第127話 追跡
夜が明けても、王庭は混乱の渦中にあった。
「おられません!」
「どこにも!」
「王女様のお姿が!」
兵たちは天幕という天幕を駆け回る。
婚礼衣装。
黄金の装身具。
祝いの酒。
すべてが、そのまま残されている。
花嫁だけが消えていた。
祭壇の中央。
草原王カヨウは、微動だにせず立っている。
静かだった。
あまりにも静かで。
誰も、その背中へ近づけない。
「・・・ラゴウ」
ぽつり、と名を呼ぶ。
返事はない。
「今日は」
「婚礼の日だったのに」
誰へ語りかけるでもなく、呟く。
「今夜は」
「ようやく」
「姉上を抱いて眠れる夜になるはずだったのに」
沈黙。
長い沈黙。
ゆっくりと。
その肩が震えた。
「・・・どうして」
掠れた声だった。
「どうして」
「いつも」
「僕を置いていくの」
兵たちは顔を見合わせる。
誰も息をすることさえ忘れていた。
「僕は」
「ずっと」
「姉上だけを見てきた」
「生まれた時から」
「誰よりも」
「ずっと」
その瞳が、ゆっくりと見開かれる。
「ダッキは」
「ジョカと結ばれる」
「そう決まっていた」
「何千年も前から」
「ずっと」
「ずっとだ」
声が少しずつ震え始める。
「なのに」
「どうして」
「どうして僕じゃない」
「どうして」
「他の男に触れさせた」
「どうして」
「他の男のものになった」
「どうして」
「僕以外の男の子を」
「孕むんだ」
最後の一言は、叫びだった。
轟音。
玉座が真っ二つに砕ける。
剣が石畳へ突き刺さっていた。
兵たちが悲鳴を呑み込む。
カヨウは振り返った。
その双眸に、理性はなかった。
「探せ」
低い声。
「草の根を分けても探せ」
「なんとしてでも、姉上を」
「必ず見つけろ」
兵たちは一斉に跪く。
「はっ!」
だが。
カヨウは、さらに叫んだ。
「レザリア王を殺せ!」
「雑役の小僧を殺せ!」
「今すぐだ!」
兵の一人が青ざめたまま顔を上げる。
「カ・・・カヨウ様」
「それが・・・」
「何だ」
「王庭の地下牢に収監していたレザリア王と・・・少年の姿が・・・」
兵は震えながら言った。
「どこにも・・・ありません」
静寂。
誰も動かない。
カヨウは、ゆっくり兵を見た。
「なんだって?」
兵の喉が鳴る。
「も、申し訳ございません!」
「監獄総監の青天も行方が――」
最後まで言えなかった。
白刃が走る。
音すらなかった。
兵の首が、ゆっくりと宙を舞う。
血飛沫が、婚礼の白布を赤く染めた。
首のない身体が崩れ落ちる。
誰も悲鳴を上げられない。
カヨウは血の滴る剣を見つめる。
「違う」
ぽつりと呟く。
「違う」
「そんなはずがない」
「姉上は」
「僕を置いていかない」
まるで幼子が自分に言い聞かせるようだった。
「嘘を吐くな」
「嘘を吐くな」
「嘘を吐くな!!」
絶叫。
次の瞬間。
机が吹き飛んだ。
玉座が砕ける。
酒器が割れる。
巻物が宙を舞う。
花嫁のために用意された黄金の燭台が、壁へ叩きつけられた。
轟音。
轟音。
轟音。
怒りではなかった。
壊している。
世界そのものを。
「探せ!!」
「草を焼け!」
「河をさらえ!」
「山を崩せ!」
「洞窟を掘り返せ!」
金色の双眸が血走る。
「レザリア王を殺せ!」
「雑役の小僧を殺せ!」
「シキを連れてこい!」
「生きたままでだ!」
「姉上を返せ!!」
その咆哮は、王庭中を震わせた。
誰も動けない。
兵たちは知った。
いま、自分たちが仕えているのは。
草原王ではない。
神話の果てに取り残された、一人の狂った男なのだと。
◇ ◇ ◇
同じ頃。
ダッキ領。
黒い軍旗が、朝風にはためいていた。
見渡す限りの騎馬。
槍。
弓。
草原最強と謳われた妲己族の軍勢が整列している。
その先頭へ、一人の男が立つ。
メフィストだった。
一羽の黒鴉が舞い降りる。
メフィストの腕へ止まり、小さな書簡を落とした。
目を通す。
口元が、わずかに緩む。
「探し当てたか」
隣でシュイが問いかける。
「ラゴウの居場所?」
「ああ」
「天宿だ」
シュイが息を呑む。
「フギの神域・・・」
「そのようだな」
「よく場所が分かったわね」
メフィストは笑う。
「人は隠れる時、最も安全な場所へは逃げない」
シュイが首をかしげる。
「最も守れる場所へ逃げる」
静かな声だった。
「シキという男は」
「最後まで自分一人で抱え込む」
「だから」
「王庭を捨てるなら」
「フギだけが立ち入れる場所を選ぶ」
メフィストは地図を広げる。
その上には、無数の赤い印が記されていた。
古い祭壇。
星見台。
忘れられた神殿。
建国以前の遺跡。
「三百年前に書かれた巡礼記」
「二百年前の税記録」
「山羊飼いの証言」
「荷駄商人の道中記」
「星読みたちが消える場所」
指先が、一点で止まる。
「すべてが」
「ここへ集まっていた」
シュイは息をのむ。
「・・・これほど膨大な資料を、分析したなんて」
「そうだ」
「隠し通したつもりだったのだろう」
メフィストは、愉快そうに笑った。
「だが」
「歴史は嘘をつかない」
「人は痕跡を消せても」
「史実は消せない」
シュイは草原の彼方を見つめる。
「では、いよいよね」
メフィストは頷いた。
「全軍へ伝えろ」
将軍たちが跪く。
「草原王カヨウの御名において」
「王女ラゴウ奪還」
「ならびに」
一拍。
「王女を拉致したレザリア王アレクシス討伐を開始する」
「はっ!」
一斉に軍旗が翻る。
誰も疑わない。
誰もが。
正義の軍だと信じている。
メフィストだけが、静かに笑った。
◇ ◇ ◇
一方。
天宿へ続く山道。
三頭の馬が岩道を駆けていた。
馬は、朝から走り続けていた。
先頭を走るのはユイ。
「もう少しです!」
振り返って叫ぶ。
「この尾根を越えれば天宿です!」
後ろには青天。
そして。
最後尾を、アレクシスが走る。
草を裂き、河を越え、岩場を駆け抜ける。
右肩の傷が脈打つ。
肺が焼けるように痛い。
それでも。
止まれなかった。
西へ傾いた太陽が、ゆっくりと山の端へ沈んでいく。
もうすぐ日が落ちる。
そして。
赤い月が昇る。
アレクシスは、ふと空を見上げた。
胸の奥が、ひどく軋む。
――1年前。
あの日も、こんな月だった。
ラゴウの髪と同じ、赤銅色。
血を溶かしたような。
戦を告げる月。
王宮の塔。
風に揺れる赤い髪。
力を失った細いからだ。
宙へ踏み出した、白い足。
(・・・ラゴウ)
あの瞬間。
重力に引かれるように。
彼女は、空ではなく。
月へ落ちていったのだ。
――届かなかった。
王でありながら。
夫でありながら。
何ひとつ。
間に合わなかった。
あの夜。
ラゴウを救ったのは、自分ではない。
シキだった。
崖下へ誰よりも早く飛び込み、彼女の身体を抱きとめたのは。
自分ではなく。
あの男だった。
拳へ力が入る。
(またか)
胸の奥で、声がする。
(また、間に合わないのか)
その言葉を振り払うように。
アレクは手綱を強く打った。
赤毛の軍馬が大地を蹴る。
土煙が舞い上がる。
一瞬で、青天とユイを置き去りにした。
「陛下!」
青天が叫ぶ。
「まだお身体が――!」
返事はない。
ただ、風を切る音だけが遠ざかっていく。
右肩の傷が裂ける。
包帯の内側で血が滲む。
それでも。
止まらない。
止まれるはずがなかった。
赤い月が、ゆっくりと空へ昇り始める。
(ラゴウ)
今度こそ。
必ず。
あの女を守る。
アレクシスはさらに馬腹を蹴った。
軍馬は悲鳴にも似た嘶きを上げながら、山道を駆け上がっていく。
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございます。
127話は、いよいよ最終決戦の幕開けです。
カヨウ、メフィスト、アレク、シキ。
それぞれが、それぞれの「守りたいもの」のために動き始めました。
誰が正しくて、誰が間違っているのか。
その答えは、最後まで読んでいただけたら嬉しいです。
次話、天宿へ。




