第50話 逃げる王妃と揺れる聖女
――・・・部屋に、入れてくれます?
低く。
先ほどよりも、わずかに近い声音。
ラゴウは、はっとして顔を上げた。
「だめだ」
即答する。
「ほかの男の部屋には堂々と潜り込むくせに」
かすかに笑う。
「夫のわたしは、妻の部屋の前で門前払いですか」
「シキは、そういうのじゃない」
「そういうの、とは?」
(アンタとは、全然、危険度が違うんだよ!)
言葉にならないまま、喉で止まる。
それでも、吐き出す。
「あいつは、殴ったり罵倒したり追い詰めて楽しんだりすることはあっても」
アンタみたいに、髪に触れたりキスしたり気遣ったりしない。
「・・・アンタとは、ちがう」
一歩、引く。
(・・・こんなことで、流されるか)
胸の奥に残る熱を、押し込める。
アレクは、わずかに首を傾けた。
「気が変わらない?」
「・・・変わらない」
「そろそろ観念してもいい頃では?」
「しない!」
強く言い切る。
(観念ってなんだ、観念って!)
「早く戻れ」
沈黙。
一瞬だけ。
王は何かを言いかけて――やめる。
その代わりに。
「・・・では、今夜は、送るだけにしておきましょう」
静かに。
整った声で。
だが。
完全に距離を取るわけでもない。
(・・・限界か)
自覚している。
これ以上、近づけば。
壊す。
そういう予感だけが、はっきりとある。
それでも。
離れがたい。
一歩、踏み出しかけて――止める。
(・・・嫌われるな)
かろうじて、距離を戻す。
「おやすみなさい」
短く言って、踵を返す。
ラゴウは、その背を見送ったまま、動けなかった。
◇ ◇ ◇
――分からないのか?
――その子が、誰の子であるべきか
思考が、停止する。
メフィストの冷えた視線が、カナリアを捉える。
「・・・なにを、言っているの・・・」
否定しようとする。
だが。
言葉が続かない。
アレクはわたしに触れたことはない。
これは。
流されるように体を重ねてしまった、あの夜の。
「王の子として生まれれば」
メフィストは続ける。
「お前の立場は確定する」
一拍。
「聖女であり、王の子を宿す女」
静かに。
確実に。
「誰も、否定できない」
カナリアの呼吸が、一瞬、乱れる。
「・・・でも、それは」
嘘だ。
言いかけて、止まる。
メフィストが、わずかに首を傾ける。
「嘘?」
問い返す。
「何が?」
冷たい。
逃げ場を与えない。
「・・・」
カナリアは、黙る。
(・・・違う)
本当は、分かっている。
この子が。
どれほどの意味を持つか。
この国で。
この立場で。
「・・・あの人は」
絞り出す。
「否定するかもしれない」
一瞬。
メフィストの目が、細くなる。
「しない」
即答。
「アレクは、わたしとあなたが婚約の約束を交わしたことを知っているわ」
「公にはされていない情報だ」
さらりと。
「王は」
静かに言う。
「・・・兄は、目の前で縋る者を、切り捨てられる男ではない」
カナリアの心臓が、強く打つ。
「お前が相手なら、なおさらだ」
「・・・」
否定できない。
分かっている。
あの人は。
そういう人だ。
「だから」
メフィストは、結論のように言う。
「どうするべきか、分かるな?」
沈黙。
カナリアは、蒼白な顔で、俯く。
(・・・この、お腹の子が)
意味になる。
位置になる。
選ばれる理由になる。
(そんなことが、許されるわけがない)
(でも)
――でも。
聖女は、震える手を、握りしめた。
◇ ◇ ◇
神殿に戻る途中。
白い回廊を、カナリアはひとり歩いていた。
祝宴のざわめきは、もう遠い。
灯りもまばらで、夜の静けさだけが残っている。
胸の奥が、まだざわついていた。
王と王妃。
寄り添う姿。
あの距離。
あの視線。
(……演技)
そう思い直す。
草原の使者へ見せるため。
王妃を王妃として扱っていると示すため。
政治だ。
そうでなければ、困る。
歩みを速めようとした、そのとき。
前方の角から、人の気配がした。
反射的に足を止める。
柱の影へ身を寄せる。
現れたのは――アレクシスと、ラゴウだった。
思わず、息を呑む。
ふたりは並んで歩いている。
近い。
だが、触れてはいない。
それだけなのに。
空気が違った。
言葉にできないほど、自然で。
誰も入り込めないような距離だった。
(……なぜ)
胸が、ひやりと冷える。
そのとき、遠くから別の足音が響いた。
草原の使者たちだと、すぐに分かった。
アレクシスが足を止める。
何かを言う。
ラゴウが睨む。
次の瞬間。
王が、一歩近づいた。
そして。
ラゴウの唇へ、口づけた。
短く。
だが、迷いなく。
あまりにも自然だった。
見せるための演技なら、もっと芝居がかっているはずだ。
だが違う。
呼吸をするように。
そこに触れるのが当然であるかのように。
カナリアの指先が、ぎゅっと柱を掴む。
(……違う)
胸の奥で、何かが軋む。
ラゴウが固まり、何かを言い返している。
アレクシスは、わずかに笑っていた。
その笑みを、カナリアは知らなかった。
自分には向けられたことのない、柔らかい顔だった。
そのまま、ふたりは王妃の部屋の前まで進む。
扉の前。
言葉を交わす。
ラゴウが拒むように首を振る。
アレクシスがなおも一歩近づく。
だが、最後には引いた。
「おやすみなさい」
唇の動きで、それだけ読み取れた。
王が背を向ける。
ラゴウは、扉の前でしばらく動かなかった。
頬を押さえるように触れ、うつむいている。
まるで。
残された熱を確かめるように。
カナリアの視界が、揺れた。
(……あんな顔)
王も。
王妃も。
自分の知らない顔をしている。
息が浅くなる。
喉の奥がひくりと痙攣した。
吐き気が込み上げる。
口元を押さえる。
(……いや)
香の匂い。
酒の匂い。
夜気。
嫉妬。
恐怖。
全部が一度に押し寄せる。
その場に崩れ落ちそうになる身体を、必死で柱に預けた。
遠くで扉が閉まる音がした。
カナリアは、目を閉じる。
長く、深く息を吐く。
そして、唇だけに微笑みを戻した。
(……まだ、終わっていない)
白い指先が、腹部へ触れる。
そこにあるものを確かめるように。
聖女は、ゆっくりと神殿へ歩き出した。
ここまで読んでくださってありがとうございます。
今回は、逃げる王妃と、揺れる聖女の回でした。
ラゴウは逃げています。
でも本当に逃げたい相手は、アレクではなく、自分の気持ちかもしれません。
一方のアレクは、かなり余裕のある顔をしながら、内心はだいぶ限界です。
理性的な男ほど、崩れ始めると厄介です。
そしてカナリア。
この回では、彼女の中で何かが決定的に揺れ始めました。
見たくなかったものを見てしまい、認めたくなかったものを認めざるを得なくなる。
その先に、彼女がどんな選択をするのか。
ひとつの嘘が、全員の運命を大きく動かす回になる予定です。
次回も読んでいただけると嬉しいです。




