第130話 覚醒
「……ぐっ!」
喉の奥から熱いものが込み上げる。
鮮血だった。
カヨウは石段へ膝をついた。
「・・・なぜ」
胸が裂ける。
いや。
裂けている。
自分ではない。
誰かの胸を貫いた痛み。
盟約。
その意味を理解した瞬間。
全身から血の気が引いた。
「シキ・・・」
掠れた声が漏れる。
あり得ない。
草原の者が。
まして誰よりも気高いフギの長が。
自ら命を絶つなど。
草原では。
生き様ではない。
死に様こそが名を遺す。
敵と戦い、星へ還る者は英雄。
だが。
自ら命を絶った者は、祖霊にも迎えられず、星へ還ることも許されない。
未来永劫。
輪廻から外れ、草原の塵となる。
最も忌むべき死。
その道を。
シキは選んだ。
「・・・なぜ!」
吐血。
さらに血が落ちる。
「そこまでして」
「姉上を」
「守るのか」
視界が歪む。
ありえない。
自死は草原の最大の禁忌。
輪廻も転生も捨てて、草原の塵芥となる運命を選ぶなど。
「・・・ぐっ!!」
吐血。
カヨウが、崩れ落ちる。
◇ ◇ ◇
黒い軍旗が揺れる。
「焼け」
メフィストが静かに言う。
「神域だろうが関係ない」
「木も」
「社も」
「石碑も」
「全部燃やせ」
兵がためらう。
「しかし」
「始祖の聖域です」
「だからだ」
メフィストは笑う。
――草原の者は誇り高く、その絆は強い。
それを折る最も効果的な方法は、信仰を奪うこと。
「国は城でできていると思うか」
兵は答えられない。
メフィストは燃え始めた石造りの神殿を見上げた。
「違う」
「国とは、人が同じものを信じることで成り立つ」
静かな声だった。
「王は倒せる」
「軍も滅ぼせる」
「だが、人々が神を信じ続ける限り、その国は何度でも立ち上がる」
風が吹く。
炎が祭壇を舐める。
「草原を支えているのは、剣ではない」
「ジョカという神話だ」
兵たちは息を呑む。
「神話を焼けば、誇りは灰になる」
「誇りを失えば、三族は互いを疑い始める」
「疑心は争いを生み、争いは、国を内側から腐らせる」
メフィストは静かに笑った。
「城を落とすより」
「神を焼く方が早い」
その隣。
シュイが剣を抜く。
「ジョカの王女を攫い、草原王に刃を向けた逆賊を討て!」
その声は凛としていた。
だが。
胸の奥では別の声が囁く。
(カヨウも)
(ラゴウも)
(ここで終われば)
(玉座は、空く)
彼女は誰にも見えないように。
静かに笑った。
「全軍、進め!」
炎が上がる。
天宿が燃え始める。
◇ ◇ ◇
しゃらん。
鈴が鳴る。
ラゴウが立つ。
誰も。
近付けない。
風が変わる。
空気が重くなる。
兵士の一人が膝をついた。
理由は分からない。
身体が勝手に跪いた。
「……神」
誰かが呟く。
その瞬間。
ラゴウは消えた。
轟音。
地面が砕ける。
赤い残光だけが。
戦場を走った。
否。
速すぎた。
兵士の眼では追えなかった。
轟ッ——!
地面が爆ぜる。
たった一歩。
その踏み込みだけで、
半径数十歩の大地が陥没する。
砂煙が巻き上がる。
その中から、
赤い焔だけが駆け抜けた。
跳ぶ。
高い。
人では届かない高さまで。
戦場全体を見下ろす。
赤い髪が、
巨大な火焔鳥の翼のように広がった。
そして。
剣が振り下ろされる。
しゃらん。
鈴が鳴る。
直後。
大気そのものが裂けた。
剣は、
兵士を斬ったのではない。
空間を断った。
その衝撃だけで、
重装兵の列が吹き飛ぶ。
盾が紙のように折れ、
鉄鎧が飴細工のように砕け散る。
誰一人。
刃に触れられてすらいない。
着地。
また跳ぶ。
しゃらん。
戦場に金の鈴が鳴る。
赤い残光だけが走る。
兵士たちは悲鳴を上げることすら忘れた。
一人。
また一人。
剣を捨てる。
逃げる。
だが。
逃げ切れない。
ラゴウは追わない。
ただ、
前へ歩くだけ。
そのたびに、
戦列が崩れていく。
誰も近づけない。
誰も立てない。
誰も剣を向けられない。
まるで。
戦神が歩いている。
いや。
それ以上だった。
始祖神ジョカ。
神話の時代にしか存在しなかったはずの母神が、今、草原を歩いている。
遠くからその姿を見つめ、シキは静かに笑った。
口から血がこぼれる。
同調の代償は、すべて自分へ流れ込んでいた。
骨が軋む。
血管が裂ける。
それでも笑う。
「・・・そのまま行け」
「代償は、すべておれが負う」
「だから」
「帰ってこい」
「ラゴウ」
しゃらん。
三度、
星杖の鈴が鳴った。
その音は、
世界が始祖神へ跪く音だった。
メフィスト軍は崩れる。
隊列も、指揮も、戦意も。
何もかもが、ただ一人の女によって。
いや。
一柱の神によって、蹂躙されていく。
その光景を見上げながら、シキは静かに目を閉じた。
閉じた瞼の裏に、焔のような赤い髪が舞っていた。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
この物語でずっと書きたかった場面の一つが、ようやく描けました。
神として覚醒するラゴウ。
そして、その代償を黙って引き受けるシキ。
力とは、誰かを傷つけるものではなく、誰かが痛みを背負うことで初めて振るえるものなのかもしれません。
次話はいよいよ最終決戦です。
最後までお付き合いいただけたら、とても嬉しいです。




