第129話 最も忌むべき死
短刀が。
ゆっくりと持ち上がる。
その瞬間だった。
「やめろッ!!」
カヨウが叫ぶ。
「そんな死に方をするな!」
「おまえはフギの長だ!」
「神へ連なる者だ!」
「そんな穢れた死を選ぶな!!」
草原では、生き方よりも死に方が、その者の名を決める。
敵と刃を交えて散る者は、星へ還る勇者となる。
王を守って倒れた者は、子々孫々まで語り継がれる。
だが――。
自ら命を絶った者だけは違う。
神に与えられた命を、自ら捨てた者。
祖霊に背を向けた者。
星へ還る資格を失った者。
その名は墓碑に刻まれず、祭壇で祈りを捧げられることもない。
草原において、自死は最大の穢れであり、戦場で敵に背を向けること以上の恥辱とされていた。
だからこそ。
カヨウの顔から血の気が引く。
シキは静かに笑う。
風が吹く。
紫黒の瞳が、空を映す。
短刀が胸元へ向けられる。
カヨウが駆けた。
石段を蹴る。
盟約など忘れて。
ただ、一人の少年として。
「シキ!!」
シキは穏やかに目を細めた。
「カヨウ」
「覚えているか」
足は止まらない。
「小さな頃」
「おまえは転んでは」
「ラゴウに泣きついていた」
「黙れ!!」
「泣き虫で」
「優しくて」
「花を摘むたび」
「虫まで一緒に連れて帰る子どもだった」
「黙れぇぇぇ!!」
シキは笑った。
「おまえも」
「ラゴウも」
「おれの大切な子どもだった」
その一言で。
カヨウの足が止まる。
一瞬だけ。
ほんの一瞬だけ。
幼い日の記憶が胸をよぎった。
星空の下。
三人で笑った夜。
草原を駆け回った日。
ラゴウが花冠を編み、シキが不器用にそれを頭へ載せてくれた。
「・・・うるさい」
震える声だった。
「うるさいうるさいうるさい!!」
シキは静かに瞳を伏せる。
短刀の切っ先が。
ゆっくりと胸へ触れる。
「やめろ!!」
「おまえが死ねば!」
カヨウの声が途切れる。
盟約。
命。
魂。
そのすべてが。
一つで結ばれていることを。
誰よりも知っていた。
「おまえを」
「もう、これ以上」
「罪人にはしたくない」
天宿の石柱が低く唸る。
シキは天を見上げた。
「ラゴウ」
小さく呟く。
「・・・約束は」
「守る」
その瞬間。
迷いなく。
短刀を。
己の胸へ突き立てた。
ぐしゃり、と。
肉を裂く鈍い音。
鮮血が、白い石段へ飛び散る。
「シキぃぃぃッ!!」
カヨウが絶叫する。
同時に。
その胸からも。
まったく同じ場所へ。
深紅の血が噴き上がった。
「が……っ!」
膝が砕ける。
剣が石畳へ落ちた。
カラン――。
乾いた音が響く。
「ば……かな……」
息ができない。
胸が焼ける。
同じ傷。
同じ痛み。
同じ命。
盟約が。
悲鳴を上げていた。
その時だった。
「シキ!!」
女の声が、天宿へ響いた。
縫天婆の制止を振り切る。
ラゴウは石段を駆け上がる。
息が切れる。
涙で視界が滲む。
そして、崩れ落ちるシキの身体を受けとめた。
「四季!!」
その名を聞いて、シキは目を細める。
嬉しそうに。
本当に嬉しそうに。
笑った。
その瞬間。
天宿全体が、大きく震えた。
石柱が軋む。
雲海が裂ける。
遥か天へ向かって。
ジョカの星杖が、自ら鳴り響く。
カァァァァン――。
◇ ◇ ◇
血の匂いがした。
燃え落ちる天幕。
崩れる王庭。
黒煙の向こうで、メフィスト軍が迫る。
血まみれシキの身体を抱きながら、ラゴウは膝をついていた。
呼吸が苦しい。
星が。
月が。
世界そのものが揺れている。
ラゴウは拳を握る。
もう助からい。
「なんで」
「なんでこんな・・・!」
ラゴウ、とシキが言う。
「一度だけ」
ゆっくりと。
「おれと溶け合おう」
ラゴウが顔を上げる。
「・・・何を」
シキは静かに続ける。
「魂を重ねる」
「星を重ねる」
「ジョカは一人では目覚めない」
「女媧と伏義。陰と陽。二つで初めて神になる」
ラゴウは目を閉じた。
「おまえは、草原の女帝だ」
シキはただ、優しく笑った。
「ラゴウ」
「おれは、おまえの」
少しだけ息を吸う。
「恋人にはならない」
「夫にもならない」
「父親にもならない」
静かな声だった。
「不本意だが」
「全部」
「あいつにくれてやる」
ラゴウの目から涙が零れた。
「シキ」
「だが」
シキは少しだけ悪戯っぽく笑った。
「・・・草原を侵す者を駆逐するために」
「一度だけ」
「おれと重なってくれ」
沈黙。
そして。
「あの男には」
少し間を置いて。
「一生秘密だ」
ふ、と、ラゴウは泣きながら笑った。
「ラゴウ」
「おまえはおれに自由になれと言ったが」
――欲しいのは自由などではなく。
願わくば、また、おまえとともに生きる者でありたい。
風が吹く。
月が。
欠け始める。
月蝕だった。
ラゴウとシキの瞳が重なる。
無数の星が回転する。
世界が震える。
ラゴウの胸が熱くなる。
鼓動が重なる。
呼吸が重なる。
記憶が流れ込む。
幼い日の草原。
羊。
星空。
孤独。
笑顔。
涙。
全部。
全部。
ひとつになる。
光が天を貫いた。
星杖が光る。
しゃらん。
高く。
どこまでも澄んだ金環の鈴が鳴る。
星杖の先に連なる金の鈴が、風もない空で静かに震えた。
ラゴウの赤い髪が、ふわりと浮き上がる。
一本。
また一本。
毛先から朱が燃え上がる。
炎ではない。
神気だった。
濃すぎる神威が、人の目には焔のように映るだけ。
蜜色だった瞳は、太陽を閉じ込めたような黄金へ変わる。
瞳孔の奥では、灼熱の星がゆっくり回っていた。
誰も見たことのない草原の化身が、そこに立っていた。
半神。
ジョカ。
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございます。
この場面は、物語を書き始めた頃から、ずっと頭の中にあった景色でした。
シキが最後に選んだもの。
そして、ラゴウが受け継いだもの。
物語はいよいよ最終局面です。




