第124話 届かぬ剣
カァァァン――。
ジョカの星杖は、なおも夜空を震わせていた。
黄金の環が鳴るたび、草原中から言葉が消えていく。
神は、沈黙を破った。
その意味を理解した者ほど、顔を青ざめさせた。
◇ ◇ ◇
――「星は巡る。」
「河は巡る。」
「草は巡る。」
「命は巡る。」
草原の風が、ゆっくりと石柱を撫でた。
「王もまた、巡る。」
その言葉とともに、カヨウは玉座を降りる。
腰に佩いた王剣を抜き、星杖の前へ静かに置いた。
王権を神へ還す。
それが星還祭最大の作法だった。
――ラゴウの顔色が悪い。
シキは早くから気づいていた。
祭祀に焚く香木は数十種類にもおよび、丘の天幕は不思議な匂いに満たされる。
ラゴウが口元を押さえた。
無意識に、立ち上がっていた。
肩を支える。腰に手を回した。
ぐったりと、ラゴウは身を預けてくる。
草原王の女に触れる、そんな禁忌は意味を成さなかった。
そのまま抱き上げ、天幕を出ようとした。
沈黙。
誰も声を発しない。
本来なら、このまま儀式は終わる。
星杖は何も語らない。
神が沈黙すること。
それこそが現王を認める証だからだ。
誰もが、そう信じていた。
そのときだった。
カァァァン――。
澄み切った金属音が、夜空を裂いた。
黄金の環が、自ら震えている。
一度。
そして、もう一度。
草原を渡る風が、不意に止む。
天幕の外では、篝火だけが赤く揺れていた。
誰もが息を潜めた。
カァァァン――。
静寂を押し広げるように。
遥か彼方、草原の中心に立つジョカの星杖からだった。
その金環が、鳴っている。
「・・・なぜ」
低く漏れた声。
草原王カヨウだった。
その美しい双眸が、夜空の向こうを見据える。
「なぜ、今、星杖が鳴る」
誰も答えられない。
いや。
答えられなかった。
ひとりの老将が、青ざめた顔で膝をつく。
「ま・・・まさか・・・」
喉が震えている。
「伝承では……」
「歴代の草原王は……」
「その御母君の胎に根づいた夜、星杖が金環を鳴らし、草原へ新たな王の誕生を告げた、と」
沈黙。
その場の空気が凍りつく。
カヨウの瞳だけが、ゆっくりと細められた。
「・・・新しい王?」
呟く。
理解が追いつかない。
新しい王など、いるはずがない。
王は、自分だ。
草原王は、自分ひとりだ。
そのときだった。
脳裏を、わずかな記憶の断片がよぎる。
侍従たちからの、報告の数々。
「雨季明けから、体調が思わしくないご様子です」
「公開処刑が未遂に終わって以降、シキ様がラゴウ様のおそばを片時も離れないのです」
「月の巡りがお悪いのかも・・・無意識に腹部をかばうような仕草をなさって」
そして、つい先刻。
あの一瞬。
あの違和感。
「・・・違う」
かすれた声が漏れる。
「まさか」
鼓動が早まる。
「姉上・・・」
呼吸が止まる。
ジョカの星杖は、新しい王の出現を示した。
金環が鳴ったのは、まぎれもなくその証。
そして。
すべてが繋がってゆく。
――懐妊。
星杖だけが鳴り続ける。
カァァァン――。
カァァァン――。
まるで草原中へ告げるように。
新たなる王が、母の胎に宿ったのだと。
カヨウは、しばらく動かなかった。
やがて。
その唇が、ゆっくりと歪む。
笑っている。
だが、その瞳には狂気しかない。
「僕以外の王・・・?」
小さく呟く。
「認めない」
首を横へ振る。
「そんなもの」
「生まれてはいけない」
静かだった。
怒鳴りもしない。
泣きもしない。
「ラゴウ」
愛おしむように、その名を呼ぶ。
「永遠に僕のものにするには」
一拍。
「もう、あなたを殺すしかないんだね」
その瞬間だった。
夜空へ向かって鳴り響いていた星杖の金環が、最後にもう一度だけ、高らかに響いた。
カァァァン――。
それは祝福の鐘であるはずだった。
だがその音は、これから始まる婚礼の惨劇を告げる、弔鐘のようにも聞こえた。
◇ ◇ ◇
「・・・っ」
天幕へ戻るなり、ラゴウは口元を押さえた。
濃厚な香が、まだ肺の奥へ残っている。
胃がひっくり返るようだった。
シキは何も言わない。
静かに肩を支え、そのまま寝台へ横たえた。
「水を」
ラゴウは少しだけ口に含み、小さく息を吐いた。
「・・・悪い」
「謝るな」
短く返す。
その声は、いつも以上に硬かった。
シキは天幕の入口へ目を向ける。
祭壇では、まだ混乱が続いている。
だが、それも長くはもたない。
「来る」
低く呟く。
ラゴウが顔を上げた。
「誰が」
「カヨウだ」
一瞬だけ。
天幕の空気が凍った。
シキは静かに続ける。
「気づかれた」
ラゴウは目を閉じる。
そのときだった。
勢いよく天幕が開く。
「姫様!」
飛び込んできたのはユイだった。
その後ろから、青ざめた顔の青天が続く。
シキは、そのまま振り向かずに言った。
「ラゴウを逃がす」
「えっ?」
「カヨウが気づいた」
「どういう意味ですか」
「腹に子がいる」
ユイが黙る。
「・・・うそ」
涙がこぼれる。
「ほんとは・・・」
笑うはずだった。
飛び跳ねて。
ラゴウへ抱きついて。
『おめでとうございます!』と叫ぶはずだった。
なのに。
「よりにもよって・・・」
震える声。
「カヨウ様との婚礼の前日に妊娠が分かるなんて・・・」
笑おうとして。
笑えなかった。
「ジョカの星杖は、次代の王を告げた。だがカヨウは、新しい王など認めないだろう」
「えっ・・・でももしかして、このまま姫様を諦めてくれるって選択肢は」
「本気で言ってるのか」
「だってどうすればいいんですか!草原王の逆鱗に触れて、無事だった人間なんていませんよ!!」
ユイが泣きそうな顔で叫ぶ。
「青天」
「地下牢を開錠しろ」
低くシキが言った。
青天の表情が強張る。
「・・・何をおっしゃいます」
「封印を解け。その詠唱を知る者は、バテレノア監獄総監であるおまえだけだ」
「・・・そのために、ユイをわたしのもとに寄越したのですか」
天幕に沈黙が落ちた。
青天は低く首を振る。
「できません」
「草原王の勅命なくして、王庭の地下牢を開けることは法に反します」
ユイが青天を見る。
「青天・・・」
しかし青天は動かない。
「わたしは監獄総監です。法を曲げれば、監獄は監獄でなくなる」
静かな声だった。
その声に迷いはない。
だからこそ、重かった。
シキはゆっくりと振り返る。
「法を守ればいい」
青天が目を見開く。
「・・・?」
「おまえが守るべきは、王の命令ではない」
「法そのものだ」
青天の眉が寄る。
シキは静かに続けた。
「法は何のためにある」
「国を守るためか」
「王を守るためか」
「違う」
一拍。
「民を守るためだ」
遠くで。
カァァァン――。
星杖の鐘が、まだ夜空へ響いている。
シキはその音へ耳を澄ませた。
「神は」
「すでに答えを出した」
青天は星杖の音を思い出す。
黄金の環。
沈黙を破った神。
あの瞬間。
自分も確かに見た。
神意を。
「・・・しかし」
「アレクシスは今や敵国の王です」
シキは静かに頷く。
「ああ」
「だからこそ託せる」
ユイが顔を上げた。
シキはラゴウを見つめたまま言う。
「おれは、カヨウを斬れぬ」
「フギの盟約がある」
「おれの弓も、剣も、カヨウには届かぬ」
その声に、初めてわずかな苦さが滲む。
「抗うことはできる」
「時間も稼げる」
「逃がすこともできる」
「だが」
長い沈黙。
「守り切れぬ」
ユイが息を呑む。
初めてだった。
シキが、自らの限界を口にしたのは。
「カヨウは、腹の子ごと、ラゴウを殺す」
その言葉に、天幕の空気が凍る。
ユイは思わずラゴウを見た。
眠るように目を閉じたまま、無意識に腹へ手を添えている。
涙が滲んだ。
「じゃあ」
震える声。
「どうすればいいの」
シキは迷わなかった。
「ラゴウを託せるのは」
一拍。
「もう、あの男しかいない」
青天が低く言う。
「脱獄を見逃しただけでは飽き足らず、今度は自ら助けろと」
シキは静かに頷いた。
「ああ」
「盟約にも」
「草原の法にも」
「あの男だけは縛られぬ」
遠くで星杖が鳴る。
カァァァン――。
その音が、まるで神の後押しのように響いた。
ユイは青天の前へ進み出る。
「青天」
そして深く頭を下げる。
「お願い」
「もう、結婚してなんて言わない」
青天が目を見開く。
「あなたを困らせない」
「真面目に仕事する。つまんないからって逃げない」
「一生、あなたの右腕として働く」
「だから・・・」
涙が落ちる。
「お願い」
「アレクシス様を助けて」
長い沈黙だった。
青天は拳を握る。
監獄総監として。
法を守る男として。
今まで何百人もの罪人へ判決を下してきた。
その自分へ。
シキは静かに言った。
「青天」
「おまえは監獄総監だ」
「罪人を閉じ込める男ではない」
「未来を守る男だ」
その言葉に。
青天はゆっくりと目を閉じた。
星杖の鐘は、なおも夜空へ響いている。
神は、すでに答えを示した。
ならば。
法とは。
誰のためにある。
青天はゆっくりと顔を上げる。
その瞳から、迷いは消えていた。
「・・・承知しました」
静かに。
しかし確かな声で告げる。
「地下牢の封印を解きます」
お読みいただき、ありがとうございます。
今回のテーマは「託す」でした。
守れない者が、守れる者へ未来を託す。
シキ、ユイ、青天、それぞれの決断を書いた回です。
次回も引き続き読んでいただけると嬉しいです。




