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第126話 おれの草原王

 

 夜明け前だった。

 白み始めた東の空を背に、一頭の馬が草原を駆ける。

 赤い鬣と金色の双眸――その主と同じ色を分け合った草原の軍馬、赤焔である。

 蹄が露を蹴り、冷えた風を裂く。

 手綱を操るのはシキ。

 腕の中へラゴウを抱いていた。

 誰にも気づかれぬよう。

 誰にも追いつかれぬよう。

 王庭の裏道を抜け、草原の北西へ向かう。

 ラゴウは黙っていた。

 シキの胸へ身を預けたまま、遠ざかっていく草原を見つめている。

「・・・どこへ行く」

 しばらくして、小さく尋ねた。

 シキは前を向いたまま答える。

天宿てんしゅく。・・・フギの秘境だ」

 やがて草原は終わる。

 大地は岩肌へ姿を変え、切り立った断崖が幾重にも連なっていく。

 黒馬は迷うことなく、山腹へ刻まれた細い石道を登り始めた。

 雲が近い。

 風が変わる。

 草の匂いが消え、代わりに冷たい岩の匂いが満ちていく。

 やがて馬を下りた。

「ここからは歩く」

 シキはラゴウへ手を差し伸べる。

 二人は石段を登り始めた。

 一段。

 また一段。

 果てしなく続く石段は、まるで天へ届いているようだった。

 朝霧を抜けるたび、眼下の草原が少しずつ遠ざかる。

 雲を越えた、その時だった。

 世界が変わった。

 切り立つ山々の頂に築かれた、巨大な石の都。

 幾千年もの風雪を受けながら、なお崩れることなく佇む段丘。

 空へ向かって伸びる石柱。

 星を刻んだ祭壇。

 苔むした回廊。

 崩れた神殿。

 誰も住まなくなって久しいはずなのに、その場所だけは、不思議な温もりを宿していた。

 ラゴウは息を呑む。

 風が、石柱の間を吹き抜ける。

「建国以前」

 シキが語り始める。

「ジョカが最初に星を読み、フギが最初に天命を授かった場所だ」

 ラゴウは黙って耳を傾ける。

「ここには王はいない」

「兵もいない」

「星を読み、命を記す者だけが暮らしてきた」

 シキは遥か彼方、雲海の向こうへ目を向けた。

「草原では、こう伝えられている」

 静かな声だった。

「星は天宿へ還り、王は天宿より生まれる」

 風が吹く。

 その言葉は、まるで何千年も前から、この場所に残されていた祈りのようだった。

 石造りの小さな社の前。

 一本の老樹へ寄り添うように、一人の老婆が立っている。

 白髪は朝日に透け、深く刻まれた皺には、長い時を見届けてきた穏やかさが宿っていた。

 縫天婆だった。

「ようやく来たか」

 その声に、ラゴウは思わず笑う。

「ばば様・・・」

 縫天婆は答えず、ゆっくりとラゴウの腹へ目を向ける。

 そして静かに頷いた。

「ちゃんと巡ってきたのぉ」

「神も」

「命も」

「王も」

 ラゴウは無意識に腹へ手を添えた。

「ここは神域じゃ」

 縫天婆は空を仰ぐ。

「カヨウも」

「メフィストも」

「容易には踏み込めぬ」

 少しだけ笑う。

「天宿とはの」

「神が人となる場所であり、人が神へ還る場所じゃ」

 ラゴウは首を傾げる。

「どういう意味だ」

 縫天婆は答えない。

 風が吹く。

 誰も、それ以上は語らなかった。

 雲の向こうでは、赤く染まった夜明けの月が、ゆっくりとその姿を薄くしていた。

「じき、夜が明ける」

 縫天婆が告げた。

 雲海の向こうで、朝日が山々を黄金色に染め始めた。

 シキは静かにラゴウを見た。

「しばらく、ここに隠れていろ」

「おまえは?」

ラゴウが尋ねる。

シキは、ゆっくりと石段の先を振り返った。

天宿へ続く唯一の道。

切り立った断崖。

雲海へ沈む長い石段。

「門へ行く」

短く答える。

「門?」

「ああ」

風が吹く。

石柱に刻まれた古い星紋が、朝日に淡く浮かび上がった。

「あそこが天宿へ至る唯一の道だ」

「建国の頃より、フギが代々守ってきた」

「神域へ入る資格なき者は、一歩たりとも通さぬ」

シキは静かに続ける。

「花嫁が消えたとなれば」

「カヨウは狂ったように、おまえを探す」

「メフィストも動くだろう」

「やがて、この門へ辿り着く」

長い沈黙。

「だから」

「ここで止める」

ラゴウの胸がざわつく。

嫌だった。

理由は分からない。

ただ。

その横顔が。

もう二度と戻らない人間のように見えた。

雲が石柱の間を流れる。

「・・・嫌だ」

思わず口をつく。

「行くな」

シキは困ったように笑う。

「そんな顔をするな」

シキは小さく笑う。

「そういえば」

「いつだったか、言っていたな」

 ラゴウは首をかしげる。

「何を?」

「おれが」

「どんな目をしているのか、と」

「封呪布に、触れた」

 その瞬間、記憶がよみがえった。

 レザリアの王宮で。

 弓と剣の型を教わっていた時。

「興味があるのかと聞いたら、それなりに、と答えた」

「おまえ、後悔するからやめておけって言っただろ」

「・・・ああ」

 シキは静かに頷く。

 長い沈黙。

 シキの手が、黒い封呪布へ触れる。

「おまえが生まれた日」

 低い声だった。

「おれは」

「視ることを捨てた」

 ラゴウの息が止まる。

「・・・なんで」

 シキは空を見上げた。

「フギの眼は、神の核を見る。ジョカの魂が近くにあれば、共鳴してしまう」

「・・・共鳴」

 ラゴウが小さく呟く。

 覚えている。

 レザリアの王宮で、近衛隊の選抜の前に、シキと剣を重ねて稽古したとき。

 一度だけ。

 まるでひとつになったような、不思議な感覚に襲われた。

 浸食されるような、なにかひどく悪酔いしたあとのような。

「・・・あの時の感覚?」

「アレは序の口だな」

 風が吹く。

 封呪布の端が、かすかに揺れる。

「もし、おれがおまえを見れば、おまえはラゴウではなく」

「ジョカとして目覚める」

「幼い身体では」

「魂ごと砕けていたかもしれん」

「・・・わたしを守るために視覚を封じたのか」

 シキは笑う。

「まあ、それもあるが」

 縫天婆が、あきれたように口をはさんだ。

「こやつは、単純に、おぬし以外の王を見たくなかったのじゃ」

 ラゴウの瞳が揺れた。

 静かな声だった。

「おれが跪く王は」

「最初から」

「おまえ一人だ」

 風が止む。

 長い年月、誰にも触れさせなかった封呪布へ。

 シキは静かに指を掛ける。

「だが」

「もう、おまえは大丈夫だ」

「アレクシスと出会い、仲間と出会い、悲しみも、喜びも知った」

「おまえは、ジョカではない」

「ラゴウとして、生きている」

 さらり、と。

 黒い布が肩へ滑り落ちた。

 朝日が、その瞳を照らす。

 ラゴウは、息を呑んだ。

 高く通った鼻梁。

 薄く結ばれた唇。

 その横顔は、人というより、古い神像を彫り起こしたようだった。

 作られた美しさではない。

 長い時だけが削り出した静謐だった。

 そして。

 ゆっくりと。

 閉ざされていた双眸が開く。

 夜明けだった。

 紫黒の虹彩。

 その奥には、まだ夜が残っている。

 だが、ただ暗いのではない。

 星だった。

 幾千もの星々が、静かな水底へ沈んでいるようだった。

 ラゴウは、その瞳から目を離せない。

 吸い込まれる。

 違う。

 呼ばれている。

 胸の奥。

 魂のもっと深い場所。

 名もない核が、小さく震えた。

 花として生きた記憶。

 獣として駆けた記憶。

 男として笑った記憶。

 女として泣いた記憶。

 何百もの輪廻。

 何千年もの別れ。

 そのすべてが、静かな湖面のような双眸の奥で、なお生き続けていた。

 ――伏羲の瞳は、神の魂を映す鏡。

 見つめ合えば、神は神を思い出す。

 その瞬間だった。

 世界から音が消えた。

 風も。

 鳥も。

 木々も。

 すべてが遠ざかる。

 ただ。

 シキの瞳だけが。

 何千年もの時間を越えて、自分だけを映していた。

 沈む。

 止められない。

 底のない闇の中へ没入していく。

 堕ちてゆく感覚に全身が支配されそうになった時、ふいにシキの声がラゴウをすくいあげる。

「大丈夫だ」

 はっとして、ラゴウは正気に戻る。

「おまえは、おまえのままだ」

 ラゴウは、シキを見つめる。

 見つめれば見つめるほど。

 胸の奥で、何かが目を覚ましていく。

 金色の瞳から、ぽろぽろと、涙がこぼれた。

 シキはゆっくりと目を伏せる。

「泣くな」

「だって・・・シキ・・・なんで、こんなに苦しいんだ」

 声が震えた。

「新しい名で呼べ」

「・・・四季」

「お前がおれに押し付けた約束を、忘れるな」

 シキが笑う。

 紫黒の双眸は、闇も光も呑み尽くすような底なしの静謐を抱えている。

「いつか、ここではない、どこかで。お前に会えたら」

「遊ぼう」

 何に捕らわれず、縛られず、美しい季節とともに巡り生きる存在になれと。

「フギの宿命の桎梏から、おれを解放したのは、おまえだ」

 シキは、ゆっくりと片膝をついた。

 それは臣下の礼ではない。

 伏羲が、女媧へ捧げる、神代最古の誓い。

「お前がくれた名で生きる。お前がくれた約束を忘れぬ」

 跪いたまま、シキはラゴウを見つめて、言う。

「おれの」

 長い沈黙。

「草原王」


ここまで読んでくださり、ありがとうございます。

ずっと封じられていたシキの眼帯が、ようやく外れました。

彼が視覚を捨てた理由。

そして、ラゴウだけを王として見続けた理由。

この物語の中でも、大きな転換点になった回です。

次回、舞台は再び王庭へ。

いよいよ最後の戦いが始まります。

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