
今回は、ラゴウを失いかけて初めて焦るアレクと、ラゴウを守ろうとするシキを書いた回でした。
王としては冷静に政務をこなしながら、肝心のラゴウには会えない。
探しても、避けられる。
何でも手にできる立場の男が、たった一人に届かない状況です。
そしてシキ。
これまで感情を見せなかった男の中にも、強い執着があることが見えてきました。
忠誠なのか、情なのか、本人にも分からない感情です。
「ラゴウはわたしの女だ」
この言葉は、アレクがようやく口にした遅すぎる本音でした。
後半では、メフィストの密命により物語の舞台が動きます。
王都を離れたことで、ここからさらに大きく話が動いていきます。
続きも見届けていただけたら嬉しいです。




