第128話 門番
天宿。
雲海の果てへ続く石段。
朝霧はすでに晴れ、蒼穹だけが広がっていた。
石柱の並ぶ門。
その中央に、一人の男が立っている。
黒衣。
紫黒の双眸。
封呪布は、もうない。
シキだった。
風が吹く。
その視線は、山の麓を見据えたまま動かない。
やがて。
地鳴りが聞こえた。
一頭。
十頭。
百。
千。
土煙が山腹を覆う。
無数の軍旗。
その先頭を駆けるのは、黄金の軍馬。
草原王カヨウだった。
その後方には、ダッキ族の軍勢。
黒い軍旗。
さらにその奥で、静かに馬を進めるメフィストが微笑んでいる。
シキは、小さく息を吐いた。
「・・・来たか」
◇ ◇ ◇
天宿へ至る山道。
石段には血が流れていた。
白い祭服。
星を読む老人たち。
その亡骸が、幾重にも折り重なっている。
若い占者が、震えながら石柱へ寄りかかる。
「どうして・・・」
剣が振り下ろされた。
首が落ちる。
血が石畳を染めた。
カヨウは、その死体すら見ない。
「まだ隠すか」
返事はない。
また一人。
また一人。
倒れていく。
最後に。
杖をついた老占者が、静かに笑った。
「ダッキ族カヨウよ」
「星は、おぬしを選ばなんだ」
次の瞬間。
その首は宙を舞った。
メフィストは、それを黙って見ていた。
老人は死の間際。
無意識に、天宿の頂を見上げた。
それだけで十分だった。
メフィストは静かに笑う。
「見つけた」
◇ ◇ ◇
石段の最上段。
シキは一歩も動かなかった。
カヨウが馬を降りる。
兄と弟のようでもあり、父と子のようでもある。
長い沈黙だった。
「・・・そんな眼をしていたんだね」
カヨウが笑う。
シキは答えない。
「封じたはずの視覚を、なぜ解放したのさ」
カヨウは続ける。
「ようやくぼくを草原王と認める気になった?」
「それとも」
嘲るような声音で。
「僕以外の王を見つけたわけ?」
風が吹く。
シキは静かに言った。
「小さかったおまえは」
「いつもラゴウと転げ回って遊んでいた」
カヨウが眉をひそめる。
「僕は昔話をしに来たんじゃない」
「虫一匹殺せず、泣いていた」
「なに?今さら感傷に浸りたい?」
「繊細で優しい子どもだった」
「無辜の民を殺戮するような子どもではなかった」
沈黙。
カヨウが笑う。
その笑みが、奇妙に歪む。
「どの口が言うんだか」
見開かれた双眸が、シキを刺す。
「ラゴウと、最も深く繋がる男が誰なのか、僕が知らないとでも思ってる?」
シキは黙る。
「ぼくだけが知ってる」
「おまえが、どれほど姉上を欲しているか」
「どれほど汚く」
「どれほど醜く」
「執着しているか」
笑う。
狂ったように。
「おまえと僕は同じだ」
「違う」
シキは静かに首を振った。
「同じではない」
――おれは、欲したからこそ、手放した。
カヨウの顔から笑みが消える。
「きれいごとはやめろ!」
剣を抜く。
黄金の刃が朝日を裂いた。
「姉上を返せ!!」
踏み込む。
雷のような一閃。
シキは避けない。
受ける。
「姉上は僕のものだ!!」
「僕だけを見ていればいい!!」
「誰にも笑わなくていい!!」
「誰にも触れなくていい!!」
火花が散る。
鈍い音。
石段へ血が落ちた。
シキの肩が深く裂ける。
それでも。
剣は届かない。
振り返した刃は、カヨウの眼前で止まる。
見えない壁があるかのように、弾かれた。
――宿命の盟約。
フギの刃は、草原王へは届かない。
カヨウが嗤う。
「これがおまえの宿命だ」
「フギは絶対に、草原王を殺せない」
剣閃。
鋼が火花を散らす。
シキの胸元が裂ける。
血が飛ぶ。
それでも。
シキは退かない。
「おまえは」
「姉上の隣にいたかった」
「違うか!」
怒号が山々へ反響する。
「抱きしめたかった!」
「触れたかった!」
「誰よりも!」
「姉上が欲しかった!!」
「違うか!?」
シキは静かに目を閉じる。
「・・・ああ」
短い返事だった。
「その通りだ」
「ようやく認めるんだね」
カヨウが笑う。
勝ち誇ったように。
「だがおれは同じだけ」
「ラゴウに自由を与えたかった」
シキは紫黒の双眸を細める。
「おまえはただ、ラゴウを閉じ込め、自分の王権を維持するための駒にしたかっただけだ」
カヨウの顔から笑みが消える。
「・・・黙れ」
低い声。
「黙れ」
「黙れ!」
黄金の剣が嵐のように襲いかかる。
一撃。
二撃。
三撃。
シキの身体が裂ける。
腕。
肩。
脇腹。
太腿。
血が石段を赤く染めていく。
それでも。
退かない。
たった一歩も。
「どうしてだ!」
カヨウが叫ぶ。
「どうして倒れない!」
「どうして邪魔をする!」
シキは苦しそうに息を吐いた。
「ここを、通すわけには、いかない」
その言葉に、カヨウの瞳が揺れた。
そして気づく。
違和感。
シキは勝とうとしていない。
自分を止めようともしていない。
ただ、そこに立っているだけ。
ただ。
時間だけを、稼いでいる。
「・・・まさか」
血の気が引く。
視線が。
シキの右手へ向く。
そこには、いつの間にか、一本の短刀が握られていた。
切っ先は。
カヨウではなく。
シキ自身へ向いている。
「やめろ」
思わず声が漏れる。
シキは笑った。
穏やかだった。
まるで、すべてを受け入れた者のように。
「カヨウ」
「すまない」
「・・・なぜ謝る・・・」
「おれは」
「最後まで」
「おまえも」
「守りたかった」
「・・・やめろ」
「優しかった幼いおまえが」
「・・・やめろと言ってる」
「本当は、おまえがこんなふうに苦しみ抜いて変わってしまう前に」
短刀が。
ゆっくりと持ち上がる。
「もっと早く、おれが、終わらせるべきだった」
「やめろ!!」
その絶叫は。
草原王ではなく。
幼い日の少年の声だった。
シキは静かに目を閉じる。
「巡る」
「終わりも」
「始まりも」
その瞬間――。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
今回は、剣で戦うというより、それぞれの「愛」の形がぶつかる回でした。
次話では、長く続いてきた宿命の盟約が、ついに終わりを迎えます。
最後まで見届けていただけたら嬉しいです。




