第34話 メフィストの思惑
数日前。
宰相の執務室。
夜。
灯りは、ひとつ。
石造りの部屋。
音も、風も、ない。
盤の上に、駒が置かれている。
メフィストが、それを指でなぞる。
静かに。
正確に。
向かいに、男。
まだ若い。白銀の髪が、黒衣からのぞく。
気配を殺している。
ツクヨミ。
いや――草原王カヨウである。
「北嶺は、動きます」
メフィストが言う。
淡々と。
「今年は寒波が早い。食料が尽きる。南へ下るしかない」
駒を、国境へ進める。
だが。
その手は、途中で止まる。
「ただし、ここで止めます」
沈黙。
カヨウが笑う。
「中途半端だなあ。そのままレザリアに侵攻しちゃえばいいのに」
「無理です」
即答。
「現時点で北嶺に勝ち目はない」
一拍。
「ですが」
指が、駒を弾く。
「測るには、十分です」
カヨウが盤を見下ろす。
「……何を?」
メフィストは三つの駒を並べる。
「近衛の中核――ガレス」
「異物――ツクヨミ」
わずかに視線を上げる。
「あなたです、草原王」
そして。
最後の駒に触れる。
「――ラゴウ王妃」
沈黙。
カヨウの指が止まる。
ゆっくりと、その駒を撫でる。
近衛隊選抜での、王と王妃の模擬戦を思い出す。
「きれいだった」
ぽつりと。
「獣みたいだった」
――なによりもしなやかで、美しい、獣。
一拍。
声が落ちる。
「見てるだけで、ぞくぞくした」
メフィストは反応しない。
ただ、続ける。
「確認したいのです」
一拍。
「彼女が、どこまで、誰のために動くのか」
指先が、ラゴウの駒をなぞる。
――白い指だった。
血の気を感じさせないほどに、淡い。
細く、長い指先が、正確に駒を押さえる。
灯りが、その横顔を照らしている。
淡い金の髪。
柔らかく見えるのに、ひとつも乱れていない。
光を受けて、冷たく反射する。
伏せたまつ毛の奥にある瞳は、淡い青。
だがそこに、熱はない。
ただ――測るための光だけがある。
「使える駒なのか、排除すべき駒なのか」
静かに。
「――あの身投げの夜以降、王妃はまるで別人です」
沈黙。
「死ぬはずだった女が、生き延び、なおかつ、戦場で機能している」
一拍。
「不自然です」
視線を落としたまま、言う。
「加えて」
指が、わずかに動く。
「妙な医術を使う」
「外科的な処置。止血、整復、縫合。・・・いずれも、既存の体系にはない、未知のものだ」
一拍。
「聖女の回復魔法に依存しない治療」
静かに。
「これは、教会の権威を揺るがします」
別の駒――聖女を、指で押す。
「聖女カナリア。・・・彼女を手に入れれば、これまで中立だった教会は、我々のものになる」
一拍。
「そのための婚約です」
メフィストは、わずかに顔を上げた。
整った輪郭は、人形のように美しい。
しかし、その声音にはなんの感慨もない。
兄の想い人を奪った。
それだけだ。
聖女カナリア。
教会の象徴。
中立の要。
――ゆえに、取り込む必要があった。
接触は、成功している。
先日、灯籠祭りの夜、王宮に戻ってきたカナリアはずいぶん憔悴した様子だった。
聞けば、王は王妃をさがすため聖女を先に帰したという。
カナリアの自尊心は傷ついており、寝室に連れ込むのは容易だった。
一線は、越えている。
だが。
それは、感情ではない。
ただの手段だ。
王の最愛。
信仰の核。
その両方を、同時に掌握する。
そのための配置にすぎない。
想定外だったのは、カナリアが生娘だったことだ。
すでに兄の寵愛を受けているものだとばかり思っていた。
しかしそれは、兄がどれほど彼女を守り、大切にしていたのかという証明でもある。
ほんのわずかに、口元が動く。
笑っているようにも見える。
だが、それは感情ではない。
「・・・だからこそ、壊せると思った」
一拍。
指が止まる。
「実際に、王は揺らいだ」
「月蝕の夜――」
そこで、言葉を切る。
沈黙。
「本来なら」
低く。
「それで十分だった」
王妃の死が、王と草原を引き裂くはずだったのに。
「だが、彼女は死ななかった」
静寂。
指先が、わずかに強く駒を弾く。
その動きだけが、わずかに、感情に近いものを帯びる。
「それ以降」
「すべてが、狂い始めた」
沈黙。
「王が、反応する」
一拍。
「王妃にだけ」
「理ではなく、感情で」
一拍。
「・・・本来、兄は揺らがない」
なのに。
「彼女は、王にとって唯一の存在になりつつある」
ラゴウの駒を弾く。
「制御不能」
「予測不能」
一拍。
「どの程度、王を揺るがすのか」
低く。
「・・・見極める必要がある」
一拍。
「北嶺の国境侵犯は、その試金石です」
沈黙。
カヨウが笑う。
「・・・なるほどね?聖女ほどの女にも堕ちなかった王が、ラゴウに堕ちつつある、と」
ラゴウの駒を引き寄せる。
「でもさ」
低く。
「僕は、レザリア王に、ラゴウを選ばせる気なんか、ないよ」
顔を上げる。
「姉上は、最初から僕のものなんだから」
◇ ◇ ◇
急報が入った。
大陸西方――北嶺。
国境侵犯。
敵影確認。
規模、不明。
報告の声が、わずかに揺れる。
「斥候は?」
「……戻っていません」
一瞬。
空気が、止まる。
(……おかしい)
通常の侵犯なら、規模はすぐに割れる。
だが今回は。
見えない。
数も。
配置も。
意図も。
まるで――測られているような。
沈黙。
アレクの視線が、わずかに細くなる。
「……侵攻ではないな」
低く、呟く。
「探りか、あるいは――誘いだ」
誰も応えない。
だが。
理解は、共有される。
「近衛隊が、先鋒をつとめましょう」
ルシアンの声は、短い。
迷いがない。
すでに決まっている声だ。
「待て」
一拍。
アレクシスが制する。
「規模が読めない以上、突出は危険だ」
「承知しています」
ルシアンは、わずかに顎を引く。
「だからこそ、です」
視線が、上がる。
「……編成を」
ルシアンが言う。
短く。
無駄なく。
「第一隊、軽装。騎動優先」
「第二隊、後方支援。距離を取れ」
「斥候は二重に。戻らなければ切り替えろ」
命令が、落ちる。
兵が動く。
速い。
整然と。
だが。
違和感を感じる。
(……妙だ)
ただの国境侵犯ではない。
戦場の気配が――歪んでいる。
そして。
その中で。
ラゴウは、別命を受ける。
「聖女の護衛、兼、医療補助」
一拍。
「……は?」
「異論は却下します」
ルシアンは淡々と言う。
「医療従事者といえば、軍医と聖女だけです。人手が足りません」
沈黙。
ラゴウは、不承不承のていで承服する。
「……戦場を駆け回るほうが性に合ってるのにな」
今回は、メフィストの「狙い」を少しだけ明かしました。
誰がどう動くのか。
王が、どこまで揺れるのか。
それを測るための一手です。
そしてもうひとつ。
カヨウは、まったく別の理由で動いています。
彼にとっては、ただひとつ。
――ラゴウを取り戻すこと。
同じ局面でも、見ているものが違う。
そのズレが、これからどう崩れていくのか。
次話から、戦場に入ります。




