第118話 罠
草原王庭。
ダッキ領統帥府。
かつてカヨウの私室だった天幕は、今ではレザリア宰相メフィストの執務室になっていた。
一羽の鷹が窓辺へ舞い降りた。
脚には細い筒。
王家直属の間諜からの急報だった。
メフィストが封を切る。
紙を開く。
一行目を読んだ瞬間。
口元がゆっくりと吊り上がった。
「・・・見つけた」
向かいに座ったカヨウが、顔を上げる。
「何を」
「レザリア王です」
静寂。
「・・・なんの話だ」
カヨウの声が冷える。
「脱獄を」
「バテレノア監獄から?」
空気が凍る。
「馬鹿な!」
カヨウが立ち上がる。
「監獄総監は青天だ」
その名には重みがあった。
厳格。
実直。
私情を挟まず、草原の法だけを信じ、実行する男。
温厚そうな面差しとは裏腹に、一度罪人と定めれば決して情けをかけない。
バテレノア監獄を"脱獄不可能"と恐れられる場所へ変えた張本人でもある。
だからこそ。
「あり得ない」
カヨウは吐き捨てた。
「あの男が、自ら脱獄を許すはずがない」
メフィストは静かに首を振る。
「・・・しかし」
「監獄からは、何の報告も届いていない」
沈黙。
それが意味するものは一つだった。
――報告しなかった。
カヨウの瞳が細くなる。
「・・・隠蔽したのか」
その声には、失望と怒りが滲む。
「青天が」
「意図的に、黙認を」
メフィストは肩をすくめる。
「少なくとも」
「脱獄より先に、この情報が我々へ届くことはなかった」
「青天が、時間を稼いだのだろう」
静かな怒りが、玉座の間を満たしていく。
カヨウは拳を握った。
「・・・裏切ったか」
ぽつり、と漏れたその一言だけで、控えていた兵たちは思わず息を呑んだ。
草原王は、一度「裏切り」と断じた者を、絶対に赦しはない。
カヨウを横目に、メフィストは淡々と続ける。
「もっと興味深い報告がある」
書簡を裏返した。
もう一枚。
そこには監獄内の細かな聞き取りが記されていた。
『脱獄したのはレザリア王。
同日。
雑役の少年、1名失踪。
名は――鸞。
監獄内では配給係。
レザリア王へ毎日食事を運搬。
王より読み書きを学ぶ。
王の牢へ最も頻繁に出入りしていた人物』
メフィストが笑う。
「なるほど」
狂気じみた知略を巡らす一方で。
「兄は、情が深い」
「たかだか雑役の子どもひとり、見捨てられない性格らしい。おそらく、ともに連れて逃げたのだ」
カヨウは黙って聞いていた。
「つまり」
「この少年を足取りを追えば」
「王は自ら姿を現すはず」
静寂。
その時だった。
くすくす。
低く笑い声が響く。
「おもしろそう」
「罠を張りましょう」
柱の陰から、一人の女が姿を現した。
カヨウと同じ、白銀の髪。
血のように赤い瞳。
ダッキの王女。
シュイだった。
「探す必要なんてないわ」
「餌を吊るせば、勝手にやって来る」
メフィストが微笑む。
「同感です」
シュイは窓辺へ歩いた。
外を見る。
遠い空。
ぽつりと呟く。
「五年前、彼はレザリアの皇太子った」
半ば夢見るように、シュイは続ける。
「きれいだった」
沈黙。
「わたくしは、美しいものが好き」
――綺麗な綺麗な、異国の王子。
冷たい表情の、氷のような冴えた青い瞳の。
あの目に見つめられるのは、わたくしのはずだった。
あの手に抱かれるのは、わたくしのはずだった。
最上の儀礼と社交辞令をもって敬意を表したくせに、その実、わたくしには何の興味も関心も寄せなかった。
あの時、ラゴウはレザリアの正妃の座には興味の欠片もないらしく、謁見の場にも姿を見せなかった。
紅い瞳が細くなる。
「なのに」
「ラゴウを選んだ」
その声だけが、妙に静かだった。
――選ばれなかった。
この、わたくしが、負けた。
――ラゴウなどに。
ぎり、と。
窓枠へ長い爪が食い込む。
「許せない」
笑う。
壊れたように。
「ラゴウを見つめた目など」
「潰してしまえばいい。」
「ラゴウに触れた腕など」
「切り落とせばいい」
「ラゴウに愛を囁く喉なら」
「焼き潰してしまえばいい」
「わたくしのものにならないなら」
「壊してしまえばいい」
静寂。
誰も口を開かなかった。
メフィストだけが、わずかに目を細める。
(・・・壊れている。)
いや。
最初から壊れていたのかもしれない。
だからこそ都合がいい。
狂人ほど、目的は単純だ。
利用する側としては、これほど扱いやすい駒もない。
だが。
その狂気を見つめているうちに。
ふと。
別の女の姿が脳裏をよぎった。
金色の髪。
柔らかな微笑み。
幼い頃から兄の隣で笑っていた少女。
レザリアの聖女、カナリア。
最初から兄のものだと。
そう思っていた。
なのに。
彼女の純潔を奪ったのは、自分だった。
兄から。
未来から。
理想から。
すべてを奪いたかった。
だから。
奪い、汚し、蹂躙した。
そして。
聖女は自分の子を宿した。
それでも彼女は。
「あなたと生きる」
とは言わなかった。
「民のために生きたい」
そう言って。
自ら離れていった。
地位も。
富も。
王妃の座も。
望めば何でも与えられたはずなのに。
何ひとつ選ばなかった。
(・・・正しい判断だ)
二度と会うべきではない。
二度と抱くべきではない。
自分の隣に立つ資格があるのは。
シュイのように。
壊れた女なのだろう。
そう思った。
なのに。
思い出してしまう。
いつも自分を庇った兄。
その隣で笑っていた少女。
三人で語った。
理想の国。
――何を捨て。
――何を得た。
メフィストは静かに目を閉じた。
(・・・もはや)
(引き返せないところまで来てしまった)
カヨウが静かに口を開く。
「あの男は、すでに草原に侵入しているはず」
シュイがくすりと笑う。
「ラゴウを奪い返しに?」
「奪う?」
カヨウはゆっくりと首を傾げた。
「違う」
「姉上は、生まれる前から、ぼくの花嫁だ」
静かな声だった。
「草原王に選ばれた者は、ジョカの王女を娶る」
「それが草原の掟だ」
「姉上が誰を愛そうと」
「誰を選ぼうと」
「関係ない」
淡々と。
当たり前のことを語るように続ける。
「姉上は」
「ぼくのものだ」
「ぼくの隣で笑い、ぼくの子を産み、ぼくと共に草原を治める」
「それだけでいい」
もはや、恋情の果ての執着ですらない。
もっと根深い。
世界は、本来そうあるべきだと信じて疑わない。
狂信だった。
シュイは、その横顔を見つめて笑う。
「それでこそ、草原王だわ」
メフィストは書簡を畳んだ。
「では」
「始めよう」
静かな声だった。
「公開処刑の準備を」
「レザリア王が目をかけた少年を、生きたまま、王庭中央へ」
「必ず来る」
カヨウは微笑んだ。
その笑みには、慈悲など欠片もなかった。
「来なければ、その少年を焼き殺すのみ」
「来たなら」
カヨウの双眸が光る。
「ラゴウに触れた腕を折る」
「ラゴウを見つめた眼を潰す」
「ラゴウを呼んだ声を焼く」
「ラゴウの肌にふれたあの男の皮膚を剥ぎ、その生首を城門に晒してやる」
「姉上の、目の前で」
第118話「罠」を読んでいただき、ありがとうございました。
今回は久しぶりに敵側だけの回でした。
カヨウ、シュイ、メフィスト。
同じ陣営にいながら、三人とも見ているものがまったく違います。
カヨウは「掟」。
シュイは「執着」。
メフィストは「野望」。
同じラゴウを巡る争いでも、それぞれの狂気の形が違うのが、この章の面白いところだと思っています。
そして、ようやく罠が動き始めました。
アレクシスは頭のいい男なので、本来ならこんな分かりやすい罠には飛び込みません。
それでも飛び込む理由がある。
どうぞ最後まで見届けていただけたら嬉しいです。




