第125話 開錠
重々しい錠前が、低い音を立てて外れた。
錆びついた鉄格子が、ゆっくりと軋みながら開いていく。
差し込んだ光が、長く閉ざされていた地下牢を白く染めた。
アレクシスは壁に手をつき、ゆっくりと身体を起こす。
全身が鉛のように重い。
右肩から先には、今も焼けつくような痛みが残っていた。
毒が全身へ回る寸前、右腕を失う覚悟まで決めた。
命は拾った。
だが、その代償は決して小さくない。
傷口は塞がっていても、失われた血と体力までは戻っていなかった。
膝が折れそうになる。
それでも、アレクは歯を食いしばる。
ふらつきながらも一歩踏み出し、ようやく顔を上げる。
「・・・青天か」
牢の向こうに立つ男は深く頭を下げる。
「お迎えに参りました、レザリア王」
青天の声には、いつもの冷静さがあった。
だが、その奥底には隠しきれない焦燥が滲んでいる。
その背後から、小柄な影が飛び出す。
「陛下ぁ!」
ユイだった。
涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら駆け寄ってくる。
「ご無事ですか!」
「問題ない」
アレクシスは短く答え、ユイも頷いた。
三人は地下牢を抜け、薄暗い石造りの回廊を足早に進む。
アレクは歩きながら、青天の横顔を見た。
硬い。
嫌な予感がした。
「何があった」
青天は足を止めないまま答える。
「北方で異変が起きています」
「異変?」
「メフィスト様が軍を動かしました」
アレクの眉がわずかに動く。
「どこへ向かった」
「妲己領です」
その名を聞いた瞬間、アレクは立ち止まった。
「・・・ダッキ領?」
青天も足を止め、低く告げる。
「国境一帯に兵を集結させています。確認できただけでも十万」
「十万・・・」
その数字だけで十分だった。
威嚇ではない。
侵攻だ。
「草原を制圧するつもりか」
「おそらく」
アレクシスは、静かに息を吐く。
「・・・なぜ今。どんな大義名分で草原を侵略する気だ」
青天は首を横に振る。
「まだ分かりません」
「それに」
ちらり、と青天はユイを見た。
「ラゴウ様に危険が」
アレクシスの冷えた眼がユイを捉える。
「説明しろ」
「あのですね、あの・・・」
なにをどう伝えるべきか、要領を得ない。
「少なくともカヨウは彼女を傷つけないはず。バテレノアの総監が、監獄を離れてまでここに来た理由はなんだ」
青天が言う。
「シキ様が、ラゴウ様をあなたに託すと」
「なんだと?」
「ジョカの星杖が、新しい王を示したのです」
「なんの話だ」
「姫様のお腹に赤ちゃんがいるんです!」
ユイのその一言で、時間が止まった。
アレクの思考は、一瞬だけ真っ白になる。
「草原王は、姫様に異様に執着しています・・・でも、同じだけ・・・」
「草原王の座を奪われることを恐れています」
アレクの瞳が大きく見開かれる。
胸の奥で、今まで信じていた一つの前提が、音を立てて崩れた。
(違う・・・)
カヨウは、ラゴウを傷つけない。
そう思っていた。
「姫様が・・・殺されます!」
アレクは弾かれたように駆け出す。
「青天!」
「はっ!」
「ラゴウのもとへ!」
◇ ◇ ◇
草原との国境。
見渡す限りの草原に、無数の軍旗が翻っていた。
黒い軍馬が地を踏み鳴らし、鎧の擦れる音が朝靄を震わせる。
ダッキ族の精鋭を先頭に、メフィスト軍は静かに進軍の刻を待っていた。
その隣へ、一人の女が歩み寄る。
艶やかな黒髪。
黄金の装身具。
妲己族の王女――シュイだった。
彼女は草原を見下ろし、小さく笑う。
「見事な軍勢ね」
メフィストは地図から目を離さない。
「兵の数に見惚れるのは三流だ」
「では、一流は?」
シュイが面白そうに問い返す。
メフィストはゆっくり笑った。
「兵を動かす前に」
「王を動かす」
沈黙。
シュイは視線を細める。
「草原王を殺す気?」
「ああ」
「王が死ねば、三族は互いを疑い合う。疑心は争いを生み、争いは国を滅ぼす」
シュイは草原を見つめた。
その瞳には恐怖よりも。
期待が宿っていた。
「その後は?」
メフィストが横目で見る。
「その後?」
「草原には王が必要でしょう」
一拍。
「空いた玉座には」
「誰が座るの?」
メフィストは笑う。
「興味があるか」
シュイは答えない。
だが。
その沈黙だけで十分だった。
草原を統べる王。
いや。
女帝。
幼い頃から、一度だけ夢見たことがある。
カヨウが死ねば。
ラゴウが消えれば。
自分にも、その資格はある。
メフィストは、シュイの心を見透かしたように笑う。
「夢を見ることは悪くない」
「叶うかどうかは別だが」
シュイは唇を歪める。
「試す前から諦める趣味はないわ」
その返事に。
メフィストは満足そうに頷いた。
「いい返事だ」
その時。
黒鴉が舞い降りる。
メフィストは小さな書簡を受け取った。
目を通す。
そして。
静かに笑う。
「神が動いた」
シュイが眉を上げる。
「神?」
「ジョカの星杖が鳴った」
「・・・!」
「次代の王が宿ったらしい」
シュイは目を見開く。
「誰に」
メフィストは楽しそうに答える。
「ラゴウだ」
沈黙。
次の瞬間。
シュイは小さく息を吐く。
「カヨウは狂う」
メフィストが笑う。
「そして」
「兄上は走る」
シュイが目を細める。
「レザリア王?」
「ああ」
「あの女を救うためなら、必ず牢を出る」
メフィストは静かに立ち上がった。
「王とは」
「敵を倒す者ではない」
「敵に剣を抜かせる者だ」
風が吹く。
軍旗が一斉にはためく。
メフィストは草原を見つめた。
「さあ」
「踊れ」
「アレクシス」
「そして」
シュイを一瞥する。
「夢を見るがいい」
「未来の女帝よ」
お読みいただき、ありがとうございます。
今回は、止まっていた歯車が一気に動き始める回でした。
アレクは牢を出て、メフィストは盤面を動かし、シュイもまた「女帝」という夢を抱き始めます。
ここから終盤は、それぞれの思惑がぶつかり合っていきます。
次回もよろしくお願いします。




