第42話 王は跪く
――王妃の誕辰は、冬の寒さが一番厳しい頃。
そう、認識していた。
毎年、側近たちが選んだ毛皮や高級な絨毯を、贈った。
間違いのないものを。
誰からも非難されないものを。
(本当の誕辰では、ない?)
あのとき。
ほんの一瞬だけ。
いつも勝気な王妃の顔が、泣きそうに見えた。
◇ ◇ ◇
喧噪から抜ける。
四大国会議の宴。
本来なら、席を外す理由などない。
(……何をしている)
自分に問いかける。
答えは、出ている。
それでも、足は止まらない。
王妃を、探している。
王宮の回廊。
灯り。
影。
警備に当たる近衛たち。
その中に、あの赤銅の髪を、探す。
(いるはずだ)
近衛として。
どこかに。
それだけのこと。
それだけの、はずなのに。
足が、速くなる。
無意識に。
王妃は、変わった。
興味がわいた。
反応が新鮮で。
観察する価値があった。
――そう、思っていた。
だが。
(違う)
・・・目が、離せなくなった。
思考が、途切れる。
あのまま、背を向けたまま。
どこかへ行ってしまう気がした。
二度と。
戻らない距離へ。
(……見失う)
その瞬間。
胸の奥が、わずかに軋んだ。
王は、立ち止まらない。
回廊を抜ける。
灯りの届かない柱の影。
その奥に――気配がある。
「・・・いるのか」
呼ぶまでもなく、黒衣の護衛が現れる。
「――シキ」
気配を殺したまま、そこにいた。
「王妃の本当の誕辰は、いつだ」
間を置かない。
問いだけを投げる。
シキは、少しもためらわなかった。
「あの月蝕の日だ」
沈黙。
風が、遠くで鳴る。
アレクの顔から、血の気が引いた。
シキの声が、低く落ちる。
「誰にも祝われたことのない誕辰だ」
一拍。
「凶相ゆえに、隠されてきた」
さらに。
「おまえが、ラゴウを壊した、あの日が」
鋭く。
「ラゴウの、本当の誕辰だった」
アレクは動かなかった。
「ラゴウは、おまえに傷つけられ、おまえに壊され、おまえに殺されるはずだった女だ」
何かを言おうとして。
言葉が出ない。
胸の奥で、何かが確実に音を立てて崩れる。
月蝕。
あの夜。
身投げ。
壊れかけた声。
触れた体温。
疑ったこと。
拒んだこと。
一度も、呼ばなかった名前。
――ラゴウ。
(……誕辰だったのか)
祝われたことのない日。
誰にも知られない日。
その日に。
自分は。
目を閉じる。
一瞬。
ほんの一瞬だけ。
王ではなくなる。
開く。
青灰の瞳が、冷えた光を取り戻す。
「……どこだ」
低く問う。
シキは肩をすくめる。
「知らん」
「見えるんだろう」
「自分の女くらい、自分で探せ」
黒衣の護衛は、闇の中に消える。
王は、歩き出す。
今度は、迷いがない。
回廊。
中庭。
風の通り道。
そして。
いた。
壁際。
影の中。
正装の騎士服。
背を預けるように立つ女。
赤銅の髪。
視線は外へ。
誰もいない場所を見ている。
こちらに、気づいていない。
一歩。
踏み出す。
近づく。
距離が、縮まる。
あと、数歩。
手を伸ばせば届く位置。
その瞬間。
ラゴウが、わずかに顔を上げた。
気配を捉える。
目が合った。
王の喉が、わずかに、動く。
だが。
言葉にならない。
――どう言えばいい。
何を。
どこから。
謝罪か。
説明か。
言い訳か。
違う。
どれでもない。
(……遅い)
頭のどこかが、冷静に告げる。
(すでに、間に合っていない)
それでも。
さらに一歩、踏み出す。
ラゴウは、動かない。
逃げない。
だが、近づきもしない。
距離が、決まる。
王は、見下ろす。
ラゴウは、見上げる。
「・・・まだ、なにか用があるのか」
金色の瞳が、わずかに揺れた。
次の瞬間。
王は、ゆっくりと、膝をついた。
◇ ◇ ◇
ラゴウは、言葉を失う。
目の前で。
王が。
跪いている。
「なにを・・・」
「後悔しています」
低く。
まっすぐに。
「あなたを傷つけたこと」
「気遣えなかったこと」
「身投げさえ、何かの策略ではないかと疑ったこと」
一拍。
「心から、悔いています」
ラゴウの呼吸が、一瞬、止まる。
アレクは顔を上げる。
まっすぐに見つめる、青灰の瞳。
ラゴウの視線は、逃げ場を失う。
「許してくれますか」
沈黙。
世界の音が、消えたようだった。
ラゴウは、しばらく何も言わなかった。
ただ、見ている。
アレクシスを。
その顔を。
その目を。
――嘘じゃない。
それだけは、分かる。
だが。
(……今さらだ)
三年間。
聖女を見つめるアレクを、見つめ続けたこと。
それでも、諦めきれなかったこと。
あの、赤い月の夜。
ラゴウを抱きながらカナリアの名を呼んだ男の声を聞いて、ようやく、終わらせよう、と、思ったこと。
もう、すべて、終わりにしよう、と。
全部。
痛みが消えたわけじゃない。
消えるはずもない。
それなのに。
今、目の前にいるこの男は。
あのときとは、違う顔をしている。
(・・・だから厄介なんだよ)
ラゴウは、ゆっくりと口を開いた。
「・・・やめろ」
小さく。
だが、はっきりと。
アレクの眉が、わずかに動く。
「許すとか、許さないとか」
ラゴウは視線を逸らす。
「そういう話じゃない」
一拍。
「わたしは、アンタに、何も期待してなかった」
空気が、ひやりと冷える。
想いが返されることはない。
カナリアに向かう視線が、自分に向かうことはない。
最初から分かっていたことだ。
「だから」
続ける。
「裏切られたとも、思ってない」
アレクシスの指が、わずかに震える。
ラゴウは視線を逸らす。
「別に、たいした痛手じゃない。大丈夫だ。もう傷ついてない。前にも言ったが、アンタが責任を感じなくていい」
――だから、もう、何も気にせず、わたしを捨ててくれ。
この感情に、意味を持たせる前に。
この感情がなんなのか、自覚してしまう前に。
「……ただ」
一瞬だけ、言葉が詰まる。
(言うな)
(それ以上は、言うな)
それでも。
「ただ、最近・・・ちょっと」
無理やり、笑う。
「・・・勘違いしそうになってただけだ」
視線が、揺れる。
「それだけだ」
アレクシスは、沈黙する。
なにかを言おうとして、言葉にならないまま、喉で止まる。
それが、すべてだった。
それ以上でも。
それ以下でも。
ラゴウは、顔をあげないまま言う。
「立て」
ぶっきらぼうに言う。
「今のわたしは、ただの護衛だ。そんな相手を前に、王が頭を下げるな」
アレクシスは動かない。
ただ、ラゴウを見ている。
「王妃」
王の手が伸びる。
しかし、ラゴウははっきりと後ずさった。
「・・・もう二度と」
一拍。
「わたしに触らないでほしい」
視線を合わせず、ただ乞うように言う。
「――ラゴウ」
「呼ぶな」
3年間。一度も、呼ばなかったくせに。
「アンタが嫌いだ」
――嫌いになれたらどんなに楽か。
「もう好きじゃない」
――離れるべきだ。
これ以上この男のそばにいたら、こちらがおかしくなる。
「もう、終わりにしたい」
第42話「王は跪く」をお読みいただき、ありがとうございます。
ついに、王が膝をつきました。
これまで「正しい王」であろうとしてきたアレクが、
初めて“間違えたこと”を認めた回です。
でも――ラゴウは、それを受け取らない。
「最初から期待していなかった」
この一言で、二人の距離は決定的になります。
ここから先は、さらにすれ違いが加速していきます。
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