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第122話 新しい名前

 

 沈黙。

 やがてシキは地図を広げた。

 その指先は、草原北東――ダッキ領を指していた。

「懸念がある」

「懸念?」

「メフィストだ」

 ラゴウの表情が険しくなる。

「動いたのか」

「ああ」

「間者から報告が入った」

「ダッキ領へ兵が集められている」

「食糧」

「軍馬」

「矢」

「攻城具」

「どれも婚礼だけでは説明がつかない量だ」

 ラゴウは地図へ視線を落とした。

「・・・戦の準備」

「そうだ」

 シキの声は低い。

「メフィストは最初から、カヨウを利用する気だ」

「利用って」

「カヨウは、おまえが欲しい」

「草原王として認められたい」

「だが、メフィストは違う」

 指先がゆっくりとナイルート川をなぞる。

「欲しいのは草原そのものだ」

「河」

「交易路」

「西方諸国との交易権。・・・全部だ」

「・・・草原を」

「併呑するつもりか」

「ああ」

 シキは迷いなく答えた。

「だから、メフィストはまだ軍を動かさない」

「なぜなら」

「草原王が死ぬ、その瞬間を待っているからだ」

 ラゴウの背筋に冷たいものが走る。

「カヨウが死ねば」

「『レザリア王が同盟国の王を討った』」

「そう草原中へ触れ回る」

「報復を名目に軍を動かす」

「その時には」

「草原は、すでに内側から割れている」

 天幕に沈黙が落ちた。

「メフィストが欲しいのは、戦ではない」

「支配だ」

「同盟を壊し、草原を内側から裂き、最後に、混乱を鎮める王として玉座に座る」

「それが、あの男のやり方だ」

 やがてシキは静かに目を閉じる。

「だから、アレクシスはカヨウを殺すなと言った」

 その一言で、ラゴウはようやく理解した。

 アレクシスが相手にしているのは、狂気に支配された草原王ではない。

 その狂気すら利用し、国ひとつを呑み込もうとする男――メフィストなのだ。


 ◇ ◇ ◇


 婚礼の準備は、着々と進んだ。

 日の落ちた草原。

 天幕の中で、ラゴウは鏡の前へ座っている。

「よくお似合いでございます」

「婚礼が待ち遠しいですね」

 祝いの日のために婚礼衣装を合わせに来た女官たちが、口々に言う。

 白銀の飾布。

 金糸の刺繍。

 薄絹。

 婚礼衣装は、まるで生贄を飾るように豪奢だ。

 長い赤髪には、金細工が編み込まれている。

 白い首筋。

 露わな肩。

 紅を引かれた唇。

 ラゴウは、鏡越しに小さく笑う。

「・・・毒々しいくらいに派手だな・・・趣味が悪い」

「カヨウのために着飾ることになるとは、皮肉だな」

 低い声が返る。

 いつの間にか。

 黒衣の男が、背後へ立っていた。

 長い黒髪。

 閉ざされた双眸。

 シキだった。

 夜の草原を、風が渡っていた。

 巨大な天幕の中で、篝火が揺れている。

 香木の煙。

 獣革。

 酒。

 草原特有の乾いた匂い。

 ラゴウは、思わず目を細めた。

「・・・おまえ」

 低く漏れる。

「その格好、初めて見た」

 シキは、答えない。

 深い藍の外套。

 銀糸の刺繍。

 草原王家へ仕えるフギの長だけが纏う、古い式装束。

 長い黒髪は緩く結われ、耳元には古代草原式の銀飾りが揺れる。

 まるで。

 古い神話から抜け出してきた、草原そのものの化身のようだった。

「月蝕が近い。草原王の天幕で星読みの祭祀がある」

 ラゴウは、じっとその顔を見る。

 それから、ふっと笑った。

「・・・おまえ、いい男だな」

 沈黙。

 篝火が、ぱちりと鳴る。

 シキは、わずかに目を細めた。

「なら」

 低い声。

「少しは揺れてみせろ」

 ラゴウの笑みが止まる。

 篝火が揺れる。

 遠くで、草原の風が鳴っていた。

 やがて。

 ラゴウは、小さく笑う。

「・・・もし」

 一拍。

「もし、<向こう>の世界でおまえと会えたら」

「一緒に遊ぼう」

 シキがわずかに首をかしげる。

「なんだと?」

「春は花見をしよう」

「夏は浴びるほど麦酒を飲んで」

「秋はうまい食い物を奪い合う」

「冬はバイクで夜景を見る」

 シキは、黙ったままだ。

 ただ、黒い眼帯の奥で、ラゴウを捉えて離さない。

 ラゴウが、真っ直ぐ、シキを見る。

「・・・なあ」

 低い声。

「おまえに新しい名前をやるよ」

 空気が止まる。

 シキが、息をのむ。

「おまえは、“四季”だ」

 ラゴウが言う。

「巡れ」

「変われ」

「生きろ」

「何にも縛られるな」

「カヨウにも、わたしにも」

 風が、天幕を揺らした。

「おまえは自由になっていい」

 長い沈黙。

 やがて。

 シキの喉が、小さく鳴る。

「・・・どの口が、自由などとほざく」

 掠れた声だった。

「おまえは、いつも」

 そこで、言葉が途切れる。

 ラゴウが、目を細めた。

「なんだよ」

 シキは、ゆっくり顔を伏せた。

 長い黒髪が、影を落とす。

「・・・永遠に、おれを捕らえるくせに」

 ラゴウの瞳が、わずかに揺れる。

 だが。

 次の瞬間には、いつものように笑った。

「ばーか」

 軽く言う。

「これは盟約じゃない」

「支配でもない」

 一歩。

 シキへ近づく。

「ただの約束だ」

 金の瞳が、悪戯っぽく細められる。

「気が向いたら、遊ぼうぜってくらいの」

 その瞬間。

 シキの胸の奥で。

 何千年も凍りついていた何かが、静かに軋んだ。

 長い沈黙だった。

 やがて。

 シキが、低く息を吐く。

「・・・おまえは」

 掠れた声。

「本当に、勝手な女だな」

「知ってる」

 ラゴウは笑った。

 そのとき。

 ふいに。

 シキの指先が、ラゴウの頬へ触れた。

 そっと。

 壊れ物を扱うように。

 封呪布に隠された視線は見えない。

 なのに。

 ひどく、見つめられている気がした。


 ――かつて、こんなふうに触れたことはなかった。


 ジョカが。

 花だった時も。

 獣だった時も。

 男だった時も。

 少女だった時も。


 何度も見つけた。

 何度も名を呼んだ。

 何度も失った。

 それでも。

 こんなふうに、触れたことはなかった。

「・・・感情とは、厄介なものだな」

 ひとりごとのように、シキは呟く。

 ――本来なら。

 とうの昔に失われているはずだった。

 フギの長は、永き時を生きる代償として、感情を喪う。

 それは罰ではない。

 救いだ。

 怒りも。

 悲しみも。

 執着も。

 永遠に抱え続ければ、人は狂う。

 だから神は奪った。

 記憶だけを残して。

(・・・なのに)

 なぜだ。

 なぜ、おまえだけは。

 何千年という時を経て。

 今もなお。

 風が草を揺らすように。

 潮が月へ引かれるように。

 呼吸をするように。

 おれの中に在り続ける。

 恋ではない。

 愛でもない。

 もっと古く。

 もっと始まりに近いもの。

 おまえが、そこに在る。

 ただ、それだけで。

 おれという永遠は、形を保っていた。

「・・・四季、か」

 低く、呟く。

「いい名だろ」

 ラゴウは、悪戯っぽく笑った。

 風が、天幕を揺らした。

 篝火が、ぱちりと爆ぜる。

 シキの指が、ほんのわずかに震えた。

「おれが望んでいるのは」

 自由などではなく。

 ラゴウが首をかしげた。

「なんだよ」

 シキは、ゆっくりと手を離した。

「・・・いや」

 封呪布の奥で、見えない瞳が伏せられる。

「おまえが生きていれば、それでいい」

 ラゴウは一瞬、黙った。

 そして、困ったように笑った。

 短い沈黙。

 シキは知っていた。

 この女は、最後まで自分を縛るつもりなどない。

 だからこそ。

 永遠に、逃げられない。

 選ばれにまま。

 手に入らぬまま。

 ――それでもいい。

 ただ、そこに在ればいい。

 怒鳴って。

 笑って。

 傷ついて。

 誰かを愛して。

 馬鹿みたいに世界へ首を突っ込んで。

 そうやって、この女が目の前で生きているなら。

 それでいい。

 何千年も。

 何百回も。

 喪った数を数える代わりに。

 おまえと共に在った時間を数えよう。

 名を呼んだ回数を。

 笑い声を。

 怒鳴り声を。

 眠そうな返事を。

 馬を駆る背を。

 剣を振るう腕を。

 誰かを抱き締める熱を。

 そうやって。

 おまえが生きた時間で。

 おれは、この永すぎる命を測っていたのだ。


ここまで読んでくださり、ありがとうございます。

今回は、シキの話でした。

彼は最後まで、「恋だった」「愛していた」とは言わない男だと思っています。

もっと古くて、もっと静かなもの。

風が草を揺らすことや、潮が月に引かれることのように、あまりにも当たり前で、名前をつける必要すらない感情。

何千年もの輪廻を見送りながら、それでもジョカを見つけ続けた男だからこそ、恋愛という言葉では届かない場所に立っている気がします。

だからラゴウが与えた「四季」という名前は、彼にとって初めて「未来」を与えられた瞬間でした。

これまでは、ただ見送るだけだった永遠。

これからは、いつか訪れるかもしれない約束を抱いて生きる永遠。

その小さな違いが、シキという男を少しだけ変えたのだと思います。

いよいよ婚礼が、そして月蝕の夜が近づいてきます。

祝福の鐘が鳴る夜。

草原の運命が、大きく動き始めます。

引き続き、お付き合いいただけたら嬉しいです。

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