第117話 帰る場所
アレクシスは炭火に小さな鍋を掛けた。
乳を温める。
茶葉を入れる。
草原の香草をひとつまみ。
ゆっくりとかき混ぜる。
「商人の真似事まで覚えたのか」
ラゴウが苦笑する。
「旅では、自分で淹れるしかありませんでしたから」
湯気が立つ。
甘い香りが天幕に広がる。
木椀が二つ。
ひとつをラゴウへ差し出した。
「熱いので気をつけて。」
「・・・ありがとう。」
一口飲む。
温かかった。
不思議と肩の力が抜ける。
ふいに、アレクシスが言う。
「昔、あなたがこうやって乳茶を淹れてくれた」
「え?」
「髪が短かった。その頃は今のような赤銅色ではなくて、もっと明るい赤だった」
ラゴウが、目を見張る。
「手足が細くて、長くて、よく笑いよくしゃべりよく怒った」
「シキに、王女の名前も覚えてない失礼な男だと、憤慨しながら愚痴を言ってたんでしょう」
「・・・いつ気がついたんだ」
「最近」
「・・・アンタな。最初から気づいてた、とか、もう少しロマンのある嘘がつけないのかよ」
アレクシスが声をあげて笑った。
「ずっと気になっていたのは本当ですよ」
継母の奸計による、天幕への放火。
解毒のためにすぐに帰国したから、自分を助け出してくれた<少年>に礼を言うこともできなかった。
「実は、帰国後、密偵を使ってずいぶん探させたんです」
秘密を打ち明けるように、アレクは続ける。
「不思議なほど足取りがつかめなかった。・・・背中に火傷を負って、しばらく高熱が続いたとシキに聞きました。その後、数か月外出を禁じられて静養したと」
「そういえば、そうだったかも」
「ラゴウ」
アレクシスが、ラゴウの指に自分の手を重ねた。
「ありがとう」
「なんだ、今さら」
「我ながら、自分の鈍感さに嫌気がさしてます」
「王女の悪評ばっかりおもしろそうに気にしてた。当の本人が目の前にいるのに」
見つめ合って、笑う。
しばらく二人とも黙っていた。
やがてラゴウが口を開く。
「ひとつ聞いていいか。」
「もちろん」
「アンタ、本当は何をしに草原まで来た」
静かな問いだった。
「わたしを連れ戻すためか」
アレクシスは少しだけ考えた。
「最初は、そのつもりでした」
ラゴウは黙って続きを待つ。
「ですが」
「あなたを見て考えが変わりました」
「・・・?」
「あなたは、草原が好きでしょう。そして民はあなたを信じている」
「そのあなたを」
「わたしの都合だけで、連れ帰ることはできません」
ラゴウは乳茶を見つめる。
湯気がゆらゆら揺れている。
「じゃあ」
「何をしに来た」
アレクシスは静かに答えた。
「あなたが選べるようにするためです」
「選ぶ?」
「ええ」
「草原に残るのも、レザリアへ帰るのも、あなた自身が決めるべきです」
「誰かに奪われる未来ではなく」
「あなた自身が選ぶ未来であってほしい」
ラゴウは目を伏せた。
「だから」
「部族長を回るのか」
「はい」
「だからカヨウを殺すなと言った」
「はい」
「カヨウは大切な弟だ」
「知ってます」
すこし間をおいて。
「あなたを無理やり連れ帰ろうとは思いません」
沈黙が落ちる。
火だけが小さく鳴った。
「ただ」
アレクシスは乳茶を置いた。
「あなたが帰りたいと思った時、帰る場所だけは、必ず守ります」
「それが」
「今のわたしの仕事です。」
ラゴウは何も答えなかった。
湯気が立つ。
胸の奥まで温かい。
――帰る場所。
その言葉だけが、
いつまでも胸の中に残っていた。
アレクシスが小さく笑った。
「政治の話は、このくらいにしましょう。」
「そうしてくれ」
「今日は、もう一つ」
「あなたと話したいことがあります」
ラゴウが顔を上げる。
「なんだ」
「実は、鸞から聞きました。」
「・・・何を」
「あなたが、未来の話をしていたと。」
ラゴウが首をかしげる。
「未来?」
「家族の話です。」
「あ・・・」
「わたしとの子どもが欲しいと」
げほっ、とラゴウは盛大にむせた。
「・・・あいつ」
――余計なことを!
「いや、悪い。それはなかったことに」
「なぜ」
声音に不機嫌さがにじむ。
「その、これからどうなるか分からないし」
「なにがどうなっても、あなたとともに生きます」
「一緒に暮らせなくても、子どもを望んでも?」
アレクシスは静かに乳茶を口へ運んだ。
「草原には草原の民がいる」
「レザリアにも、王を待つ民がいる」
「どちらかを選べば、どちらかを捨てることになる」
「そう、思ってます?」
ラゴウがうつむく。
「・・・まあ」
アレクシスは少しだけ首を振った。
「それは違います。」
「・・・?」
「選択肢が二つしかないと思っているから、苦しいのです」
静かな声だった。
だが、その瞳だけが鋭く光る。
「ならば、第三の選択肢を作ればいい」
ラゴウは目を瞬いた。
「作る?」
「ええ」
アレクシスは地図を指先でなぞる。
「レザリアと草原は、もともと交易があります」
「春と秋には大商団が往復する」
「国境を越える道もある」
「街道も、橋も、港も。すべて、すでに存在しています。」
「・・・だから?」
「足りないのは制度だけです。」
アレクシスは迷いなく言った。
「草原王が一定期間レザリアへ滞在する」
「レザリア王が一定期間草原へ滞在する」
「あるいは、互いの国境に近いフェルンを交易同盟の地として行幸する形でもいい」
「それを両国の盟約として制度化します」
ラゴウが固まる。
「そんなこと・・・」
「あなたに会うためならなんだってします」
冗談でも言うように、アレクシスの声音は軽い。
ただ、目だけは、本気だ。
「前例がないだろう、そんなの」
「なら、最初の前例になればいい」
さらりと言った。
「一年の半分は草原」
「半分はレザリア」
「政務は側近へ委任する」
「急を要する案件だけ互いに出向く」
「伝令には早馬だけでなく鳩も使う」
「国境には常設の中継地を置く」
「双方の文官を交換し、同じ書式で政務を扱えるようにする」
「将来、子どもが生まれたなら」
アレクシスは少し笑う。
「草原も」
「レザリアも」
「両方を知る子になります。」
「それは両国にとって有益です」
ラゴウは思わず吹き出した。
「・・・よくそこまで考えたな」
「昨日の夜からずっと考えてましたから」
「昨日?」
「鸞から、あなたが私の子を望んでいると聞かされて、眠れませんでしたから」
二人とも笑う。
そして。
「ラゴウ」
「わたしは、あなたをレザリアへ閉じ込めたいわけではありません」
「あなたから草原を奪いたいわけでもない」
「あなたには、帰る場所が二つある。」
「ならば」
「二つとも守ればいい。」
静かな声だった。
「王とは」
「民に、選択を迫る者ではありません」
「民が選べるよう、道を作る者です」
「その道を作ることが、今のわたしの役目です」
「・・・アレク」
「まだなにか不安ですか」
「いや。・・・ただ、嬉しくて」
蜜色の双眸が潤んで、揺れる。
アレクシスの表情が、一瞬、固まる。
金色の瞳に吸い込まれそうだ。
が、次の女の言葉で、一気に現実に引き戻された。
「・・・まあ、そっか。ユイもいるし、シキもいるし・・・縫天婆は産婆でもあるしな」
ぞくり、と、背中に寒いものがはっきりと走った。
「・・・あのですね」
「なに?」
「シキに自分の子を任せるのも癪ですが、それ以上に」
「それ以上に?」
「あの侍女にわが子が世話されるのかと思うと・・・なにか末恐ろしいというか・・・」
珍しく、言葉を濁す。
「拷問器具を玩具にして遊ばせたりしそうで・・・かなり問題がある子どもに育つような気がするんですが・・・」
ユイが狂喜乱舞しながら赤ん坊と遊んでいる姿を想像して――ラゴウは思わず吹き出した。
その屈託ない笑顔を見つめながら、ふ、とアレクシスも笑う。
「わたしは」
それから、ラゴウの耳に顔を寄せて、からかうように囁いた。
「いつでも、何人でも、かまいませんよ」
ラゴウが赤面する。
「・・・ならいろいろ考えないと
「いろいろって?」
「だって家族計画は大事だろう」
「家族計画」
聞き慣れない単語を味わうように、アレクシスはおもしろそうに復唱する。
「どのタイミングで何人子どもを望むのか、とか」
「年齢差はどうするのか、とか」
「教育方針もすり合わせないと」
アレクシスは目を丸くする。
「いつもは猪突猛進で見切り発車ばかりしているのに、そういうことは慎重に考えるんですね」
「それはそうだろ、だって・・・」
言葉をふさぐように、アレクシスはラゴウに口づけた。
ついばむように、何度も、ラゴウの唇に触れる。
「何が心配です?」
「え?」
「財力ですか」
「違う」
「体力ですか」
「違う」
「形式ですか」
「違う」
アレクは頷いた。
「では問題ありません」
「え・・・」
「あなたの気が変わらないうちに子作りに励みましょう」
そのまま、ラゴウの身体を引き寄せる。
「ちょっ」
ラゴウが後ずさる。
アレクは構わず距離を詰めた。
「今から?」
「もちろん」
「もちろんって・・・!」
そのまま抱き上げられる。
「アレク!」
「はい」
「離せ!」
「嫌です」
「話を聞け!」
「聞いています」
全然聞いていない。
ラゴウは頭を抱えた。
そして気付く。
眠い。
ひどく眠い。
アレクシスに触れたら余計に眠気が増した気がする。
最愛の男の体温。すさまじい安心感。
抱き上げられたまま寝台へ運ばれる。
「アレク」
「なんです」
「なんか」
言葉が途切れる。
「眠い」
アレクシスが止まった。
「・・・またですか」
「うん」
「あなた、やはりどこか体調がおかしくないですか」
「そうかも」
ラゴウはそのままアレクの胸へ額を押し付けた。
心地良かった。
安心する。
アレクが何か言っている。
だが聞こえない。
意識が沈む。
「ラゴウ」
返事はない。
「ラゴウ」
すでに寝ていた。
沈黙。
「まったく」
腕の中のラゴウは幸せそうに眠っている。
結局。
その夜も何もできなかった。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
今回書きたかったのは、「連れ帰る」のではなく、「帰る場所を守る」というアレクの答えでした。
王として、夫として、どうすればラゴウが自分の意思で未来を選べるのか。
恋愛より先に仕組みを考え始めるあたりが、いかにもアレクらしい気がします(笑)。
……まあ、結局最後は「子作りしましょう」で全部台無しなんですが。
次回もよろしくお願いします。




